第166話 私だけの騎士に
翌朝、窓の隙間から差し込む陽光が、乱れたシーツを白く照らし出した。
私は重い瞼を持ち上げた。
視界に映るのは、豪奢な天蓋ではなく、質素な天井の梁と、すぐ側にあるナミスの胸元だった。
昨夜、泣き疲れて意識を手放すまで、彼は私を抱きしめ続け、そして朝を迎えた今もなお、その腕は私を繋ぎ止めていた。
温かい。
カシリア殿下の隣で感じるような、緊張を強いる眩しさはない。
ここにあるのは、泥の中で凍えた身体を芯から温めるような、重厚で静かな熱だけだ。
私は顔をナミスの胸に埋めた。
鼓動が伝わってくる。
一定のリズムで、私の存在を肯定するように脈打つ音。
生きていてもいいのだと、許されている気がした。
ナミスが動いた。
「……おはようございます、リリス様」
頭上から降る声は、寝起き特有の掠れを帯びていたが、変わらぬ優しさに満ちていた。
彼は私を突き放さず、乱れた髪を大きな手で梳いた。
その指先の感触に、私は猫のように目を細め、もっと触れてほしいと無意識に身体を擦り寄せた。
今の私は、完璧な公爵令嬢ではない。
ただの、愛を乞う惨めな生き物だ。
けれど、ナミスはそんな私を嫌悪しなかった。
ナミスは私をベッドに座らせると、まるで幼児をあやすように甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
温かいスープを含ませたスプーンが、私の口元に運ばれる。
「口を開けてください」
私は素直に従い、スープを嚥下した。
喉を通る熱が、空虚な胃袋に染み渡る。
本来なら、侍女のロキナがすべきことだ。
あるいは、自分の手で優雅に食事を摂るのが貴族のたしなみだ。
だが、今の私にはスプーン一本を持つ気力さえも重い。
それを察してか、ナミスは何も言わずに私の手足となり、支えてくれる。
顔を拭き、髪を整え、着替えさえも手伝おうとする彼の手つきは、どこまでも慎重で、神聖なものに触れるようだった。
恥ずかしさは微塵もない。
むしろ、彼に全てを委ね、管理されることに、安堵を覚えていた。
家族は、私が「完璧」でなければ愛してくれなかった。
カシリア殿下は、私が「都合の良い婚約者」でなければ目を向けてくれなかった。
彼らの愛は、常に条件付きの契約だった。
けれど、ナミスは違う。
私がインクに塗れ、悪意を吐き出し、泣き喚く醜態を晒しても、こうして傍にいてくれる。
私が汚れていればいるほど、彼は深く私を愛してくれるのではないか。
そんな歪んだ期待が、胸の内で甘く疼いた。
窓の外では、復興に沸くガーナー領の活気が、遠いざわめきとして響いている。
あそこで働く人々は、私が放火犯だとは知らず、「聖女」と崇めている。
その欺瞞に吐き気を催しそうになった時、ナミスが私の冷たい手を両手で包み込んだ。
「リリス様は……一人ではありません」
彼は私の罪を知っている。
カシリア殿下には、決して言えない言葉だ。
殿下は光の住人であり、エリナのような無垢な輝きを愛する方だから。
私のような、影と嘘で塗り固められた女は、彼に相応しくない。
もう、いいではないか。
届かない星に手を伸ばして傷つくのは、もう疲れた。
私はナミスの瞳を見つめた。
そこには、私だけが映っている。
エリナでも、母様でもなく、今の、愚かで弱いリリスだけが。
「ねえ、ナミス」
私は彼の指に自分の指を絡ませ、縋るように言葉を紡いだ。
「私は……婚約破棄されるかもしれない」
声に出すと、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、肩の荷が下りるような開放感があった。
王太子妃の座も、公爵家の名誉も、もうどうでもいい。
私が欲しいのは、地位や名声ではなく、ただ一つの確かな「居場所」だけだ。
「だから、ナミスは……」
「私だけの騎士になってくれない?」
王国の騎士でも、カシリア殿下の忠臣でもなく。
ただ一人、リリス・タロシアという罪人のために剣を振るい、盾となり、そして最後まで傍にいてくれる騎士に。
世界中が私を断罪し、石を投げつけても、ナミスだけは私を守り抜いてくれると、そう信じたかった。
信じさせてほしかった。




