第169話 止まらない幻聴
演台に立つリリスが両手を掲げると、広場を埋め尽くした民衆から割れんばかりの歓声が上がった。
数千の瞳が、熱を帯びて彼女を見上げている。
かつては絶望に沈んでいた瞳だ。
だが今は、希望と、そしてリリスへの狂信的なまでの崇拝に満ちている。
「皆さんの汗が、この大地を蘇らせたのです!」
リリスの声が朗々と響き渡る。
よく通る、訓練された貴族の発声。
表情筋の一つ一つまで計算し尽くされた、慈愛に満ちた微笑み。
「私たちの復興は、まだ始まったばかりです。競争し、高め合い、そして豊かな明日を掴み取りましょう!」
わぁぁぁ、と波のような歓声が彼女の言葉を飲み込む。
リリスは胸の前で手を組み、感極まったように目を潤ませてみせた。
完璧だ。
誰も疑わない。
この復興の礎となった支援金が、彼らの備蓄庫からもらったことを。
そして、目の前に立つ聖女が、その火を放った張本人であることを。
彼女はゆっくりと手を振りながら、内心で冷ややかに群衆を観察していた。
……単純ね
これほどの熱狂があれば、次の労働時間の延長も、容易に受け入れられるだろう。
彼らは自ら望んで、リリスという偶像のために身を粉にして働く。
それは、かつてリリスがカシリア殿下のためにそうしていたように。
皮肉な構図に、口元の笑みが深まる。
民衆はそれを聖女の慈悲と受け取り、さらに声を張り上げて彼女の名を呼んだ。
執務室の扉が重い音を立てて閉ざされた瞬間、リリスの膝から力が抜けた。
ふらつく身体を、革張りの椅子が受け止める。
仮面を剥ぎ取った顔には、聖女の輝きなど微塵も残っていなかった。
あるのは、隠しきれない隈と、泥のように澱んだ疲労感だけ。
机の上には、決裁を待つ羊皮紙の山が築かれている。
復興計画書、収支報告、新規事業の認可申請。
数字の羅列が、黒い虫の行列のように見えた。
リリスは震える手で羽ペンを取り、インク壺に浸した。
書かなければならない。
止まることは許されない。
この嘘を真実として定着させるまでは。
ペン先が紙を走る音だけが、部屋の静寂を刻む。
カリ、カリ、カリ。
その音が、次第に耳障りなノイズへと変わっていく。
……ナミスは?
ふと、視線を上げる。
部屋の隅に控えているはずの彼の姿がない。
そうだ、先ほど茶を淹れるために厨房へ下がらせたのだった。
たった数分。
それだけの不在が、耐え難いほどの不安となってリリスを襲った。
静かすぎる。
窓の外からは復興作業の槌音が聞こえるはずなのに、今はなぜか遠い。
代わりに、部屋の隅々から、ささやき声が聞こえる気がした。
『……あれが放火犯よ』
『騙されているんだ』
『薄汚い女』
『カシリア様も、お父様も、みんなお前を捨てたのよ』
リリスは弾かれたように顔を上げた。
誰もいない。
重厚なカーテンが揺れているだけだ。
だが、声は止まない。
耳元で、頭の中で、恐ろしい声が響き続ける。
『エリナ様の方がふさわしい』
『お前なんていらない』
『死ねばよかったのに』
「……ちがう」
リリスは両手で耳を塞いだ。
呼吸が浅くなり、冷たい汗が背筋を伝う。
誰かが裏で笑っている。
壁の向こうで、廊下の陰で、私の破滅を願う者たちが囁き合っている。
「ナミス……っ」
彼の名前を呼ぶ声が震えた。
彼がいなければ、私は輪郭を保てない。
この世界は敵意に満ちていて、私を引き裂こうと待ち構えている。
椅子から立ち上がろうとして、足がもつれた。
書類の山が崩れ、床に散らばる。
インク瓶が倒れ、黒い液体が絨毯に染みを広げていく。
それは、あの日流した涙のように、あるいは罪の汚泥のように見えた。
「いや……来ないで……!」
リリスは机の下にうずくまり、身体を小さく丸めた。
幻聴は、嘲笑へと変わり、私を取り囲む。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
その現実的な音が、幻聴の膜を切り裂く。
「リリス様?」
ナミスの声だ。
リリスは顔を上げた。
盆を手にした彼が、散乱した書類と、震える私を見て、瞬時に表情を引き締める。
彼は盆をサイドテーブルに置き、足を引きずりながらも素早く私の元へ歩み寄った。
「……ナミス」
「はい、ここにいます」
彼は躊躇なく床に膝をつき、机の下の私に手を伸ばした。
その手が、私の冷たい頬に触れる。
温かい。
幻覚ではない、確かな熱。
その熱が触れた途端、耳元のざわめきが波が引くように消え去った。
「……遅い」
「申し訳ありません」
「ずっと……ずっと待っていたのよ……」
私は彼の首に腕を回し、しがみついた。
インクで汚れた手で、彼の衣服を掴む。
ナミスは私を拒まない。
むしろ、壊れ物を扱うように慎重に、私を机の下から抱き出し、自身の胸に抱え込んだ。
「怖かったのですか」
「……誰かが、私の悪口を言っていたの」
「誰もいません。この部屋には、僕とリリス様だけです」
彼は私の背中を一定のリズムで叩きながら、断言した。
ナミスがいないと言うなら、いないのだ。
ナミスが大丈夫だと言うなら、大丈夫なのだ。
私は彼の匂いを深く吸い込み、乱れた呼吸を整えた。
「ナミス……もう、離れないで」
「離れません」
私は彼の腕の中で、ようやく浅い眠りにつくことができた。




