第139話 立派な演出
王宮の執務室は、沈黙という名の重い帳に覆われていた。
豪奢な燭台の炎だけが、部屋の主であるカナロア国王の彫りの深い顔を照らし出し、その影を壁に長く伸ばしている。
彼は手にした羊皮紙の報告書に視線を落としたまま、微動だにしなかった。
その瞳は深淵のように暗く、底知れぬ知性を宿している。
正面に直立する近衛騎士ビアンナは、冷や汗が背筋を伝うのを感じていた。
彼女がもたらした報告は、あまりにも衝撃的かつ不可解なものだったからだ。
「……報告は以上か」
カナロアの声は低く、感情の色が削ぎ落とされていた。
「はっ。ガーナー領の備蓄庫は全焼。カシリア殿下が送られた支援物資も全て灰となりました」
ビアンナはためらいながら、言葉を継いだ。
「現地からの情報によれば、火災の原因は祭りの花火による事故とのこと。……その後、リリス様はガロス卿より全権を委譲され、直ちに福祉の撤廃と労働対価制への移行を宣言されました」
「ふむ」
カナロアは短く鼻を鳴らした。
彼は報告書を机の上に放り出した。
乾いた音が、静寂を裂く。
「ビアンナ。お前はこの報告を信じるか?」
不意の問いに、ビアンナは目を瞬かせた。
「信じる、とは……?」
カナロアは指先で机を叩いた。
規則的なリズムが、思考の鼓動のように響く。
「燃えたのは『全て』だ。……まるで、最初から燃やすつもりで薪を組んでいたかのように、綺麗にな」
ビアンナは息を呑んだ。
王の言葉が示唆する恐ろしい可能性に、思考が追いつかない。
「まさか……陛下は、これが人為的なものだと?」
「人為的?違うな。これは『政治的』な火だ」
カナロアは椅子に深く背を預け、天井を見上げた。
その口元には、獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「リリス嬢だ。……彼女がやったのだよ」
「なっ……!?」
ビアンナは声を上げた。
脳裏に、あの儚い少女の姿が浮かぶ。
「あの方が……?いえ、あり得ません!彼女は民のために自ら消火に走り、涙を流して悲しんでおられたと……!」
「それが『演出』だと言うのだ、ビアンナ」
カナロアは冷たく切り捨てた。
「彼女は見たのだ。ガロスの腐った善意を。……傷ついた者を甘やかし、領地全体を死に至らしめる『優しい毒』をな」
王は空中で何かを掴むように手を握った。
「その毒を抜くには、どうすればいい?……解毒剤などない。患部ごと焼き払い、強制的に更地にするしかない。彼女はそれを実行したのだ。自らの手を汚し、悪名を被る覚悟でな」
ビアンナは戦慄した。
もし王の推測が正しければ、あの可憐な少女は、数千の民の食糧を奪い、領主を絶望の淵に突き落とすことを、平然とやってのけたことになる。
それは、悪魔の所業だ。
だが同時に、その結果として、ガーナー領は今、かつてないほどの活気を取り戻しつつある。
「……理解できんか?それが『統治』だ」
カナロアはビアンナの動揺を見透かしたように言った。
「善人だけでは国は守れん。時には悪魔になり、屍を乗り越えて進む非情さが必要なのだ。……カシリアには、それがない」
王の声に、微かな侮蔑と、それを上回る歓喜が混じる。
「あいつは甘い。理想ばかりを語り、手を汚すことを恐れる。……だが、リリス嬢は違う。彼女には『闇』がある。王冠の重さに耐えうる、強靭な闇が」
カナロアは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
眼下に広がる王都の夜景を見下ろす背中は、絶対的な権力者の威圧感を放っている。
「ビアンナ。……彼女は化けるぞ」
「は……」
「カシリアのただの飾り人形ではない。……あの娘は、国の毒を喰らい、血肉に変える『魔女』になる素質がある」
王は振り返り、ビアンナを射抜くように見据えた。
「支援金の追加要請が来ているな?」
「は、はい。リリス様の名で、至急の支援をと……」
「放置しろ」
カナロアは残酷な命令を下した。
「金など送るな。……彼女は既に、次の手を打っているはずだ。隣領から人を呼び、競争を生み出し、灰の中から黄金を錬成しようとしている。……水を差すな」
「しかし、それでは民が……」
「民は生き延びる。彼女がそうさせるからだ。……見届けろ、ビアンナ。一人の少女が、どのようにして一国の王さえも驚嘆させる『支配者』へと変貌するのかを」
カナロアは愉悦に満ちた笑い声を上げた。
執務室の闇が、その笑い声に共鳴して震える。
ビアンナは深く頭を垂れた。
彼女の胸中には、リリスへの畏怖と、得体の知れない期待が渦巻いていた。
今、辺境の地で産声を上げているのは、この冷酷な王さえも認めざるを得ない、真の「女王」なのかもしれない。




