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第155話 無垢

太陽が高く昇り、庭園に射す光が最も残酷な鋭さを帯びる時刻。


ファティーナは、扇を閉じる乾いた音と共に、仮面を脱ぎ捨てた。


これ以上の回りくどい皮肉は、目の前の鈍感な野獣には通用しないと悟ったからだ。


「……単刀直入に申し上げますわ」


彼女の声は、冷たく研ぎ澄まされていた。


周囲の令嬢たちも、その合図を待っていたかのように扇を下げ、蔑みの視線を一点に集中させる。


「エリナ様。貴女がこの場にいること自体が、タロシア家の恥であり、リリス様への侮辱なのです」


エリナは、口いっぱいに頬張っていた焼き菓子を飲み込み、きょとんと目を瞬かせた。


「え?どういうことですか?」


その無防備な問いかけが、ファティーナの神経を逆撫でする。


「とぼけないでくださいませ!貴女が……貴女のような素性の知れぬ者が、厚かましくも公爵家に上がり込んだせいで!リリス様は居場所を失い、辺境のガーナー領へと追いやられたのですわ!」


ファティーナは叫んだ。


それは、これまで胸に溜め込んでいた鬱憤の爆発だった。


リリス様が王都を去ったあの日。


あの方がどれほど心を痛め、どれほど惨めな思いで旅立ったか。


それを思うだけで、ファティーナの腸は煮えくり返るようだった。


「リリス様は、貴女という泥を被ったせいで、王太子妃としての名誉すら危うくなっているのです。……貴女に良心というものがあるのなら、今すぐリリス様に謝罪し、公爵家から消えてくださいませ!」


庭園に、重苦しい沈黙が落ちた。


令嬢たちは息を呑み、エリナが泣き出すか、あるいは怒り出すのを期待して待ち構えた。


だが。


エリナの表情に浮かんだのは、屈辱でも怒りでもなく、純粋な驚愕と、深い困惑だった。


「……追放?リリスが?」


エリナは首を傾げ、まるで信じられない冗談を聞いたかのように笑い飛ばした。


「まさか!ファティーナ様、それは違いますよ!」


彼女は椅子から身を乗り出し、真っ直ぐにファティーナを見つめた。


その黄金色の瞳には、一点の曇りもない確信が宿っていた。


「リリスは、追い出されたんじゃありません。選ばれたんです!」


「……は?」


ファティーナは呆気にとられた。


「だって、リリスは天才なんですよ?私なんかじゃ逆立ちしても敵わないくらい、頭が良くて、優しくて、何でもできるんです。そんなリリスだからこそ、カシリア殿下もカストお父様も、ガーナー領の復興という大事な任務を任せたんです!」


エリナは胸を張り、我が事のように誇らしげに語った。


「あそこは難しい土地だって聞きました。普通の貴族じゃ逃げ出しちゃうような場所を、リリスなら救えるって、みんなが信じてるんです。だから、リリスは英雄になるために行ったんです!」


その言葉には、微塵の疑いもなかった。


彼女の中の世界では、リリスは悲劇のヒロインではなく、輝かしい使命を帯びた勇者なのだ。


「リリスは、私の自慢の妹です。……あの子が、誰かに追い出されるなんて、そんな弱いわけないじゃないですか!」


熱のこもった弁明。


それは、ファティーナがリリスに対して抱いている理想像よりも、遥かに力強く、そして眩しい「リリス像」だった。


ファティーナは言葉を失った。


反論しようとしたが、喉が引きつって声が出ない。


この女は、本気でそう信じている。


自分こそがリリスを追い詰めた元凶であるという自覚など欠片もなく、ただひたすらに、リリスの才能と未来を信じている。


その無垢な信仰心は、ファティーナの悪意という毒を、一瞬で中和してしまった。


エリナは、黙り込んだファティーナを見て、ふと表情を和らげた。


そして、懐から一枚の便箋を取り出した。


まだ白紙の、真新しい便箋だ。


「あの……ファティーナ様。私、リリスに手紙を書こうと思ってるんです」


彼女の声のトーンが落ち、少しだけ恥じらうような響きを帯びる。


「でも、上手く書けなくて。……私、言葉を知らないから。リリスみたいに綺麗な文章が書けないんです」


エリナは、縋るような目でファティーナを見上げた。


「ファティーナ様は、リリスのお友達なんですよね。……リリスのこと、すごく大切に思ってるんですよね。怒ってくれたのも、リリスのためですよね?」


ファティーナは、毒気を抜かれたように、力なく椅子に座り直した。


「……それが、何か?」


「教えてほしいんです。リリスが喜ぶような、素敵な言葉を。……私、ファティーナ様みたいに、リリスを想いたいんです」


その言葉は、ファティーナの心の深淵に、奇妙な波紋を広げた。


私みたいに。


この泥棒猫は、私と同じように、リリス様を愛したいと言うのか。


「……貴女、頭がおかしいんじゃありませんの?」


ファティーナは呟いたが、その声には先ほどまでの棘がなかった。


「おかしいかもしれません。でも、リリスが好きな気持ちは本当です」


エリナは照れくさそうに笑った。


その笑顔は、かつてリリス様が見せてくれた、屈託のない笑顔と少しだけ重なった。


ファティーナは深いため息をついた。


完敗だ。


この底なしの善意と鈍感さの前では、どんな策略も無意味に思えてくる。


彼女は扇を閉じ、テーブルの上に置いた。


「……貸してご覧なさい」


「え?」


「手紙ですわ。……わたくしが、添削して差し上げます」


ファティーナは、自分でも信じられない行動に出た。


エリナの顔が、太陽のように輝く。


「本当ですか!ありがとうございます、ファティーナ様!」


「勘違いしないでくださいませ。……貴女の汚い文字で、リリス様の目が汚れるのを防ぐためですわ」


ファティーナは顔を背け、憎まれ口を叩いた。


だが、その手はエリナからペンを受け取り、羊皮紙に向かっていた。


リリス様。


どうやら、貴女の「お姉様」は、とんでもない怪物のようですわ。


わたくしの毒さえも飲み込んで、栄養にしてしまうような。


奇妙な休戦協定が結ばれたその庭園で、二人の令嬢は頭を寄せ合い、遠い北の地にいる一人の少女への言葉を紡ぎ始めた。


その手紙が、リリスにとって最も残酷な凶器になるとは知らずに。


「まずは書き出しですわね。……『親愛なるリリスへ』、これくらいは書けますわよね?」

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