第123話 嘘を嘘で
翌日、王家学院の回廊には、目に見えぬ霧のように湿った噂が立ち込めていた。
石造りの壁に反響する足音の隙間から、囁き声が漏れ出し、空気の粒となって漂う。
「見たか?あの女の剣を」
「王太子殿下を倒したらしいぞ」
「一体、何者なんだ?」
学生たちはすれ違いざまに目配せをし、声を潜めて情報を交換していた。
昨日の訓練場で起きた出来事は、一夜にして脚色され、肥大化し、伝説めいた色彩を帯びて学院中を駆け巡っていた。
カシリアが歩けば、波が割れるように道が開ける。
だが、その背中に突き刺さる視線は、以前のような純粋な敬意だけではなかった。
好奇心という名の、粘着質な探求の光が含まれている。
彼らが求めているのは、新たな英雄の「正体」だ。
名も無き女剣士が、なぜ王太子の信頼を得て、指南役などという要職に就いたのか。
その出自は。
家柄は。
貴族社会において、血筋とは即ち存在証明であり、それが不明瞭であることは、最も甘美で危険な蜜の味を放つ。
カシリアは表情筋を凍らせ、完璧な王太子の仮面を貼り付けて回廊を進んだ。
内側では、胃の腑が焼けるような焦燥感が渦巻いている。
一歩間違えれば、リリスを守るための城壁が崩壊する。
その恐怖が、靴音のリズムを微かに狂わせていた。
「殿下、例の件ですが」
人影のない階段の踊り場で、影から染み出すようにザットが現れた。
カシリアは足を止めず、視線だけで先を促す。
「手はず通りに。……『北方の辺境、今は無き小領主の末裔』。武者修行の旅の果てにオレが拾い上げた、と」
低い声で囁く。
それは昨夜、眠れぬ夜を過ごしながら編み上げた、精巧な嘘の網だった。
タロシア公爵家の血縁であることを隠すには、物理的な距離と、確認しようのない没落という設定が必要だ。
「学生たちの間には、既にそのように流布しております。『武芸のみに生きた野蛮な家系』という評価も、あながち彼女の振る舞いと矛盾しませんので」
ザットの報告は淡々としていた。
「……だが、油断はするな。特に高位貴族の子息たちは鼻が利く」
カシリアは釘を刺した。
彼らは血の匂いと秘密の匂いに敏感だ。
少しでも綻びを見せれば、ハイエナのように食らいついてくるだろう。
「御意。……しかし殿下、いつまで隠し通せるものでしょうか」
ザットの問いは、カシリア自身の心の声を代弁していた。
「隠すのではない。……忘れさせるのだ」
カシリアは自らに言い聞かせるように答えた。
「コリンダ王子が来れば、学生たちの関心はそちらに移る。それまでの辛抱だ」
そう、これは時間との戦いだ。
帝国の脅威という巨大な嵐が来るまでの間、この小さな火種を吹き消し続けるしかない。
ザットが再び影に消えると、カシリアは深呼吸をし、重い扉を開けて教室へと入っていった。
教室の空気は、カシリアが入室した瞬間に張り詰めた。
普段なら遠巻きに眺めるだけの令嬢たちが、今日は扇子で口元を隠しながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「ごきげんよう、殿下」
一人の令嬢が声をかけた。
有力な伯爵家の娘だ。
その瞳は笑っているが、奥底には冷徹な計算が見え隠れする。
「昨日の試合、拝見いたしましたわ。……あの、エリナという方。とても野性味あふれる殿方……いえ、女性でしたわね」
「ああ。彼女の剣には、学ぶべきところが多い」
カシリアは社交的な笑みを崩さずに応じる。
「でも、不思議ですわ。あのような実力をお持ちなら、社交界で噂になってもよろしいはず。……どちらのご出身なのですか?」
直球の質問。
周囲の学生たちが、会話を聞き漏らすまいと耳をそばだてる気配がする。
カシリアの背筋に、冷たい汗が伝った。
ここで言葉を詰まらせれば、疑惑は確信へと変わる。
「彼女は、北方の山間部で育ったそうだ。世俗とは無縁の、武のみを尊ぶ古い家柄でね。……家名は既に失われているが、その技だけは本物だ」
用意していた台詞を、滑らかに口にする。
喉が渇く。
嘘を吐くたびに、口の中に砂を噛んだような不快感が広がる。
「まあ、没落貴族の末裔……。まるで物語のようですわね」
令嬢は納得したように頷いたが、すぐに次の矢を放ってきた。
「でも、どこかで拝見したような気がいたしますの。あの金色の髪、そしてあの瞳の色……どこか、タロシア公爵家の……」
心臓が跳ね上がった。
タロシア家の特徴的な色彩。
リリスとは違うが、父親のカスト公爵には似ている部分がある。
カシリアは反射的に令嬢の言葉を遮った。
「他人の空似だろう。……それより、帝国の使節団についてだが」
強引な話題の転換。
不自然さが残ることを承知で、カシリアは声を張った。
「コリンダ王子は武闘派として知られる。我々も、彼女のような実戦経験者から学ばねば、国を守れんぞ」
「国を守る」という大義名分を盾にする。
学生たちの愛国心を刺激し、個人的な詮索から目を逸らさせる。
「そ、そうですわね。帝国の脅威は目前ですもの」
令嬢は気圧されたように引き下がった。
カシリアは内心で安堵の息を吐いたが、手のひらは爪が食い込むほど強く握りしめられていた。
放課後、カシリアは訓練場の隅で、エリナの指導風景を眺めていた。
彼女は今や、完全に場の中心だった。
「違う!そうじゃない、もっと腰を低く!」
「相手が剣を持ってるからってビビるな!蹴り飛ばせ!」
エリナの声が響き渡る。
貴族の作法など無視した、荒っぽい指導。
だが、学生たちは目を輝かせて彼女に従っていた。
昨日までカシリアに向けられていた羨望の眼差しが、今は彼女に注がれている。
彼女は、自身の出生がどれほどの爆弾であるかを知りながら、それを全く感じさせない無邪気さで、周囲を魅了していく。
その光景は眩しく、そして残酷だった。
彼女が輝けば輝くほど、その影に隠された「リリスの姉」という真実が、色濃く浮かび上がってくる。
「……罪な存在だ」
カシリアは呟いた。
彼女に悪意はない。
だが、その無垢な才能こそが、リリスを追い詰め、カシリアを嘘の迷宮へと誘い込む。
カシリアは懐に入れたリリスへの手紙の感触を確かめた。
そこには、この光景の何一つ書かれていない。
ただの虚構、優しい嘘。




