第168話 私の居場所
午後の日差しが、崩れかけた石壁の稜線を際立たせ、長く伸びた二人の影を雑草の生い茂る石畳に落としていた。
ガーナー領の公務を早めに切り上げ、私はナミスと共に、人目を避けるようにして旧領主の庭園跡へと足を踏み入れた。
足元で乾いた小枝が折れる音が、静寂を強調するように響く。
領主館の裏手に広がるこの場所は、かつては薔薇や噴水で彩られていたのだろうが、今は蔦と風化に支配された、美しい廃墟と化していた。
「……足は、痛みませんか」
私は隣を歩くナミスを見上げ、問いかけた。
彼は古びた樫の杖をつき、ゆっくりとした歩調で私に合わせていた。
昨夜、私を抱き上げた力強さが嘘のように、その一歩一歩には慎重さが滲んでいた。
「ええ。リリス様が支えてくださっていますから」
ナミスは穏やかに微笑み、私の腕に添えられた彼の手、温かく、大きな手に、わずかに力を込めた。
痩せ我慢してるでしょう。
両足を砕かれ、頭部を強打した彼が、痛まないはずがない。
けれど、彼はその痛みを決して私に見せようとはしなかった。
それが彼の騎士としての矜持なのか、それとも私に余計な罪悪感を抱かせないための配慮なのか。
おそらく、その両方だろう。
「無理しないで。……ナミスの身体は、もうナミスだけのものではないから」
私の言葉に、ナミスは目を細めた。
「承知しております。この命も、身体も、痛みさえも……全て、リリス様のものです」
甘い毒のような言葉だった。
私の空洞の心を満たす響き。
崩落した東屋の残骸に腰を下ろした。
石造りのベンチは苔むしていたが、ナミスがハンカチを敷いてくれたおかげで、ドレスが汚れることはない。
ここからは、ガーナー領の街並みが見渡せた。
煙突から立ち上る煙、行き交う人々の活気、再建されつつある市場。
すべて、私が作り上げた虚構の繁栄だ。
あの火災で全てを失った人々は、私を救世主と崇め、その労働力を私の野望のために捧げている。
「……綺麗ですね」
ナミスが呟いた。
その視線は街ではなく、足元に咲く名もなき野花に向けられていた。
「瓦礫の中でも、花は咲くのですね」
「ええ。……でも、それは踏みつけられる運命にある花よ」
私は自嘲気味に笑った。
エリナのような、太陽の下で咲き誇る大輪の花ではない。
日陰で、廃墟の中で、誰にも知られずに咲き、そして誰にも知られずに散っていく花。
それが今の私たちだ。
カシリア殿下や父様にとって、私はもう「過去の女」になりつつあるだろう。
手紙という名の偽りの安寧を送りつけることで、彼らの記憶から「不幸なリリス」を消し去り、「遠くで幸せに暮らすリリス」という都合の良い存在へと書き換える。
そうして忘れ去られることこそが、私の望みであり、最大の復讐でもあった。
風が吹き抜け、錆びた鉄柵を揺らす。
キィ、キィ、と鳴る音が、まるで置き去りにされた亡霊の啜り泣きのように聞こえた。
「リリス様」
不意に、ナミスが私の手を取った。
その指先が、私の手首に刻まれた古傷――あの日、薔薇園で自ら切り裂いた痕――を、袖の上からなぞる。
「僕は、この廃墟が好きです。……壊れていても、忘れ去られていても、ここには確かな静寂がありますから」
彼の言葉は、風景への感想であり、同時に私への愛の告白でもあった。
壊れた私。
忘れられた私。
その全てを肯定し、愛してくれる。
「……そうね。私も、好きよ」
私は彼の肩に頭を預けた。
土と鉄の匂いがする。
王宮の香水よりも、薔薇の香りよりも、私を落ち着かせる匂い。
「ここでなら……息ができる気がするの」
カシリア殿下の前で吸う空気は、いつも薄く、冷たかった。
常に完璧でなければならないという重圧が、私の肺を押し潰していたからだ。
でも、ここでは違う。
ただのリリスとして、ナミスの隣で、呼吸をすることができる。
たとえそれが、罪の上に成り立つ仮初の安息だとしても。
日は傾き、空が茜色に染まり始めていた。
影が長く伸び、廃墟の輪郭を曖昧に溶かしていく。
このまま夜が来ればいいと思った。
闇が全てを覆い隠し、私たちをこの世界から切り離してくれればいいと。
ナミスが懐から小さな包みを取り出した。
「……市場で、見つけました。貴族の口に合うようなものではありませんが」
開かれた包みの中には、乾燥した無花果が入っていた。
粗末なものだ。
かつてのタロシア公爵令嬢であれば、見向きもしなかっただろう。
けれど、私はその一つを摘み、口に含んだ。
素朴な甘みが広がり、ざらりとした種の感触が舌に残る。
「……甘いわ」
「そうですか」
「ええ。……とても、甘い」
涙が出そうになった。
なぜだろう。
豪華な晩餐会のケーキよりも、カシリア殿下から贈られた高価な菓子よりも、この干からびた果実の方が、ずっと心に染みる。
ナミスも一つ、口に運ぶ。
同じものを食べ、同じ時間を共有できる人。
それが今の私にとっての「家族」の形だった。
父様やエリナが囲む食卓には、私の居場所はない。
けれど、この廃墟の片隅には、私だけの席がある。
「ナミス」
「はい」
「ずっと、こうしていたいわ。……王都にも、お屋敷にも戻らずに。ナミスと二人で、このまま……」
私は言葉を飲み込んだ。
それは許されない願いだ。
私は公爵令嬢であり、ナミスは騎士だ。
いつか終わりが来る。
断罪の時か、あるいは破滅の時か。
「……リリス様」
ナミスが私の顔を覗き込み、強い視線で私を射抜いた。
「終わりが来るその時まで、僕はリリス様の傍にいます。」
彼は私の小指に、自分の小指を絡めた。
かつてカシリア殿下とエリナが交わしていた、子供じみた約束の儀式。
それを、私たちは誓いとして交わす。
「約束です、リリス様」
「……ええ。約束よ、ナミス」
指切り。
細く、冷たい私の指と、節くれだった温かい彼の指。
「帰りましょうか。……風が冷えてきました」
「ええ……もう少しだけ」
私は彼の肩に身を寄せたまま、目を閉じた。
あと少しだけ。
この温かい闇の中に、浸っていたかった。




