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第145話 幸せを傍観する姫様

ナミスは車椅子を軋ませ、リリスの執務室の前に辿り着いた。


扉を叩いても応答はなく、中からはただ、重苦しい静寂だけが滲み出していた。


否、耳を澄ませば、微かに何かが擦れるような、あるいは引きつるような、不穏な音が漏れ聞こえてくる。


不吉な予感が、病に侵されたナミスの背筋を冷たい指で撫で上げた。


「……リリス様?失礼いたします」


彼は震える手でドアノブを回した。


扉が開くと同時に、鼻を突いたのは鉄錆のようなインクの匂いと、澱んだ絶望の気配であった。


「リリス様ッ!」


ナミスの悲鳴が室内に響く。


そこには、冷たい石床の上に崩れ落ちたリリスの姿があった。


美しい桜色の髪は乱れ、灰のように蒼白な頬は床に押し付けられている。


華奢な肩は呼吸を忘れたかのように動かず、その指先は黒いインクで汚れていた。


まるで、彼女自身が書き損じられた物語の一部であるかのように。


ナミスは車椅子から転げ落ちるようにして、彼女のそばへ這い寄った。


動かない足を引き摺り、彼女の上半身を抱き起こす。


「息を……!リリス様、息をしてください!」


彼女の体は氷のように冷たかった。


ナミスは己の無力さを呪いながら、彼女の背をさすり、気道を確保しようと必死に動いた。


その時、彼の視界の端に、机の上から滑り落ちた数枚の羊皮紙が映った。


倒れたインク壺から溢れ出した黒い液体が、毒のように紙面を侵食している。


ナミスは見まいとした。


主の私信を盗み見るなど、騎士にあるまじき不敬である。


だが、その紙面に踊る文字が、あまりにも残酷に彼の目を焼き付けた。


『泥棒猫』


『隠し子』


『次期公爵』


『カシリア殿下も困っていらっしゃる』


それは、王都のファティーナ令嬢からの手紙だった。


ナミスは震える手で、その隣にあったもう一枚の羊皮紙――リリスが書いていた返信を拾い上げた。


『私は幸せです』


インクで塗り潰されかけたその文字は、震え、歪み、まるで悲鳴を上げているようだった。


『エリナはいい子です』


『カシリア殿下を信じています』


『公爵位は譲ります』


読み進めるごとに、ナミスの呼吸は浅くなり、視界が涙で滲んだ。


(ああ、なんと……なんと救いのない……!)


彼女は知っていたのだ。


父に見捨てられ、家を奪われ、そして愛する婚約者が別の女に心を寄せていることを。


その全てを知りながら、彼女はこの冷え切った部屋で、たった一人、誰にも恨み言を漏らすことなく、完璧な「物分かりの良い妹」を演じようとしていた。


呼吸ができなくなるほどの苦痛の中で、裏切り者たちを庇う言葉を紡いでいたのだ。


ナミスは、リリスの汚れた指先を見た。


その黒いインクの染みは、彼女が流した見えない血の痕跡そのものだった。


「殿下……カシリア殿下……!」


ナミスは歯を食い縛った。


口の中に鉄の味が広がる。


私が敬愛し、忠誠を誓った主君は、これほどまでに残酷な方だったのか。


王都で新しい「太陽」のような少女と笑い合っている間、この「月」のような令嬢が、どれほどの闇に蝕まれていたか、想像すらしなかったのか。


「う、ぅ……」


リリスの唇から、微かな呻き声が漏れた。


ナミスはハッとして、彼女の手を両手で包み込んだ。


「リリス様……!ここに、私がおります……!」


しかし、彼女の瞳は閉じられたままだ。


その表情には、気絶してなお消えない苦悶の色が張り付いている。


ナミスは自分の動かない足を拳で殴りつけた。


悔しい。


守りたいのに。


彼女をこの地獄から連れ出し、安らかな場所へ運びたいのに。


今の私には、彼女を抱き上げて医務室へ運ぶことすらできない。


王子の側近でありながら、王子の裏切りを止めることもできず、ただ彼女が壊れていく様を傍観することしかできなかった。


「申し訳ございません……申し訳ございません……!」


ナミスはリリスの手の甲に額を押し当て、慟哭した。


熱い涙が、彼女の冷たい肌を濡らす。


だが、その涙で彼女の傷が癒えることはない。


彼女が必要としていたのは、遠い王都からの愛だったのだから。


机の上では、書きかけの手紙が風に揺れていた。


『私は幸せです』


その嘘だけが、白々しく、そして痛ましく、誰もいない空間に向かって叫び続けていた。

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