第144話 塗り潰された幸福
早朝の執務室には、冷え切った空気と、古びた紙の匂いが沈殿していた。
リリスは徹夜で積み上げた書類の山の前で、重いまぶたを擦った。
ガロスから全権を奪って以来、睡眠時間は削られ続け、指先はインクで黒く染まり、洗っても落ちなくなっていた。
そこへ、一通の手紙が届けられた。
カシリア殿下からではない。
父からでもない。
差出人の名は、ファティーナ。
王家学院での友人であり、噂好きで知られる伯爵令嬢だった。
「……ファティーナ様から?」
リリスは怪訝に眉を寄せた。
彼女とは親しいが、わざわざガーナー領まで手紙を送ってくるほどの仲だっただろうか。
封を開けると、甘ったるい香水の匂いが漂い、鼻腔を刺激した。
この殺風景なガーナー領には存在しない、王都の華やかな毒の香りだ。
『親愛なるリリス様へ。ガーナー領での暮らしはいかがですか?私たちは皆、貴女様を心配しておりますのよ』
流麗な文字で綴られた冒頭。
だが、その後に続く内容は、リリスの心臓を凍りつかせるに十分な猛毒を含んでいた。
『ところで、信じられない噂を耳にしましたの。あの無作法な剣術指南役のエリナという女……なんと、タロシア家の隠し子だそうですわね!』
リリスの指が震えた。
知ってしまったのか。
隠し通そうとしていた家の恥部が、社交界の玩具になっている。
『しかも、あろうことか彼女が次期公爵になるという話まで出ています。貴女様という素晴らしい長女がいるというのに、なんであんな年上の平民上がりが?まるで泥棒猫ですわ!』
文字が踊る。
善意と正義感に基づいた、無邪気な怒りの言葉たち。
『カシリア殿下も、最近はあの女に付きまとわれて困っていらっしゃる様子。……でもご安心になって。私たちが、あの身の程知らずに痛い目をあわせてやりますから!リリス様の敵は、私たちの敵ですもの!』
手紙を持つ手が、ガタガタと震え始めた。
紙面から目を逸らしたくても、できない。
視界の端に置かれた、自分が出すはずだった書類の山が歪んで見える。
「……なんで?」
リリスは乾いた唇から、掠れた声を漏らした。
エリナが次期公爵?
父様が、それを認めたというの?
私には一言の相談もなく?
脳裏に、優しい父の顔と、カシリア殿下の誠実な瞳が浮かぶ。
彼らは私に何も言ってこなかった。
エリナの家柄が露見したことも、後継者の話も、何一つ。
沈黙。
ただひたすらに、重く、冷たい沈黙だけが、王都から送られてきていたのだ。
「は、はは……」
乾いた笑いが喉から漏れた。
私には「領地を頼む」と言い、厄介払いをしておいて。
自分たちは王都で、新しい「公爵」を囲んで、家族ごっこをしている。
カシリア殿下でさえ、私に真実を告げず、エリナを守ろうとしている。
そして、この残酷な真実を私に教えたのが、家族でも婚約者でもなく、普段は疎ましくさえ思っていたファティーナだという皮肉。
「みんな……私のことなんて、どうでもいいのね」
その事実は、鋭利なナイフとなってリリスの胸を抉った。
私は捨てられたのだ。
便利な駒として利用され、用が済めば忘れ去られる、哀れな人形として。
「……書かなきゃ」
リリスは虚ろな目で呟き、新しい羊皮紙を引き寄せた。
震える手でペンを握る。
ファティーナに返事を書かなければ。
変な誤解をさせてはいけない。
私は完璧な令嬢なのだから。
『ファティーナ様、お手紙ありがとう。……心配しないで』
ペン先が紙に引っかかり、インクが滲む。
『私は王妃になる身ですから、公爵位は妹のエリナに譲るつもりでしたの。だから、何も問題はありませんわ』
嘘だ。
家を奪われることが、どうでもいいわけがない。
母様の思い出が詰まったあの屋敷が、あの女のものになるなんて。
『エリナは……少し奔放ですが、とてもいい子です。私も彼女を認めていますの。だから、どうか仲良くしてあげて』
文字を書くたびに、胃液が逆流してくる。
いい子?
あいつが?
私の人生を狂わせ、全てを奪っていくあの女が?
でも、そう書かなければならない。
私は「物分かりの良い姉」で、「慈悲深い聖女」でなければならないから。
「……っ、う、ぐ……っ!」
不意に、呼吸ができなくなった。
喉が痙攣し、空気を吸い込もうとしても、肺が拒絶する。
ヒューッ、ヒューッ、という異音が、自分の喉から鳴っている。
視界が急速に狭まっていく。
机の上のインク壺が倒れ、黒い液体が書きかけの手紙を汚していった。
『私は幸せです』と書こうとした文字が、黒く塗り潰されていく。
ああ、そうだ。
私の人生そのものだ。
黒く、汚く、塗り潰されていく。
助けて。
カシリア殿下。
お父様。
ロキナ。
誰か、誰か私を見て。
ここにいるのよ?
一人で、寒くて、怖くて、死にそうなのよ?
「……ぁ……」
リリスは椅子から崩れ落ちた。
床に倒れ込む衝撃すら、遠い世界の出来事のように感じられた。
冷たい石の床に頬が触れる。
薄れゆく意識の中で、彼女は最後に見た。
窓の外、広場の復興作業に勤しむ領民たちの姿を。
彼らは誰も、館の窓を見上げてはいなかった。
世界は動き続けている。
リリス一人が、呼吸を止め、時を止めても、誰も気づかないまま。
「リ…リリス様!?」




