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第129話 邪魔な婚約者

祭りの足音が、日増しに大きくなっている。


ガーナー領の空気は、かつてないほどの熱気に包まれていた。


通りには色とりどりの旗が掲げられ、広場では屋台の準備に追われる領民たちの笑い声が絶えない。


誰もが浮き足立ち、来るべき「豊穣の感謝祭」を心待ちにしている。


その中心にあるのは、ガロス卿が約束した「備蓄庫の開放」という甘い餌だ。


私は、領主館の窓からその光景を見下ろしながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。


「……リリス様、顔色が優れませんが」


背後から、ナミスの心配そうな声がかかる。


彼はまだ車椅子の上だが、私の語る「未来」に希望を見出し、以前より少しだけ血色が良くなっていた。


私は振り返り、完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。


「いいえ、ただ……皆の喜びようを見て、責任の重さを感じていただけですわ」


嘘だ。


私が感じているのは、バレることへの恐怖と、彼らを地獄へ突き落とす罪悪感だけ。


私の胃の腑では、焦燥という名の虫が暴れ回っている。


もし、私兵たちの搬入作業が見咎められたら。


もし、ガロス卿がふと気まぐれを起こして、袋の中身を確認したら。


私の計画は水泡に帰し、私は稀代の詐欺師として断罪されるだろう。


「大丈夫です、リリス様。貴女の計画は完璧です。……私たち親子も、全力で支えますから」


ナミスの無垢な信頼が、私の心臓を雑巾のように絞り上げる。


「ええ……ありがとう、ナミス」


私は震える指先をドレスのひだに隠し、今日もまた、ありもしない未来の繁栄を語り続けた。


この舌が紡ぐのは希望の詩ではなく、彼らへの鎮魂歌だとも知らずに。


その日の午後、王都からの早馬が到着した。


届けられたのは二通の手紙。


一つは、重厚な王家の封蝋が施された、カシリア殿下からの親書。


もう一つは、見慣れない可愛らしい封筒に入った手紙だった。


私は自室に鍵をかけ、震える手で殿下の手紙を開封した。


インクの匂いと共に、懐かしい彼の筆跡が目に飛び込んでくる。


『親愛なるリリスへ』


その一文だけで、張り詰めていた糸が切れそうになるほど安堵した。


『本日、対帝国用の騎士候補選抜を行った』


『選抜は順調だ。有望な男子生徒が数名見つかった。彼らを鍛えれば、コリンダ王子とも十分に渡り合えるだろう』


『君の予言のおかげで、準備は万全だ。王都のことは心配せず、今は領地のことに専念してほしい』


読み進めるごとに、胸の奥が温かいもので満たされていく。


殿下は、私の言葉を信じてくださった。


私の予言を重んじ、着実に行動してくださっている。


文面から滲み出る配慮と優しさ。


私を心配させまいとする、彼の誠実さ。


「……よかった」


私は手紙を胸に抱きしめ、長椅子に深く沈み込んだ。


私は独りではない。


遠く離れていても、殿下と心は繋がっている。


この汚れた計画も、全ては彼の隣に立つため。


彼が私を信じてくれるなら、私はどんな泥でも被れる。


そう思えた。


……もう一通の手紙を開くまでは。


私は不思議に思いながら、もう一通の封筒を手に取った。


差出人の名は書かれていないが、封蝋の代わりに押されたスタンプは、どこか見覚えのある花の形をしていた。


ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。


そこには、踊るような奔放な文字で、衝撃の事実が綴られていた。


『リリスへ!元気ですか?』


呼吸が止まった。


この馴れ馴れしい口調。


この筆跡。


エリナだ。


『驚かないでね。私、なんと王家学院の剣術指南役になっちゃいました!』


『騎士選抜のテストがあったんだけど、カシリア様が「お前ならできる」ってチャンスをくれてね。ちょっと頑張ったら、みんなビックリしちゃって!』


指先から血の気が引いていく。


『カシリア様のおかげで、すごいお給料もらっちゃいました。だから、半分リリスに送りますね!領地の管理、大変だと思うけど頑張って!』


『カシリア様ってば、厳しいけど本当は優しいよね。私たちのこと、すごく考えてくれてるみたい』


同封されていた為替証書が、パラリと床に落ちた。


それは、平民が一生かかっても稼げないような大金だった。


善意。


純度100%の、混じり気のない善意と親愛。


そして、それと同じ質量の、残酷な真実。


私は二通の手紙を並べ、交互に見比べた。


カシリア殿下の手紙には、「エリナ」の文字は一つもない。


「有望な男子生徒が数名見つかった」としか書かれていない。


エリナの手紙には、「カシリア様がチャンスをくれた」「指南役になった」と書かれている。


矛盾。


欺瞞。


隠蔽。


私の脳裏で、何かが音を立てて崩れ落ちた。


「……あ、は」


乾いた笑いが漏れた。


なぜ?


なぜ、殿下は私に隠したの?


『有望な男子生徒』?違う、選ばれたのはエリナでしょう?


貴方がチャンスを与え、貴方が認め、貴方が傍に置いたのは、私の最も恐れる「姉」でしょう?


なぜ、嘘をつくの。


私を安心させるため?


それとも、私には言う価値もないことだから?


「……っ!」


私はカシリア殿下の手紙を握り潰した。


優しさだと思っていた文面が、今は嘲笑のように見える。


『王都のことは心配せず』


それはつまり、蚊帳の外にいろということか。


エリナと二人で、新しい物語を紡ぐから、邪魔な婚約者は辺境で大人しくしていろということか。


「酷い……」


涙が溢れて止まらない。


いずれは奪われると、覚悟はしていた。


彼女は光のヒロインで、私は悪役令嬢だから。


でも、こんなに早く、こんなにあっけなく。


しかも、私が彼のために手を汚し、心をすり減らしている、まさにその瞬間に。


「もう少しだけでも……私のことを配慮してほしかった」


嗚咽が部屋に響く。


嘘をつくなら、最後までつき通してほしかった。


エリナに手紙なんて書かせないように、完璧に管理してほしかった。


この中途半端な優しさが、一番私を傷つける。


「殿下……例え貴方の婚約者になったとしても、貴方も、私を裏切るのですね」


床に落ちたエリナの手紙が、無邪気な顔で私を見上げている。


私はそれを拾うこともできず、ただ膝を抱えて震えた。


窓の外からは、祭りの準備をする楽しげな音楽が聞こえてくる。


その明るさが、今の私には耐え難いほどの拷問だった。


誰も信じられない。


ナミスも、ガロスも、そしてカシリア殿下さえも。


私にあるのは、この薄暗い部屋と、これから実行する「放火」という罪だけ。


私は涙を拭い、虚ろな瞳で顔を上げた。


期待するから傷つくのだ。


愛されたいと願うから、絶望するのだ。


最初からわかるはずだった。


すべては、母を殺した、温かい家を壊した私が背負うべき罪であった。


でも、それでも、やらなければならないことがある。


カシリア殿下が私を見捨てても、エリナが全てを奪っても、このガーナー領の計画だけは成し遂げる。


それが、タロシアの娘としての、最後の意地だから。


私は握り潰した手紙を丁寧に広げ、蝋燭の炎にかざした。


紙が黒く焦げ、炎が文字を舐め尽くしていく。


『親愛なるリリスへ』


その言葉が灰になって崩れ落ちた。

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