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第148話 脈動する墓所

翌朝、リリスはゆっくりと目を覚ました。


深く、重たく、底まで沈むような眠りだった。


まぶたの裏に残る微かな温もりが、身体が確かに回復していることを告げていた。


できればもっと休みたかったが、復興は一刻を争うことだ


国境に掲げられた古びた旗が、乾燥した風に吹かれてはためいている。


ナミスは車椅子を進め、リリスと境界線の関所の前に立っていた。


後ろに、騎士たちが控えている。


その背後には、彼女の言葉を待つ数人の商人たちと、不安げな表情を浮かべるガロス卿の姿がある。


リリスは深呼吸をした。


肺に吸い込んだ空気は砂埃の味がしたが、吐き出す息と共に、彼女は声を張り上げた。


「本日を以て、ガーナー領は隣接するすべての領地との境界における『関税』を撤廃いたします」


彼女の声は震えず、凛として響いた。


「通行税、商取引税、入市税。これら一切を無効とし、この地を『自由市場』とすることを宣言します」


一瞬の静寂の後、商人たちの間からどよめきが起こり、それはすぐに歓声へと変わった。


税のない土地。


それは彼らにとって、蜜の流れる約束の地と同義だ。


街道の向こうで待機していた荷馬車が、堰を切ったように動き出した。


車輪が石畳を軋ませる音が、この死にかけた土地に血液が流れ込む音のように聞こえる。


ナミスが車椅子の上から、リリスの手の甲にそっと触れた。


「……素晴らしい宣言でした、リリス様。これで、人の流れは劇的に変わります」


リリスは小さく頷いた。


執務室に戻ったリリスは、椅子に座るなり、泥の中に沈み込むような重力に襲われた。


机の上には、新たな商人たちの登録書や、物流管理の計画書が山のように積まれている。


ペンを執らなければならない。


次の指示を出さなければならない。


だが、腕が動かない。


指先が鉛になったかのように重く、机の上のインク壺までが果てしなく遠い距離に感じられた。


(……書かなければ。私が、やらなければ)


思考が、壊れたレコードのように同じ場所を回り続ける。


やらなければならない。


でも、動けない。


文字を目で追っても、意味が頭に入ってこない。


『小麦の取引量』という文字が、ただの黒い線と点の集合体に分解され、意味をなさず滑り落ちていく。


カシリア殿下への報告。


お父様への手紙。


エリナへの……あの忌々しい感謝状。


(あぁ、まただ。エリナのことばかり考えてしまう)


思考の沼が、彼女を絡め取る。


私がこうして泥にまみれて働いている間、彼女は王都で剣を振るい、笑っているのだろうか。


私が焼き払った食糧の灰の上で、彼女は舞踏会のように踊っているのだろうか。


「……っ、う……」


内臓が雑巾のように絞られる感覚。


リリスは机に突っ伏した。


視界が暗くなり、耳鳴りがキーンと響く。


「リリス様」


柔らかい声と共に、温かい手が彼女の肩に触れた。


ナミスだ。


彼はいつの間にか車椅子を寄せ、リリスの傍らにいた。


「……ペンを、離してください」


彼は優しく、しかし強引に、リリスの硬直した指からペンを抜き取った。


「ナ……ミス……」


「顔色が優れません。思考が、まとまらないのではありませんか?」


図星だった。


リリスは答えることもできず、ただ瞬きをした。


涙が滲み、ナミスの顔がぼやける。


「無理もありません。これだけの重圧……常人ならばとっくに潰れています」


ナミスはリリスの手を握りしめ、自分の頬に寄せた。


「僕がやります。……僕の手を使ってください」


彼はリリスの手を離すと、自らペンを握り、書類に向き合った。


「この登録書は許可。倉庫の配置は、旧兵舎を利用しましょう。……リリス様の構想通りに進めます」


サラサラとペンが走る音。


かつてリリスが一人で刻んでいた孤独なリズムを、今は彼が代わりに刻んでいる。


リリスはその背中を見つめた。


申し訳ない。


貴方は病人で、領主の息子なのに。


私が利用し、騙し、傷つけた相手なのに。


どうしてそんなに優しくするの。


(……私が、無能だから)


自己嫌悪が、黒いタールのように胸を満たす。


私は聖女の仮面を被っただけの、無力な人形。


彼がいなければ、呼吸さえままならない。


「……ごめんなさい、ナミス」


掠れた声で謝罪すると、ナミスは手を止めず、背中越しに答えた。


「謝らないでください。……リリス様のお陰で、今領地は生き延びています。」


窓の外から、荷馬車の車輪の音と、商人たちの怒号に近い活気ある声が響いてくる。


強制的に作り出された「自由市場」は、リリスの思惑通り、あるいはそれ以上の速度で膨張を始めていた。


物資が集まり、人が集まり、金が動く。


死にかけていたガーナー領は、今や熱病に浮かされたように脈動している。


だが、その喧騒の中心にある執務室だけは、墓所のように静かだった。


リリスは椅子に深く沈み込み、窓の外の光景を虚ろに見つめた。


あそこには「生」があるが、働かざる者が蝕まれる「死」でもある


私が再構築した、欲望と希望が渦巻く、慈悲なき世界。


私はこの冷たい部屋で、ナミスのペンの音を聞きながら、ゆっくりと腐っていくだけだ。


カシリア殿下……


貴方は今、どんな景色を見ていまか?

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