表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/343

第13話 血濡れの天使

リリスはひとり校門へ向かい、馭者と短く言葉を交わした。


やがて馬車はその場を離れ、彼女は単身で街区の方角へと歩き出す。


殿下の命により、ナミスは距離を保ったまま、彼女の動向を監視していた。


――だが、様子がおかしい。


リリス様は帰路を変更し、ひとりで街区へ向かっている。


最近この周辺では、窃盗や誘拐事件が頻発しており、「単独行動を控えるように」という警告文が学校や通りに掲示されているはずだ。


まさか……リリス様がそれを知らない?


もしそうなら危険すぎる。


あの高貴な装いは、誘拐犯にとって格好の標的だ。


ナミスは気配を消し、視認距離を保ったまま後を追った。


日が西へ傾き、夕闇が街を包み始めた頃。


宝石店の前に立つリリス様の姿が見えた。


――次の瞬間、老婆とぶつかり、倒れる。


リリス様はすぐに立ち上がり、老婆に手を差し伸べた。


……本当に、あの方は甘い。


貴族なら、平民にぶつかられれば怒鳴り散らす者も多い。


荒い者なら、その場で制裁すら加えるだろう。


それでもリリス様は、自然に手を伸ばし、相手を気遣う。


その姿は、まさしく理想の貴族だった。


ナミスは無言で観察記録を取っていたが――ふと顔を上げる。


……いない?


リリス様の姿が、宝石店の前から消えていた。


入店したのか。


そう考え、窓際の棚影から店内を覗く。


しかし、いくら探しても、彼女の姿は見当たらない。


――瞬間移動でもしたのか?


胸騒ぎが走る。


周囲を走って確認する。


通りにも、店内にも、いない。


貴族女性の歩行速度から逆算して――


路地か。


裏道を調べ、ついに異変を発見した。


一見何もない袋小路。


だが入口を塞ぐように、複数の男が立っている。


その足元。


僅かに覗く、淡色のスカートの裾。


……間違いない。


リリス様だ。


そして、湿った風に乗って微かに届いたのは、下卑た男たちの含み笑いと、金属の冷たい反射光だった。


――誘拐か。


全身の血が沸騰しそうになるのを理性が抑え込む。


正面から飛び込めば、彼女の喉元に刃が突き立てられるだろう。


ナミスは瞬時に判断し、壁の凹凸に指をかけ、猫のように音もなく建物を駆け上がった。


「おい、あれ泥棒じゃないか?」


「衛兵を呼べ!」


眼下から野次馬の呑気な声が聞こえるが、構ってはいられない。


屋根の上、地上十メートルから見下ろした路地の奥は、最悪の盤面だった。


逃げ場のない袋小路。


リリス様を取り囲む三人の大男。


そして何より致命的なのは、彼女の背後に立つ老婆の手にあるナイフだ。


一瞬の遅れが死を招く。


距離、風向き、足場の強度。


全てが不確定な闇の中。


だが、迷っている時間はない。


ナミスは祈りではなく、殺意を込めて虚空へと身を投げた。


ただ、彼女を救うためだけに。


――――――――


「そろそろだね。場所を変えるよ」


背後の老婆がしゃがれた声で指示を出す。


「ったく、しらけるぜババア」


男の一人が舌打ちをし、黒い麻袋を取り出した。


人が一人、死体のように収まる大きさの袋。


ああ、私はここで終わるのね。


老婆が懐から取り出した布が、私の口と鼻を強引に塞ぐ。


鼻腔を突く刺激臭。


その瞬間、私の思考は恐怖よりも先に、ある記憶へと飛ばされた。


この匂いを知っている。


甘ったるい薬品と、饐えたアルコールの混じった香り。


あの日、私がエリナに飲ませた毒入りワインと同じ匂いだ。


量や濃度は違えど、その本質は同じ。


前世で私が妹を殺そうとした毒が、今世では私を殺すために使われる。


なんという皮肉、なんという因果だろう。


これは罰なのだ。


私の罪が、形を変えて私を殺しに来たのだ。


そう思うと、抵抗する気力すら湧いてこなかった。


私は静かに瞼を閉じ、肺を満たす毒と、首筋の刃の冷たさを受け入れた。


――その時だった。


空が裂けるような音と共に、背後で何かが「潰れる」音がした。


悲鳴すら上がらなかった。


熟れた果実が弾けるような、湿った破壊音。


同時に、私の肩に乗っていた刃の重みが消え、代わりに熱く生臭い液体が、背中から頬へと飛び散った。


「……え?」


呆然と振り返る私の目に映ったのは、頭部を失って崩れ落ちる老婆と――その向こうに立つ、返り血に染まった影。


見慣れた親衛隊の制服。


けれど、その瞳は私の知る従順な騎士のものではない。


獲物を屠る獣の眼光。


「あ……が……!?」


男たちが武器に手をかけるより速く、影が疾走した。


「こちらへ、リリス様!」


私を背後に突き飛ばすと同時、彼は流れるような動作で短刀を振るう。


銀閃が闇を切り裂き、三つの肉塊から鮮血の雨を降らせた。


断末魔をあげる暇さえ与えない、完璧な殺戮。


舞い散る血飛沫の中で、彼はゆっくりと此方を向いた。


獣の瞳から殺意が引いていき、そこに痛いほどの忠誠と慈愛が宿る。


「ご無事ですか、リリス様」


差し出された手は血で汚れていたけれど、私にはどんな聖人の手よりも清らかに見えた。


男たちの死体が転がる路地に、夕日が差し込む。


逆光の中に立つ彼は、地獄に舞い降りた天使だった。


誰もが私を断罪するこの世界で。


罪人の私を、彼だけが助けに来てくれた。


運命という名の絶望から、私を引き上げてくれた。


「怖かった……っ」


私はなりふり構わず、血濡れの天使に飛びついた。


ドレスが汚れることなどどうでもよかった。


「このまま……消えてしまうかと……誰も助けに来ないかと……!」


「リリス様……」


「ありがとう……ありがとう、ナミス……!」


震えが止まらない体を、彼に預ける。


この温もりが幻でも構わない。


私の罪も、汚れも、すべてを受け止めてくれるこの腕の中に、今はただ溺れていたかった。

少しでも心に残ったら、

★評価&ブックマークで応援お願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ