表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
140/157

第140話 愛に満ちた手紙

執務室の窓の外では、復興に沸く街の灯りが星々のように瞬いていたが、リリスの座る机の上には、重苦しい夜の静寂だけが降り積もっていた。


羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが、乾いたリズムを刻む。


カリ、カリ、と。


それはまるで、自分の心臓を少しずつ削り取っていく音に聞こえた。


リリスは一度ペンを止め、インク壺にペン先を浸した。


黒い液体が、白い羽根を伝って吸い上げられていく。


これから書くのは、言葉という形をした嘘だ。


彼女は羊皮紙に向き直り、最も美しい文字で、最も醜い欺瞞を綴り始めた。


『敬愛するカシリア殿下へ』


ペン先が滑らかに動く。


『ガーナー領にて発生した不幸な火災につきまして、ご心配をおかけし申し訳ございません。ですが、どうぞご安心ください』


リリスの瞳は、感情を映さないガラス玉のように冷たい。


『失われたものは多いですが、それ以上に私たちは多くのものを得ました。民は悲しみを乗り越え、かつてない結束力で復興へと歩み出しております。彼らの瞳には、絶望ではなく希望の灯火が宿っております』


嘘に決まっている。


彼らの瞳にあるのは、生存競争への飢えと、隣人を出し抜こうとする焦燥だ。


だが、カシリア殿下はこういう報告を好む。


清く、正しく、美しい物語。


彼が望む「聖女リリス」の姿を、文字という絵具で丹念に描き出す。


『殿下の慈悲深いご支援があったからこそ、私たちは立ち上がることができました。この地が再び黄金に輝く日も、そう遠くはないでしょう。……貴方様の婚約者として恥じぬよう、引き続きこの身を捧げる所存です』


これでいい。


彼はこの手紙を読み、安堵し、そして私のことを「優秀な婚約者」だと、また一つ勘違いを重ねるだろう。


私の心が、彼への不信と絶望で凍りついていることなど知らずに。


リリスは新しい羊皮紙を取り出した。


次に書くべき相手の名を思い浮かべるだけで、胃の腑が鉛を飲み込んだように重くなる。


エリナ。


私の「お姉様」。


私から父を奪い、母の居場所を奪い、そしてカシリア殿下の心さえも奪おうとしている、無邪気な略奪者。


リリスは震える指先を左手で押さえつけ、ペンを走らせた。


『親愛なるお姉様へ』


文字が歪みそうになるのを、意志の力でねじ伏せる。


『お姉様からの温かい励ましの手紙と、貴重な支援金、確かに受け取りました。……貴女の優しさに、私の凍えた心も救われる思いです』


吐き気がした。


彼女が送ってきた金は、カシリア殿下の剣術指南役として得た報酬だ。


私が知らない間に、私の婚約者の傍らで、剣を交え、汗を流し、笑い合って手に入れた金。


その金貨一枚一枚に、二人の裏切りの時間が染み付いているようで、触れることさえおぞましい。


だが、リリスは書かねばならない。


自ら母を殺した罪深き娘で、物分かりの良い、新しい家族ができて嬉しく生きている妹としての感謝を。


『お姉様が王都で活躍されていると聞き、私も鼻が高いです。どうか私のことは心配なさらないで。……いつかまた、家族全員で笑い合える日を夢見ています』


嘘…嘘、嘘!


この裏切り者、恥知らぬ泥棒猫!田舎生まれの劣等種が!


紙面を埋め尽くす言葉のすべてが、私の本心を逆撫でする。


家族全員で笑い合う?


そんな未来は、私が死んだ後にしか訪れない。


いや、私が死ねば、彼らは私の墓標の前で、真に幸福な「完璧な家族」となるのだろう。


リリスは最後の文字を書き終えると、ペンを乱暴に置いた。


インクが机に飛び散り、黒い染みを作った。


封蝋を垂らし、タロシア家の紋章を押す。


赤い蝋が固まっていく様をじっと見つめていたリリスは、不意に視界が暗転するのを感じた。


「……っ、は、ぁ……」


喉が詰まる。


空気が吸えない。


胸郭が鉄のコルセットで締め上げられたように圧迫され、酸素が入ってこない。


リリスは机の端を掴み、ガタガタと震わせた。


苦しい。


悲しい。


誰にも言えない。


この手紙に書いたことは全て嘘だ。


私は聖女ではない。


父親の愛する家族たちを大嫌いに思ってる嫉妬心の強い悪女だ。


民を騙し、食糧を焼き払い、老人から安息を奪った悪魔だ。


そして、婚約者と姉に、心にもない愛と感謝を綴る道化だ。


「……う、うう……」


喉の奥から、ひしゃげた悲鳴が漏れる。


涙が溢れ、視界が滲む。


助けて。


誰か、私を見つけて。


この完璧な仮面の下で、私が血を流して泣いていることに気づいて。


だが、部屋には誰もいない。


ロキナさえも遠ざけた今、ここにいるのは孤独という名の怪物だけだ。


カシリア殿下は今頃、エリナ姉様と楽しく過ごしているのだろうか。


父は、新しい家族に囲まれて安らいでいるのだろうか。


私だけが、この灰色の領地で、罪と嘘に塗れて凍えている。


「……はぁ、はぁ、っ……」


リリスは過呼吸になりながら、必死に机にしがみついた。


爪が木板に食い込み、折れそうになる。


死にたい。


いっそこのまま息が止まれば。


だが、死ぬことさえ許されない。


私には、最後まで悪役令嬢を演じきる義務がある。


長い時間をかけて、リリスは呼吸を整えた。


乱れた髪を手櫛で撫でつけ、涙で濡れた頬をハンカチで拭う。


鏡を覗き込む。


そこには、赤く腫れた目をした、惨めな少女が映っていた。


リリスは両手で頬を叩いた。


パン、と乾いた音が室内に響く。


口角を上げる。


もっと、自然に。


もっと、優雅に。


聖女らしく。


愛される妹らしく。


「……大丈夫」


鏡の中の虚像に向かって、リリスは囁いた。


声はもう震えていない。


「私は、タロシア公爵家のリリス。……カシリア殿下の、完璧な婚約者ですわ」


鏡の中の少女が、美しく、そして凍りつくような笑みを返した。

もし、少しでも心に残ったら、

【★評価】 & 【ブクマ】 & 【感想】 で応援頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ