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第164話 私は愛されてない

鉄と土の匂いがする。


ナミスの胸は硬く、けれど温かい。


その熱が、冷え切った私の頬を焼き、凍てついた心を溶かしていく。


一度決壊した涙腺は、もう私の意志では制御できなかった。


喉の奥から、ひっ、ひっ、と短い呼吸音が漏れる。


私は彼の衣服を握りしめた。


インクで汚れた手が、彼の清潔なシャツに黒い染みを作っていく。


汚している。


また、私は誰かを汚している。


けれど、離れられない。


この温もりを失えば、私は本当に粉々になって消えてしまいそうだった。


口を開くと、嗚咽と共に、心の底に沈殿していた泥のような言葉が溢れ出した。


「私って、本当はつまらない女なのね……」


しゃくり上げながら、私は言葉を吐き出す。


それは誰に向けたものでもない、私自身への呪詛だった。


「ナミスもそう思わない?私に愛嬌とか全然わからない……っ」


エリナのように、無邪気に笑うことができない。


ファティーナのように、器用に立ち回ることができない。


ただ正しくあろうとし、背筋を伸ばし、完璧な型に自分を押し込めてきた。


その結果がこれだ。


人形のように硬直した心は、誰の心も動かせなかった。


「男に媚びることなんて……全くわからない……」


カシリア殿下が求めていたのは、賢い参謀ではなく、可愛らしい恋人だったのかもしれない。


私が政治を語り、策略を巡らせている間に、あの子はただ笑っているだけで、殿下の心を奪っていった。


惨めだ。


滑稽だ。


知識も、教養も、誇りも、あの子の笑顔一つに勝てないなんて。


記憶の底から、父様と母様の顔が浮かび上がる。


優しかった母様。


私を見て悲しそうに笑っていた父様。


私は二人を幸せにしたかった。


理想の娘になりたかった。


でも、私は結局、何も成し遂げていない。


「パパを喜ばせることも……ママを喜ばせることも……なにもできなかった……」


涙がボロボロとこぼれ落ち、ナミスの胸を濡らす。


私は顔を埋めたまま、首を振った。


違う。


できなかったのではない。


私がいたから、駄目だったのだ。


「私が……私が生まれてこなかったら……ママとパパは、きっと今でも幸せなはずだ……」


母様が死んだのも、父様が苦しんでいるのも、全部私のせいだ。


私が「完璧なタロシア公爵令嬢」という重荷でなければ、父様はもっと自由に生きられたかもしれない。


母様だって、私を産まなければ、もっと長く生きられたかもしれない。


私は祝福されて生まれたのではない。


呪いとして、この世に落ちたのだ。


その事実に気づいた瞬間、身体中の力が抜け、私はただの肉塊のようにナミスに凭れかかった。


視界が涙で滲み、世界が歪んで見える。


ガーナー領の冷たい空気も、窓を打つ風の音も、遠い世界の出来事のようだ。


ここには私とナミスしかいない。


そして、ナミスさえも、本当は私を軽蔑しているに違いない。


こんなに醜く、泣き喚き、他人の服を汚す女を、誰が愛するというのか。


「誰も私のこと見ていない……」


カシリア殿下は、私を通してエリナを見ていた。


父様は、私を通して亡き母様を見ていた。


誰も「リリス」を見ていない。


「誰も私のこと愛していない……!」


叫び声が、部屋の空気を切り裂く。


認めたくなかった真実を、自らの口で紡ぐ痛み。


それは、ペンで腕を突くよりも遥かに鋭く、深く、魂を切り裂いた。


私は震える手で、自分の胸を叩いた。


空っぽだ。


ここには何もない。


愛も、希望も、未来も。


あるのは、肥大化したプライドと、腐りかけた虚栄心だけ。


「私はただの不良品……劣等品……何もできないのにプライドだけが高い、悪い女……」


息が続かない。


過呼吸気味に肩を上下させ、私はナミスの顔を見上げた。


視線が合う。


彼の瞳には、私の醜い顔が映っているはずだ。


目は赤く腫れ、髪は乱れ、ドレスはインクで汚れている。


「……そうでしょう?ナミス」

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