第147話 魔女の告白
窓枠の向こうに、漆黒の夜空と数点の星が見える。
リリスは重いまぶたを持ち上げた。
視界は薄暗く、部屋の隅にある暖炉の熾火だけが、弱々しい赤色を吐き出している。
背中に感じるシーツの感触と、鼻腔に残る古い薬の匂いが、ここが現世であることを告げていた。
夢の中で母の腕に抱かれていた甘美な感覚は、潮が引くように消え失せ、代わりに鈍い頭痛と倦怠感が体を支配する。
「……ぅ」
喉が渇き、声がかすれる。
視線を巡らせると、ベッドの脇に車椅子ごと崩れるようにして眠っている青年の姿があった。
ナミスだ。
彼の髪は汗で額に張り付き、顔色は病人のそれらしく蒼白だが、呼吸は規則正しく、浅い眠りについているようだ。
その右手が、ベッドの縁から力なく垂れ下がり、布団の上に投げ出されたリリスの指先に触れていた。
温かい。
母の夢幻の抱擁とは違う、血の通った、生々しい熱量。
その熱が、リリスの凍えた心臓を無理やり動かし、死の淵から引き戻したのだと悟る。
また、この人は私を守ったのか。
自分の命さえ削れるほどに弱っているというのに。
リリスは指先を動かし、ナミスの手に触れようとして、止めた。
自分の指は黒いインクで汚れている。
嘘と欺瞞、そして絶望を書き連ねた毒のような汚れが、彼の清らかな手を穢してしまう気がした。
ナミスの肩が小さく震え、ゆっくりとまぶたが開かれた。
彼は焦点を合わせるように数度瞬きをし、リリスと目が合うと、弾かれたように身を起こした。
「リリス様……!具合は、どうですか?」
その声には、安堵と恐怖がないまぜになっていた。
リリスは力なく首を横に振った。
「ありがとう、もう大丈夫。……私を見つけてくれたの、ナミス?」
「はい、僕です。……執務室で、倒れておられたので」
ナミスは視線を伏せた。
その目が、リリスの汚れた指先を一瞬だけ見て、すぐに逸らされる。
「そうか。……手紙のことも、見られたのね」
問いかけではなく、確信だった。
ナミスの表情が強張る。
彼は沈黙を守ったが、その沈黙こそが肯定の証だった。
あの屈辱的な手紙。
婚約者の裏切りと、実家の乗っ取りを知らせる悪意ある善意の便り。
そして、それに対して「幸せだ」と嘘を書き連ねた、道化のような返信。
全てを見られた。
「……はい。リリス様がここに来て、あんなにも苦しまれていた原因も……あのエリナっていう女ですか?」
ナミスの声が、怒りで震えている。
だが、その怒りの矛先はリリスではない。
遠い王都にいる、リリスを追い詰めた者たちへ向けられている。
リリスは乾いた笑みを浮かべた。
「ええ。……私にがっかりするでしょう?慈悲深い聖女なんて、どこにもいないの。私はただの臆病者。怖いから、逃げることしかできなかった」
彼女は自分自身を嘲笑った。
こんな惨めな姿を晒して、もう聖女の仮面など被っていられない。
軽蔑されればいい。
この忠実な騎士にさえ見限られれば、いっそ楽になれる。
「そんなことない!」
ナミスが声を張り上げた。
彼は車椅子の肘掛けを強く掴み、身を乗り出した。
「リリス様は、立派な領地管理力を持っています!そのお陰で、自然発火の対応も見事に行い、領地が生き延びたではありませんか!僕は……貴女を尊敬しています」
彼の瞳は、純粋な崇拝と信頼で輝いていた。
その輝きが、リリスには耐え難いほど眩しく、そして痛い。
違う。
そんな綺麗なものではない。
「自然発火などない!」
リリスは叫んだ。
喉が裂けそうな痛みと共に、真実を吐き出す。
「私が燃やしたのよ!?」
「え……?」
ナミスの動きが止まる。
もう、裏切られたくない。
……私を憎むなら、今のうちでいい
リリスは布団を握りしめ、震える声で続けた。
「私は聖女なんてない!倉庫の糧食を葉っぱなどで入れ替え、燃やして、あなたの父上から支配権を奪うための計画だったのよ!……貴方の父を騙し、民を騙し、灰の上で踊っていただけの、汚い女なのよ!」
言ってしまった。
これで終わりだ。
彼は領主の息子だ。
自分の故郷を焼き、父を陥れた女を許すはずがない。
リリスは目を閉じ、罵倒が飛んでくるのを待った。
しかし、聞こえてきたのは、静かで、深く納得したような声だった。
「なるほどですね……。通りで、すべて順調に進んでいる。……まるで、最初から計算された改革みたいに」
リリスは恐る恐る目を開けた。
ナミスは怒っていなかった。
ただ、悲しげに微笑んでいた。
「私は、悪い女、魔女、悪役令嬢だから……私を恨みなさい。軽蔑しなさいよ!」
「リリス様は」
ナミスが彼女の言葉を遮った。
その手が伸び、リリスのインクで汚れた手を、躊躇なく包み込んだ。
「一人でそれを背負ってきて……きっと、苦しかっただろう」
「え……?」
予想外の言葉に、リリスの思考が停止する。
ナミスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「領地の停滞は、父と……息子である僕が背負うべき罪なのに。リリス様に甘えて、汚れ役を押し付けて、苦しませて……申し訳ない」
彼はリリスの手を自身の額に押し当て、懺悔するように頭を垂れた。
「僕も知っているんです。改革が必要だってことくらい。……父の優しさだけでは、誰も救えないことも」
彼の掌から伝わる熱が、リリスの冷え切った指先を溶かしていく。
「僕も、リリス様の味方になりたい。……例えそれが、どれほど汚い仕事でも。世界中が貴女を魔女と呼んでも、僕だけは貴女の騎士でいます。……僕には、できます」
リリスの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「ナミス……」
私は彼の手を握り返した。
その手は汚れている。
二人の手は、罪とインクと涙で、ぐちゃぐちゃに混ざり合った。
「ありがとう……ごめんなさい……」
リリスは繰り返した。
孤独な闇の中で、初めて本当の手を握ってくれる存在を得た安堵感がした。




