第141話 公爵の隠し子
夜会の広間は、幾千の蝋燭の灯火によって昼間のような明るさを保っていたが、そこで交わされる言葉の数々は、夜の闇よりも深く淀んでいた。
音楽が止む合間、絹擦れの音に混じって、ある男爵がグラスを傾けた。
彼は、王家学院の剣術指南役として異例の抜擢を受けた「エリナ」という少女に、並々ならぬ執着を抱いていた。
平民にしてはどこかに品があり、貴族にしては野蛮すぎる。
男爵は懐から一枚の金貨を取り出し、給仕に扮した密偵の手のひらに滑り込ませた。
「……突き止めろ」
彼は短く命じた。
「あの娘がどこから来て、どこへ帰るのか。……その足取りの全てを」
翌日の放課後、王都の裏路地を、熟練の騎士が音もなく駆けていた。
彼の視線の先には、革の鞄を肩にかけたエリナの背中があった。
彼女は鼻歌交じりに大通りを抜け、市場で買い食いをし、そして貴族街へと続く石畳の坂道を登っていく。
騎士は建物の影に身を隠しながら、眉をひそめた。
この先は、上級貴族の邸宅が立ち並ぶ聖域だ。
平民の娘が立ち入れる場所ではない。
だが、エリナは迷うことなく歩を進める。
やがて彼女が足を止めたのは、王都でも一、二を争う壮麗な鉄門の前だった。
門扉には、大鷲と薔薇の紋章。
タロシア公爵家の紋章が、夕日を受けて赤く輝いている。
「ただいまー!」
エリナが門番に声をかけると、厳格なはずの衛兵が親しげに敬礼し、重い鉄の扉を開いた。
彼女は何食わぬ顔で、その敷地内へと姿を消した。
騎士は息を呑み、急ぎ踵を返した。
これは、ただの「愛人」や「使用人」の類ではない。
あのような堂々たる帰宅は、その家の血を引く者だけに許された特権だ。
数日後の夜会。
その衝撃的な事実は、乾いた野原に放たれた火種のように、瞬く間に社交界を焼き尽くした。
「お聞きになりまして?あの剣術指南役の娘……タロシア公爵のご落胤だそうですわ」
「まあ!なんてふしだらな……。ですが、公爵様は彼女を正式に認知されるとか」
「そうなりますと、リリス様のお立場は?」
「お気の毒に……。病弱で、王都を追われるようにガーナー領へ行かれたのも、あるいは……」
扇子で口元を隠した婦人たちが、嗜虐的な光を瞳に宿して囁き合う。
彼女たちにとって、他人の不幸は最高の蜜の味だ。
噂は尾ひれをつけて肥大化していく。
リリスは王家に嫁ぐための「美しい生贄」に過ぎず、タロシア家の真の後継者は、あの健康で活発なエリナになるのではないか。
病弱で陰気な長女よりも、生命力に溢れた次女の方が、公爵家の未来には相応しい。
そんな無責任で残酷な評価が、グラスを合わせる音と共に広間を満たしていった。
「王太子殿下も、最近はエリナ様と親しくされているとか」
「やはり、血は争えないということですわね。……ふふふ」
嘲笑を含んだ笑い声が、シャンデリアの輝きの下で反響する。
王宮の回廊を、カシリアは早足で歩いていた。
その顔色は蒼白で、額には汗が滲んでいる。
「殿下、落ち着いてください」
背後からビアンナが声をかけるが、カシリアの耳には届かない。
聞こえてくるのは、すれ違う貴族たちのひそひそ話だけだ。
『タロシア家の隠し子』
『リリス様の代わり』
『次期公爵』
隠し通したかった。
エリナの出自を偽り、リリスが安心して戻れる場所を守り抜きたかった。
だが、現実はあまりにも脆く、そして悪意に満ちている。
カシリアは壁に手をつき、荒い息を吐いた。
リリスに送った手紙が、今更ながらに呪いのように思い出される。
『君の席は守られている』と、どの口が言ったのか。
社交界は既に、リリスを過去の遺物として葬り去り、新しい聖女であるエリナを祭り上げようとしている。




