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第167話 もう、待たない

ナミスは言葉を返さず、私を抱きしめる腕に力を込めた。


服越しに伝わる体温と、彼の心臓が刻む規則的なリズムだけが、私の問いに対する答えだった。


きつく、痛いほどに、彼は私を自身の胸に縫い付ける。


その圧迫感が、言葉よりも雄弁に彼の意志を語っていた。


『貴女の罪も、嘘も、弱さも、全て僕が引き受ける』


そんな声なき誓いが、私の身体に染み込んでくる。


カシリア殿下への忠義も、王家への義務も、今の彼には意味を持たないのだろうか。


彼はただ、壊れかけた私という一人の人間を選んでくれた。


誰の代わりでもない、私だけを見て、私だけを守ると決めてくれた。


その事実は、冷え切っていた私の魂に、熱い鉄を押し当てられるような衝撃と、蕩けるような安堵をもたらした。


私は彼の背中に回した手に力を込め、すがりつくように顔を埋めた。


涙はもう枯れているはずなのに、視界がまた滲む。


「ありがとう……ナミス……」


漏れ出した声は、祈りのように震えていた。


かつて貴族社会で使い古した、計算高い感謝の言葉ではない。


飾りのない、剥き出しの感謝。


この世界でたった一人、私の味方でいてくれる彼への、全霊の想いだった。


しばらくして、ナミスはゆっくりと腕を緩めた。


名残惜しむように私を見つめる瞳は、以前のような忠実な従者のそれではなく、罪を分かち合う者の深い色を宿していた。


「リリス様。……手紙を」


彼は静かに促し、私を支えながら机へと導いた。


インクで汚れた惨状は、昨夜のうちに彼が片付けてくれたのだろう。


新しい便箋と、整えられたペンが置かれている。


私は椅子に腰を下ろし、白い紙と対峙した。


以前なら、ここで完璧な文章構成を練り、カシリア殿下が喜ぶ言葉を選び、一文字の乱れもなく書き上げようと必死になっていただろう。


だが、今は違う。


ペン先をインク壺に浸しながら、私の心は凪いだ湖のように静かだった。


愛されるための努力など、もう必要ない。


殿下はエリナを選んだ。


その事実は変わらないし、変えようとも思わない。


私がすべきことは、ただ一つ。


「完璧な聖女リリス」という虚像を王都へ送り届けるだけだ。


ペンが紙の上を走る。


『カシリア殿下。ガーナー領は、神の慈悲と民の努力により、順調に復興しております』


感情の欠片もない、冷徹な報告。


『殿下からの温かいお言葉に、心より感謝申し上げます。どうか、私のことは案じず、王都での公務に専念なさってください』


すべては、嘘。


感謝などしていない。


けれど、この嘘こそが、私と殿下を隔てる強固な壁となる。


私はもう、殿下を待たない。


殿下に救いを求めない。


書き終えた文字は、以前よりも線が細く、どこか頼りなげだったが、迷いはなかった。


書き上げた手紙をナミスに渡す。


彼は内容に目を通し、小さく頷いた。


「完璧です、リリス様。……これなら、殿下も安心されるでしょう」


「ええ。安心させて差し上げるわ。……私が、愚かで従順な婚約者のままだと」


ナミスは私の手からペンを取り上げた。


そして、別の羊皮紙を広げる。


「僕からも、報告書を送ります」


「ナミス?」


「リリス様がどれほど献身的に領民に尽くし、清貧に甘んじているか……そして、王都への帰還をどれほど心待ちにしているか。……僕の言葉で、補強しておきます」


彼は滑らかな手つきで、さらなる嘘を紡ぎ始めた。


私の嘘を真実に変えるための、共犯の証言。


近衛騎士としての信頼を利用し、彼は主君であるカシリア殿下を欺こうとしている。


私のために。


「ナミス……本当にこれでいいの……?」


「リリス様だけの騎士ですから」


彼は手を止めず、視線も上げずに答えた。


その横顔は、罪悪感に歪むこともなく、ただひたすらに清々しかった。


王家への反逆にも等しい行為。


けれど、今の私たちにとって、それは二人だけの秘密の誓いを確認する儀式のようなものだった。


王都には、光り輝くカシリア殿下とエリナがいる。


そしてここには、嘘と罪で手を汚した私とナミスがいる。


それでいい。


窓の外では、復興の槌音が響いている。


「……封をして、ナミス」


私は彼に全てを委ねた。


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