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【40万PV感謝】罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~  作者: 水無瀬 霧乃
歪んだ筋書き

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第15話 握った手は離せない

馬車が王家学院の裏庭、人気の途絶えた闇に滑り込む。


ナミスは懐から金貨を取り出し、御者に握らせた。


「この馬車は買い取る。口を閉ざして、歩いて帰れ」


「は、はいっ!ありがとうございます!」


御者の背中が夜闇に溶けるのを待ち、ナミスは闇に向かって短く指を鳴らした。


「ザット、ザロ」


「ナミス隊長……!?その血は……!?」


茂みから現れた部下たちが、隊長の惨状に息を呑む。


「騒ぐな。殿下へ急ぎ報告せねばならん。ザット、肩を貸せ。ザロ、お前はこの馬車を見張れ。蟻一匹近づけるな」


ナミスは激痛に汗を滲ませながらも、毅然と命じた。


そして、閉ざされた馬車の扉へ向き直り、声のトーンを柔らかいものへと変える。


「リリス様。……申し訳ありませんが、ここでお待ちください。殿下をお呼びして参ります」


「ええ……お願い、ナミス……」


震える声を聞き届け、彼は扉を閉めた。


断ち切られる温もり。


後に残るのは、突き刺さるような足の痛みだけ。


***


ザットに支えられ、執務室の扉を叩く。


「入れ」


カシリア殿下の声に応じ、ナミスは重い体を引きずって入室した。


「報告に参りま……した」


「ナミス?……なっ!?」


カシリアが椅子を蹴るようにして立ち上がる。


ナミスの全身――頭部から足先までを覆う夥しい血痕が、事態の異常さを物語っていた。


糸が切れたように、ナミスはその場に崩れ落ちた。


「リリスは……リリスはどうした!?」


カシリアの声が裏返る。


「……街で、誘拐未遂に。犯人は全員始末しました。リリス様は……連れ去られる寸前で奪還しました」


「そうか……よくやった。リリスは今どこだ」


「ひどくショックを受けておられます。ドレスも血に染まり、人目につかぬよう裏庭の馬車に……」


「わかった。……医者を呼べ!ナミスの手当てだ!」


叫ぶが早いか、カシリアは部屋を飛び出していた。


裏庭を封鎖しろ。


誰にも見せるな。


思考が空回りする。


リリスが誘拐?


脳裏に浮かぶのは、犯人たちに陵辱され、引き裂かれた彼女の姿。


心臓が早鐘を打ち、胃の腑が冷たく縮み上がる。


「リリス……ッ」


裏庭に停まる馬車を見つけ、祈るような手つきで扉を開け放った。


鉄錆の匂いが、鼻腔を突いた。


「……無事か?」


カシリアの声に、闇の中の影がびくりと震えた。


彼女は座席の隅で膝を抱え、自身の血ではない赤黒い汚れにまみれて縮こまっていた。


上着を握りしめる指は白く硬直し、美しい髪は涙と汗で頬に張り付いている。


そこにいたのは、気高く美しい公爵令嬢ではない。


あの日、薔薇園の棘の中で声を殺して泣いていた、脆く壊れやすい少女だった。


「リリ……ス……」


胸の奥で、何かがどろりと溶け出す音がした。


怒りか、憐憫か。


あるいは、その無防備な姿に対する嗜虐的なほどの庇護欲か。


「……でん、か?」


虚ろな瞳が、ゆっくりとこちらを向く。


焦点が合い、そこにカシリアの姿を認めると、彼女はハッと息を呑んだ。


「あっ、見ないで……!ごめんなさい、こんな……汚れた姿……っ」


彼女は慌てて顔を覆い、さらに小さく身を丸めた。


こんな極限状態にあってもなお、彼女は「貴族としての矜持」を守ろうとしている。


王族の前に醜態を晒すまいと、必死に自分を律しているのだ。


その健気さが、痛々しいほどカシリアの胸を締め付けた。


「謝るな。……大丈夫だ、リリス」


カシリアは馬車に乗り込み、震える彼女の手首を強引に、しかし優しく掴んだ。


「殿……下……」


「おいで。全て洗い流してしまおう」


抵抗する間も与えず、カシリアは彼女の手を引き、夜気の中へと連れ出した。


中天にかかる月が、冷たく二人を照らす。


リリスは顔を上げることもできず、ただ繋がれた手の熱だけを頼りに、カシリアの影を踏むように歩く。


月光を浴びて歩くその姿は、血に濡れているというのに、皮肉なほど神聖で、冒涜的な美しさを放っていた。


「ありがとうございます……殿下」


消え入りそうな声。


「……構わない。無事でよかった」


カシリアは短く答えるのが精一杯だった。


繋いだ手が熱い。


なぜだ。


なぜ、この手を離したくないと思う。


なぜ、この血にまみれた彼女を、誰にも渡したくないと願ってしまうのだ。


普段、氷のように凪いでいる心が、正体不明の熱に浮かされ、ざわめいていた。


リリスを浴室へ預けると、カシリアは執務室へ戻り、ナミスから事の顛末を聞いた。


沈黙の中で話を聞き終えたカシリアの瞳には、昏い炎が宿っていた。


「……ゴミ屑どもが。リリスの慈悲を、あだで返したか」


吐き捨てる声は低く、地を這うようだった。


「ザット。警備隊長へ伝えろ。一週間だ」


「はっ?」


「一週間以内に、この件に関わった誘拐組織、背後の売買ルート、その全てを根絶やしにしろ。王室警備隊も動員して構わん。もし一匹でも逃せば……貴様らの首が飛ぶと思え」


「は、はいっ!直ちに!」


殺気立った命令に、ザットが弾かれたように部屋を出て行く。


部屋に残されたのは、静寂と、ベッドに横たわるナミス、そして医者だけだった。


「……ナミスの足は?」


「酷い粉砕骨折です。神経まで傷ついている恐れがあります。最低でも一月は絶対安静かと」


「そうか」


カシリアは短く息を吐き、激痛に耐えて目を閉じている従者を見下ろした。


「よく守り抜いた。功績は保証する。……今は休め」


「……ありがたき、幸せ……」


ナミスが運ばれていくのを見送り、カシリアは一人、窓辺に立った。


暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。


窓の外には、鋭利な刃物のような下弦の月。


ガラスに映る自分の顔は、ひどく無表情で、けれどその瞳だけが飢えた獣のように光っていた。


「……リリス」


呟いた名前が、甘い毒のように舌に残る。


手のひらに残る、彼女の冷たい指先の感触。


震える肩の儚さ。


血の匂いと混ざり合った、彼女の甘い香り。


お茶を口に含んでも、喉の渇きは癒えない。


ただ、あの壊れた人形のような少女を、もう一度この腕に閉じ込めたいという衝動だけが、静かに燃え上がっていた。

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