第136話 支配権
夜空は未だ赤く染まり、崩れ落ちた倉庫の残骸からは黒煙が立ち昇っていた。
リリスは膝をつき、熱を持つ地面にその白い手を置いた。
舞い落ちる灰が、雪のように彼女の髪と睫毛に積もっていく。
周囲を取り囲むのは、家と食糧を失った領民たちの、沈黙と啜り泣きだけだった。
彼らの視線は、全てこの一点、灰の中に跪く一人の少女に注がれている。
「……神よ」
リリスは濡れた瞳を天に向け、震える唇を開いた。
その声は鈴の音のように澄んでいながら、悲痛な響きを帯びて夜気に溶けていく。
「どうか、この罪なき民をお救いください。彼らの糧が失われたのは、私の不徳の致すところ……。どうか怒りを鎮め、慈悲の光をお与えください」
計算された涙が一筋、煤けた頬を伝い落ちる。
その姿は、宗教画に描かれる聖女そのものであった。
自らも火消しに奔走し、泥と煤にまみれながら、それでも民のために祈る高貴な令嬢。
その圧倒的な「美」と「献身」は、絶望の淵にいた人々の心に、強烈な信仰心として刻印された。
「おお……リリス様……」
「俺たちのために、泣いてくださっている……」
「聖女様だ……」
誰からともなく、祈りの声が上がった。
一人、また一人と、領民たちがリリスに倣って地面に跪く。
失意の底にあった彼らは、今、新たな縋るべき希望を見つけたのだ。
リリスは伏せた瞼の裏で、密かにその光景を観察していた。
(泣きなさい。崇めなさい。貴方たちのその盲目な信仰こそが、私が次に打つ手のための最強の盾となるのです)
彼女は胸の前で手を組み、さらに深く頭を垂れた。
その心臓は、罪悪感という名の氷柱で貫かれながらも、規則正しく冷徹なリズムを刻み続けていた。
夜明けが近づく頃、仮設の救護テントの中でガロス卿が目を覚ました。
彼は身を起こすと同時に、うわ言のように呻いた。
「燃えた……私の、食糧が……」
その瞳には正気の色がなく、ただ喪失の闇だけが広がっている。
リリスは静かに彼の寝台の傍らに歩み寄った。
傍らには、車椅子に乗ったナミスも控えている。
「……ガロス卿」
彼女は母が子を諭すような、柔らかく慈悲深い声で呼びかけた。
ガロスは弾かれたように顔を上げ、リリスの姿を認めると、その場に崩れ落ちるように土下座した。
「リ、リリス様……!申し訳ありません!貴女様をお招きしておきながら、このような……このような失態を!」
老いた領主の背中は激しく震え、床板に涙のシミを作っていく。
「私が……私が管理を怠ったからです……。長年の備蓄を一瞬で……。民になんて詫びればいいのか……死んで償うしか……」
「顔をお上げください」
リリスは膝を折り、ガロスの震える両手を包み込んだ。
その手は温かく、しかし逃れられない枷のように強く彼を拘束した。
リリスは真っ直ぐに彼の目を見つめた。
その瞳には、反論を許さない神聖な光が宿っていた。
「ガロス卿。貴方の優しさは尊い。ですが、その優しさだけでは、この火を消すことはできませんでした」
彼女は言葉を切り、残酷な事実を突きつけるように、声を潜めた。
「今、領地に必要なのは、優しさではなく『強さ』です。灰の中から立ち上がるための、冷徹なまでの決断力です」
ガロスは呆然と口を開いた。
リリスの言葉は、彼の心の最も脆弱な部分を正確に射抜いていた。
自分のやり方では守れなかった。
自分の優しさが、結果として民を路頭に迷わせた。
その強烈な自己否定と罪悪感が、彼の思考能力を奪っていく。
「私には……無理です……。もう、何も考えられない……」
ガロスは子供のように首を横に振った。
堕ちた。
「ならば、その重荷を私が背負いましょう」
リリスは聖母の微笑みを浮かべ、甘い毒を含んだ提案を口にした。
「ガロス卿。……この領地の全権限を、一時的に私に委任していただけませんか?」
リリスの言葉に、ナミスが息を呑む気配がした。
しかし、ガロスにとっては、それは地獄に垂らされた救いの糸だった。
「リリス様が……?」
「はい。カシリア殿下の名代として、私が責任を持って復興を指揮します。王家への報告も、資金の手配も、全て私が処理いたしましょう」
それはつまり、ガロスの失政を帳消しにし、全ての責任を肩代わりするという申し出だ。
罪の意識に押し潰されそうな彼にとって、これほど救いとなる言葉はない。
「ああ……なんという慈悲深さ……」
ガロスはリリスの手を額に押し当て、嗚咽した。
「お願いします……!どうか、愚かな私をお救いください……!この領地の全てを、貴女様に捧げます……!」
「承りました」
リリスは厳かに頷いた。
「私が必ず、みんなを救ってみせますわ」
その瞬間、支配の契約は成立した。
ガロスは名目上の領主としての地位を残しながら、実質的な権力と意思決定権の全てをリリスに譲り渡したのだ。
リリスは立ち上がり、テントの入り口へと向かった。
外からは、白々と夜が明ける光が差し込んでいる。
(これでいい)
彼女は心の中で呟いた。
善良な領主を精神的に殺し、その亡骸の上に玉座を築いた。
ナミスが涙ながらに「ありがとうございます」と感謝の言葉を投げかけるのを背中で受け止めながら、リリスは朝日の中に踏み出した。
「本当の貴族と支配者は、こういう汚いものなんですよ。」




