第132話 火刑の聖女
夜の帳が下りると同時に、ガーナー領の広場は、地上に落ちた星々のような焚き火の群れで埋め尽くされた。
爆ぜる薪の音、肉を焼く香ばしい煙、そして酒精に酔いしれる人々の喧騒。
それら全てが混然一体となり、熱気となって夜空へと立ち昇る。
その広場を見下ろすように設えられた演台。
リリスは、緋色の絨毯が敷かれた階段を、一歩ずつ踏みしめて上っていった。
純白のドレスが、松明の明かりを受けて黄金色に揺らめく。
その姿は、闇夜に咲いた一輪の白百合のようであり、あるいは、これから行われる儀式の生贄となる聖女のようでもあった。
彼女が壇上の中央に立ち、群衆を見下ろした瞬間。
波が引くように、広場から音が消えた。
数千の瞳が、彼女一点に吸い寄せられる。
期待、憧憬、そして希望。
それらの視線が、物理的な熱量を持ってリリスの肌を刺す。
リリスはゆっくりと息を吸い込んだ。
肺に満ちる夜気は冷たいが、吐き出す息は熱い。
今、この瞬間、私は女優になる。
国を傾けるほどの悪女を演じきる。
「愛するガーナーの民よ」
リリスの声は、夜風に乗って朗々と響き渡った。
鈴を転がすような美声でありながら、決して風に消えない芯の強さがある。
「今宵、この素晴らしい祭りに招かれたことを、カシリア殿下の名代として、心より感謝いたします」
彼女は優雅に手を広げた。
その仕草一つで、民衆の吐息が漏れる。
「貴方たちの勤勉さ、そしてガロス卿の慈悲深い統治が、この地に安寧をもたらしました。……ですが、私たちの歩みはここで終わりではありません」
リリスは一拍置き、瞳に力強い光を宿して語りかけた。
「カシリア殿下は約束されました。このガーナー領こそが、王国の新たな希望となると!備蓄された食糧は、単なる保存食ではありません。それは、貴方たちがこれから迎える、輝かしい未来への種籾なのです!」
嘘だ。
その種籾の中身は、枯れ葉と木屑だ。
けれど、民衆はその言葉に酔いしれた。
「おお……!」
「リリス様万歳!カシリア殿下万歳!」
歓声が波紋のように広がり、やがて轟音となって広場を揺るがす。
リリスはその熱狂を、冷ややかな心の目で見つめていた。
彼らは信じている。
明日も、明後日も、変わらぬ平穏が続くと。
私の言葉が、彼らの生活を保証する契約書だと信じている。
なんと愚かで、なんと愛おしい羊たちだろうか。
私はその信頼を、これから裏切り、焼き払う。
演台の袖では、ガロス卿が涙を拭っていた。
「素晴らしい……。リリス様は、真の指導者だ」
その横で車椅子に座るナミスもまた、潤んだ瞳でリリスを見上げている。
「あの方こそ、この国の光だ。……私は、あの方にお仕えできて幸せだ」
彼らの言葉が、リリスの耳に届く。
称賛の言葉。
感謝の言葉。
それらは全て、鋭利な刃物となってリリスの胸を抉った。
やめて。
私をそんな目で見ないで。
私は光ではない。
貴方たちが拝んでいるのは、破滅を招く死神だ。
リリスは微笑みの形を崩さぬまま、心の中で血の涙を流した。
ガロスの純朴な善意が、ナミスの盲目的な忠誠が、リリスを逃げ場のない罪の檻へと閉じ込めていく。
もし、ここで「全て嘘だ」と叫べば、私は楽になれるだろうか。
いいえ、できない。
私はカシリア殿下の婚約者。
タロシア公爵家の娘。
その誇りと立場を守るためには、この身がどれほど汚れても、悪魔とダンスを踊り続けなければならない。
「さあ、祝いましょう!今宵の宴が、永遠の語り草となるように!」
リリスが高らかに叫ぶと、広場は爆発的な歓喜に包まれた。
空には花火が打ち上がり、色とりどりの光がリリスの白皙の顔を照らす。
民衆は踊り、歌い、リリスの名を叫ぶ。
その熱狂の中心で、リリスは完全に独りだった。
誰一人として、彼女の仮面の下にある凍てついた絶望を知らない。
この完璧なアリバイ。
数千人の証人。
祭りの最中、ずっと壇上で民と触れ合っていたリリスに、放火の疑いなどかかるはずがない。
心理的な防壁は完成した。
後は、あの倉庫で火の手が上がるのを待つだけ。
「……燃えなさい」
歓声にかき消されるほどの小さな声で、リリスは呟いた。
その瞳に映るのは、打ち上げ花火の光ではなく、間もなく訪れる紅蓮の炎だった。
私の心も、希望も、愛も。
全て燃え尽きて、灰になればいい。
そうすれば、私は本当の意味で、感情のない人形になれるのだから。
リリスは聖女の仮面を完璧に貼り付けたまま、地獄の業火が上がるその瞬間を、静かに待ち続けた。




