表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

133/161

第133話 罪の匂い

祭りの喧騒は、夜が深まると共に狂熱の度合いを増していた。


太鼓のリズムが大地を震わせ、数千の足音が心臓の鼓動のように重なり合う。


リリスは演台の袖、暗がりに身を潜めていた。


華やかな表舞台から一歩退いたそこは、光と影の境界線。


「……終わりました」


闇の中から、低い囁き声が滑り込んだ。


タロシア家の騎士だ。


彼は祭りの影に紛れ、誰にも気取られることなくリリスの背後に跪いていた。


「中身のすり替え、及び点火装置の作動、完了いたしました。……既に、種火は燻り始めております」


その報告は、死刑執行の合図のように冷たく響いた。


リリスは扇子で口元を隠し、わずかに頷く。


「ご苦労様。……陽動の方は?」


「手はず通り、備蓄庫とは正反対の廃屋に仕掛けてあります。風向きも計算通り。まもなく、派手に燃え上がるでしょう」


完璧だ。


あまりにも順調すぎて、怖気が走る。


私の指先一つで、この幸せな夜が地獄へと変わる。


「下がりなさい。……決して、悟られぬように」


「御意」


気配が消えた。


残されたのは、遠くから聞こえる笑い声と、リリスの掌に残る冷ややかな汗だけ。


彼女は震える手を強く握りしめ、自分自身に言い聞かせた。


これは必要なこと。


腐敗した善意を焼き払い、新しい芽を吹かせるための、聖なる炎なのだと。


「リリス様、こちらにおられましたか」


ガロス卿が、上気した顔で歩み寄ってきた。


手には陶器のジョッキが握られている。


「民たちが貴女を呼んでいますぞ。さあ、もう一度壇上へ……」


その時だった。


広場の反対側、夜空の一部が赤く染まった。


「――火事だ!!」


誰かの叫び声が、音楽を切り裂いた。


一瞬の静寂の後、広場はパニックに包まれる。


「なんだと!?」


ガロスが目を見開き、ジョッキを取り落とした。


陶器が砕ける音が、不吉な鐘の音のように響く。


リリスは、女優としての仮面を瞬時に被った。


「ガロス卿!あちらは……民家ではありませんか!?」


彼女は悲鳴に近い声を上げ、燃え上がる方向を指差した。


その指先は震えているが、目は冷静に状況を観察している。


「い、いかん!直ちに消火を!ナミス、指示を……いや、ナミスは動けん!」


ガロスは狼狽し、右往左往している。


善良な彼は、突発的な危機に対してあまりに脆い。


これが、この領地の限界だ。


リリスは彼の手を取り、強く握りしめた。


「落ち着いてください、ガロス卿!私が指揮を執ります!」


「リ、リリス様……?」


「警備隊は東側の井戸へ!若い男性たちはバケツリレーを!女性と子供は広場の中央へ避難させて!」


リリスの声は、混乱する群衆を貫く鋭さを持っていた。


彼女の的確な指示に、人々は弾かれたように動き出す。


「おお……なんと気丈な」


ガロスは感嘆の声を漏らし、リリスに従って走り出した。


誰も気づいていない。


リリスが指差した先、人々の意識を集中させたその場所は、陽動のための「囮」であることを。


そして、その背後で、本命の備蓄庫が静かに、しかし確実に炎に包まれつつあることを。


「水を!もっと水を運べ!」


「風下には行くな!延焼を防げ!」


リリスは広場の中央に立ち、声を張り上げていた。


ドレスの裾は泥で汚れ、美しい銀髪は灰を被っている。


その姿は、民を守るために戦う聖女そのものだった。


だが、彼女の心臓は、氷のように冷え切っていた。


(燃えなさい。もっと、激しく)


彼女の視線の端で、備蓄庫の方角から黒煙が上がり始めた。


陽動の火に目を奪われている人々は、まだそれに気づかない。


中身が枯れ葉と木屑である偽の備蓄は、一度火が付けば爆発的に燃え広がる。


消火など不可能なほどの勢いで。


「リリス様!危険です、お下がりください!」


車椅子のナミスが、必死に声をかけてくる。


彼は自分の無力さを呪うように、拳を膝に叩きつけていた。


「いいえ、ナミス!私はここに残ります!」


リリスは彼に向かって叫んだ。


「民が不安に怯えているのです!王家の人間として、背を向けるわけにはいきません!」


嘘だ。


私がここにいるのは、備蓄庫が完全に灰になるのを見届けるため。


そして、貴方たちの目を、真実から逸らし続けるため。


広場の熱気は、祭りのそれから災害のそれへと変貌していた。


熱風が頬を打ち、焦げ臭い匂いが鼻孔を満たす。


それは罪の匂いだった。


私が招いた、私だけの罪の匂い。


リリスは舞い上がる火の粉を見上げ、心の中で泣き叫びながら、それでも気高く美しい命令を下し続けた。


「諦めてはいけません!私たちの家を、守るのです!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ