第153話 新たな華への招待状
午後の柔らかな陽光が、王家学院の回廊に長い影を落としていた。
石造りの冷たい床を、軽やかな足音が弾むように駆けていく。
エリナは胸元に抱えた一通の封筒を、まるで壊れ物を扱うかのように大切に撫でた。
上質なクリーム色の羊皮紙に、金色の封蝋。
そこには、リリーの花を模した優雅な紋章が押されている。
つい先ほど、見知らぬ下級生から手渡されたものだ。
『ファティーナ様より、エリナ様へ』
そう告げられた時、エリナの胸は高鳴った。
ファティーナ様といえば、社交界でも名の知れた名家の令嬢であり、妹のリリスとも親しかった方だと聞いている。
そんな方が、自分のような者に声をかけてくれた。
エリナは立ち止まり、回廊の窓から差し込む光に封筒を透かしてみた。
微かに薔薇の香りが漂う。
これが、貴族の嗜みなのだろうか。
母が言っていた通りだ。
誠意を持って接すれば、きっと分かってくれる人がいる。
自分がタロシア家の人間として、妹の代わりを務めることを、受け入れてくれる人がいるのだ。
エリナの唇から、自然と笑みがこぼれた。
早く、誰かに伝えたい。
この喜びを、一番に報告したい人の顔が浮かぶ。
彼女は再び走り出した。
規則正しい足音が、静寂な回廊に不釣り合いなほど元気に響き渡った。
王宮の執務室は、重苦しい静寂に支配されていた。
カシリアは机上の書類にペンを走らせていたが、その動きは緩慢だった。
インク壺にペン先を浸すたび、黒い液体が波紋を作る。
それはまるで、彼の心に広がる罪悪感のようだった。
書きかけの手紙の宛名は、リリス・タロシア。
『ガーナー領の復興、順調であるとの報告、嬉しく思う。王都も変わりない』
嘘だ。
王都は変わり果てている。
エリナの出自が露見し、社交界は醜聞と憶測で沸き立っている。
リリスを嘲笑する声と、エリナを好奇の目で見る視線。
その渦中にありながら、彼はリリスに真実を伝えることができない。
真実を伝えれば、彼女が壊れてしまうことを恐れているからだ。
いや、それは言い訳に過ぎない。
本当は、自分がリリスの絶望する顔を見たくないだけなのだ。
「……殿下!」
唐突に、扉がノックもなく開かれた。
カシリアは弾かれたように顔を上げ、反射的に手紙を書類の下へ隠した。
そこには、太陽そのもののような笑顔を浮かべたエリナが立っていた。
息を切らし、頬を紅潮させている。
その輝きは、薄暗い執務室にはあまりにも眩しすぎた。
「エリナか。……ノックをするようにと言ったはずだが」
カシリアは苦笑しながら、隠した手紙の上に肘をついた。
「すみません!でも、どうしても早く見せたくて!」
エリナは駆け寄り、持っていた封筒を机の上に差し出した。
無防備なほどに無垢な仕草。
カシリアは眉をひそめ、その美しい封筒を手に取った。
金色の封蝋。
そして、裏面に記された差出人の名を見た瞬間、彼の背筋に冷たい戦慄が走った。
『ファティーナ・ガヴァンリ』
リリスの親友であり、その崇拝者。
そして、感情的で行動力のある令嬢。
カシリアの脳裏に、最悪の予感が警鐘を鳴らした。
「お茶会に招かれたんです!」
エリナの声が弾む。
「『タロシア家の新たな華として、歓迎いたします』って。……私、嬉しいです。リリスのお友達が、私を認めてくれたみたいで」
カシリアは無言で、封筒の中のカードを取り出した。
流麗な筆記体で綴られた招待状。
言葉の端々に散りばめられた、過剰なほどの敬意と歓迎の言葉。
だが、その行間には、悪意が潜んでいた。
『新たな華』
それは、リリスという『旧き華』を踏みにじった者への皮肉だ。
『歓迎』
それは、獲物を断頭台へと誘う甘い言葉だ。
ファティーナが、エリナを歓迎するはずがない。
これは罠だ。
公衆の面前でエリナを辱め、タロシア家の恥として吊るし上げるための、完璧に設えられた処刑場への招待状だ。
「……エリナ」
カシリアは低い声で呼んだ。
指先が震えそうになるのを、机を握りしめて堪える。
「これを、本気で喜んでいるのか」
「はい!だって、私、貴族のマナーとか全然わからなくて不安だったんです。でも、こうして教えてくださる機会をいただけるなんて」
エリナは目を輝かせて言った。
一点の曇りもない、純粋な信頼。
彼女は知らないのだ。
この美しい紙片が、毒を塗ったナイフであることを。
そして、そのナイフを研いだのが、自分が妹のように思っているリリスを愛する者たちであることを。
カシリアは目を閉じた。
これを止めさせるべきだ。
王太子の権限で、この茶会を中止させることも、エリナに行くなと命じることもできる。
だが、そうすればエリナは傷つくだろう。
自分の善意が否定されたことに。
そして何より、これを止めれば、ファティーナたちはさらに地下に潜り、より陰湿な手段に出るかもしれない。
「……殿下?どうしたんですか?」
エリナが心配そうに顔を覗き込んでくる。
その瞳に映る自分は、酷く情けない顔をしていた。
リリスを守るためにエリナを隠し、今はエリナを守るためにリリスの親友を敵に回そうとしている。
私は、どこまで落ちれば気が済むのだろうか。
カシリアは深呼吸をし、仮面を被り直した。
王太子としての、冷静で、そして残酷な仮面を。
「いや……何でもない。素晴らしい招待状だ」
喉が焼けつくような嘘を吐いた。
「……楽しんでくるといい。ただし、護衛はつけさせてもらうよ」
「本当ですか!ありがとうございます、殿下!」
エリナは満面の笑みで礼を言った。
その笑顔が、カシリアには鋭利な刃物のように痛かった。
彼女が去った後、カシリアは椅子に深く沈み込んだ。
机の上には、隠しきれなかったリリスへの手紙の端が、白く覗いていた。
「……オレは、何も守れていないのか」




