第165話 ね…ナミス
ナミスは懐から白いハンカチを取り出した。
リリスの頬に散ったインクの飛沫に、その布を静かに当てる。
荒れた肌に触れる柔らかな感触。
彼は一言も発さず、ただ丁寧に、私の顔を汚す黒い染みを拭い取っていく。
それは汚れを落とす作業というよりも、壊れた器を修復する、厳かな儀式のようだった。
指先から、掌から、私の輪郭を確かめるような熱が伝わる。
黒く染まったハンカチは、私が吐き出した嘘と、隠しきれなかった本音の残骸を吸い込んでいく。
「……汚れるわ、ナミス」
私の声は掠れ、風前の灯火のように震えていた。
「構いません」
彼は短く答え、今度は私の手を取った。
インクで爪の間まで黒ずんだ指を、一本一本、愛おしむように拭う。
カシリア殿下であれば、きっと眉をひそめ、すぐに侍女を呼んだだろう。
父様であれば、悲しげな顔をして見ないふりをしただろう。
けれど、ナミスは直視する。
この醜く、薄汚れた私の手を、まるで宝石か何かのように扱い、その汚れごと受け入れている。
距離が近い。
呼吸が触れ合うほどの距離で、私は彼の瞳の中に、安堵して力を失っていく自分の顔を見た。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
もう、何も演じなくていい。
聖女の仮面も、完璧な令嬢の演技も、この黒いインクと共に拭い去られてしまったのだから。
視界がふわりと揺れた。
ナミスが、身体を屈め、私を膝裏と背中から抱き上げたのだ。
抵抗する気力など、欠片も残っていなかった。
私は幼児のように彼の首に腕を回し、その胸に重さを預けた。
「……部屋へ、お連れします」
車椅子生活を送っていたとは思えないほど、彼の足取りは力強く、安定していた。
いや、あるいは痛みを堪えているのかもしれない。
けれど、その痛みさえも、私と分かち合う罪の一部であるかのように、彼は眉一つ動かさない。
廊下の冷たい空気が肌を撫でるが、彼の体温が防壁となって私を守っている。
カシリア殿下の腕の中は、いつだって眩しかった。
光に満ちていて、私はその光に焦がれないよう、必死で背伸びをしていなければならなかった。
だが、ここは違う。
薄暗く、泥臭く、底知れない安心感がある。
光の届かない場所でだけ許される、抱擁。
私はその温もりに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
鉄と土、そして微かな薬品の匂い。
それは、私がこれから生きていく世界の匂いだった。
寝台に下ろされると、沈み込むような感覚が全身を包んだ。
ナミスは毛布を引き上げ、私の肩まで隙間なく覆った。
彼は去ろうとはしなかった。
寝台の縁に腰を下ろし、震えの止まらない私の背中に、大きな手を添える。
とん、とん、とん。
一定のリズムで、優しく背中を叩く。
それは言葉のない子守唄だった。
「……ナミス」
「ここにいます。どこにも行きません」
私の問いかけを先回りして、彼は静かに答えた。
「眠ってください、リリス様。……目覚めた時も、僕はここにいますから」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、今の私には救いだった。
エリナの笑顔も、ファティーナの手紙も、カシリア殿下の嘘も、今は遠い。
意識が急速に泥濘のような眠りへと沈んでいく。




