第140話 愛に満ちた手紙
執務室の窓の外では、復興に沸く街の灯りが星々のように瞬いていたが、リリスの座る机の上には、重苦しい夜の静寂だけが降り積もっていた。
羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが、乾いたリズムを刻む。
カリ、カリ、と。
それはまるで、自分の心臓を少しずつ削り取っていく音に聞こえた。
リリスは一度ペンを止め、インク壺にペン先を浸した。
黒い液体が、白い羽根を伝って吸い上げられていく。
これから書くのは、言葉という形をした嘘だ。
彼女は羊皮紙に向き直り、最も美しい文字で、最も醜い欺瞞を綴り始めた。
『敬愛するカシリア殿下へ』
ペン先が滑らかに動く。
『ガーナー領にて発生した不幸な火災につきまして、ご心配をおかけし申し訳ございません。ですが、どうぞご安心ください』
リリスの瞳は、感情を映さないガラス玉のように冷たい。
『失われたものは多いですが、それ以上に私たちは多くのものを得ました。民は悲しみを乗り越え、かつてない結束力で復興へと歩み出しております。彼らの瞳には、絶望ではなく希望の灯火が宿っております』
嘘に決まっている。
彼らの瞳にあるのは、生存競争への飢えと、隣人を出し抜こうとする焦燥だ。
だが、カシリア殿下はこういう報告を好む。
清く、正しく、美しい物語。
彼が望む「聖女リリス」の姿を、文字という絵具で丹念に描き出す。
『殿下の慈悲深いご支援があったからこそ、私たちは立ち上がることができました。この地が再び黄金に輝く日も、そう遠くはないでしょう。……貴方様の婚約者として恥じぬよう、引き続きこの身を捧げる所存です』
これでいい。
彼はこの手紙を読み、安堵し、そして私のことを「優秀な婚約者」だと、また一つ勘違いを重ねるだろう。
私の心が、彼への不信と絶望で凍りついていることなど知らずに。
リリスは新しい羊皮紙を取り出した。
次に書くべき相手の名を思い浮かべるだけで、胃の腑が鉛を飲み込んだように重くなる。
エリナ。
私の「お姉様」。
私から父を奪い、母の居場所を奪い、そしてカシリア殿下の心さえも奪おうとしている、無邪気な略奪者。
リリスは震える指先を左手で押さえつけ、ペンを走らせた。
『親愛なるお姉様へ』
文字が歪みそうになるのを、意志の力でねじ伏せる。
『お姉様からの温かい励ましの手紙と、貴重な支援金、確かに受け取りました。……貴女の優しさに、私の凍えた心も救われる思いです』
吐き気がした。
彼女が送ってきた金は、カシリア殿下の剣術指南役として得た報酬だ。
私が知らない間に、私の婚約者の傍らで、剣を交え、汗を流し、笑い合って手に入れた金。
その金貨一枚一枚に、二人の裏切りの時間が染み付いているようで、触れることさえおぞましい。
だが、リリスは書かねばならない。
自ら母を殺した罪深き娘で、物分かりの良い、新しい家族ができて嬉しく生きている妹としての感謝を。
『お姉様が王都で活躍されていると聞き、私も鼻が高いです。どうか私のことは心配なさらないで。……いつかまた、家族全員で笑い合える日を夢見ています』
嘘…嘘、嘘!
この裏切り者、恥知らぬ泥棒猫!田舎生まれの劣等種が!
紙面を埋め尽くす言葉のすべてが、私の本心を逆撫でする。
家族全員で笑い合う?
そんな未来は、私が死んだ後にしか訪れない。
いや、私が死ねば、彼らは私の墓標の前で、真に幸福な「完璧な家族」となるのだろう。
リリスは最後の文字を書き終えると、ペンを乱暴に置いた。
インクが机に飛び散り、黒い染みを作った。
封蝋を垂らし、タロシア家の紋章を押す。
赤い蝋が固まっていく様をじっと見つめていたリリスは、不意に視界が暗転するのを感じた。
「……っ、は、ぁ……」
喉が詰まる。
空気が吸えない。
胸郭が鉄のコルセットで締め上げられたように圧迫され、酸素が入ってこない。
リリスは机の端を掴み、ガタガタと震わせた。
苦しい。
悲しい。
誰にも言えない。
この手紙に書いたことは全て嘘だ。
私は聖女ではない。
父親の愛する家族たちを大嫌いに思ってる嫉妬心の強い悪女だ。
民を騙し、食糧を焼き払い、老人から安息を奪った悪魔だ。
そして、婚約者と姉に、心にもない愛と感謝を綴る道化だ。
「……う、うう……」
喉の奥から、ひしゃげた悲鳴が漏れる。
涙が溢れ、視界が滲む。
助けて。
誰か、私を見つけて。
この完璧な仮面の下で、私が血を流して泣いていることに気づいて。
だが、部屋には誰もいない。
ロキナさえも遠ざけた今、ここにいるのは孤独という名の怪物だけだ。
カシリア殿下は今頃、エリナ姉様と楽しく過ごしているのだろうか。
父は、新しい家族に囲まれて安らいでいるのだろうか。
私だけが、この灰色の領地で、罪と嘘に塗れて凍えている。
「……はぁ、はぁ、っ……」
リリスは過呼吸になりながら、必死に机にしがみついた。
爪が木板に食い込み、折れそうになる。
死にたい。
いっそこのまま息が止まれば。
だが、死ぬことさえ許されない。
私には、最後まで悪役令嬢を演じきる義務がある。
長い時間をかけて、リリスは呼吸を整えた。
乱れた髪を手櫛で撫でつけ、涙で濡れた頬をハンカチで拭う。
鏡を覗き込む。
そこには、赤く腫れた目をした、惨めな少女が映っていた。
リリスは両手で頬を叩いた。
パン、と乾いた音が室内に響く。
口角を上げる。
もっと、自然に。
もっと、優雅に。
聖女らしく。
愛される妹らしく。
「……大丈夫」
鏡の中の虚像に向かって、リリスは囁いた。
声はもう震えていない。
「私は、タロシア公爵家のリリス。……カシリア殿下の、完璧な婚約者ですわ」
鏡の中の少女が、美しく、そして凍りつくような笑みを返した。
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