第116話 半端な令嬢
日は傾き、黄昏の赤みが石畳の街路を染め始めていた。
リリスは簡素な外出用のドレスに着替え、スカーフで顔の半分を覆って、領主館を出た。
護衛はザロ一人。
仰々しい行列は避け、ありのままの領地の姿を目に焼き付けるためだ。
街の中心部にある市場へ足を運ぶ。
そこは、王都の市場のような喧騒も、色とりどりの果実が放つ甘い香りも存在しなかった。
並んでいるのは、泥のついた根菜、形の不揃いなリンゴ、そして使い古されて錆びの浮いた農具ばかり。
肉屋の台には、筋張った少量の肉片が置かれているだけで、ハエがその周りを旋回している。
「……これが、市場?」
リリスは息を呑んだ。
商品というよりは、残飯の山に近い。
だが、その光景の中にいる人々の表情は、予想に反して明るかった。
「おや、今日は大根が良い色だねえ」
「ああ、ガロス様が畑の守りを増やしてくれたおかげさ。虫に食われずに済んだ」
「ありがたいことだ。今日も無事に一日が終わる」
店主と客が、穏やかな声で言葉を交わす。
そこには、今日の糧を得られたことへの純粋な感謝と、安堵だけがあった。
貪欲さがない。
より良いものを求めようとする渇望も、隣人より豊かになりたいという競争心もない。
彼らは、この貧しい現状を「幸福」として受け入れている。
リリスの胸に、冷たい違和感が走った。
それは美しい光景のはずだ。
足るを知る、清貧の美徳。
だが、リリスにはそれが、思考を停止した家畜の安らぎのように見えた。
彼らはガロスという優しい飼い主に守られ、緩やかな死を待つ檻の中で、幸せそうに笑っている。
その笑顔が、リリスの心の奥底にある「完璧を求める強欲な自分」をじりじりと焼く。
夜の帳が下り、領主館は深い静寂に包まれた。
リリスに与えられた客室は広く清潔だが、装飾のない壁と硬いベッドが、ここが辺境であることを無言に主張している。
リリスは窓辺の椅子に座り、膝の上で手を組んだ。
震えている。
寒さのせいではない。
今日見た光景と、自身の背負った任務の重圧が、体を芯から冷やしているのだ。
「カシリア様……」
唇から漏れるのは、愛しくも苦しい婚約者の名だ。
彼が託してくれた支援金。
その額は莫大だ。
この金を使えば、ガロスのやり方を否定せず、領民たちの今の生活を守り続けることができるだろう。
彼らの穏やかな笑顔を、壊さずに済む。
美味しい食事を与え、壊れた屋根を直し、この「優しい檻」を補強することは容易い。
だが、それは永遠には続かない。
金が尽きれば、彼らは再び飢え、今度は守ってくれなかった領主を恨むだろう。
未来のためには、産業を興し、競争を生み、外貨を稼がなければならない。
そのためには、無駄を削ぎ落とす必要がある。
生産性のない傷痍軍人への過剰な保護を打ち切り、働ける者に鞭を打ち、競争を強いることになる。
あの穏やかな市場に、殺伐とした欲望の風を吹き込むことになる。
「私は、彼らの幸せを壊しに来たのか?」
リリスは自身の白い手を見つめた。
この手は、かつて自らの命を絶とうとした罪深い手だ。
その手で、今度は他者のささやかな平穏まで奪おうというのか。
ガラスの城を築こうとする私のエゴが、泥の家で満足している彼らを傷つける。
カシリア様は、そんな残酷なことを私に望んだのですか。
それとも、貴方の優しさは、私がこの矛盾に苦しむことさえも見越していたのですか。
答えのない問いが、暗闇の中で螺旋を描く。
その時だった。
風に乗って、微かな音が聞こえてきた。
ピー……ヒョロロ……。
高く、澄んだ音色。
笛の音だ。
リリスは顔を上げ、窓を開けた。
夜気と共に流れ込んできたのは、寂しくも美しい旋律。
月明かりに照らされた庭の片隅、一本の枯れ木の下に、人影があった。
初老の男だ。
片方の袖が風に揺れている。
片腕がない。
彼は残された一本の手で器用に横笛を操り、夜空に向かって音を紡いでいた。
その背中は小さく、頼りない。
だが、そこから奏でられる音楽は、不思議なほど力強く、そして優しかった。
戦場で散った友への鎮魂歌か、あるいは生き延びた自分への慰めか。
音色は、リリスの張り詰めた神経を優しく撫で、荒れ狂う心に静寂をもたらしていく。
「……綺麗」
リリスは窓枠に寄りかかり、その音に聞き入った。
ここには何もないと思っていた。
金も、宝石も、華やかなドレスもない。
けれど、こんなにも美しいものが、泥の中に埋もれていた。
この音色は、彼が痛みを乗り越え、貧しさを受け入れた先に見出した「光」なのかもしれない。
それを、私が奪う権利があるのだろうか。
笛の音が止み、男が去った後も、リリスはしばらく窓辺から動けなかった。
カシリア様。
貴方は、私にこの領地を任せました。
それは、私が「完璧」であろうとするあまり見失っていたものを、ここなら見つけられると信じたからでしょうか。
それとも、この優しくも残酷な現実の中で、私がどう足掻くかを見定めているのでしょうか。
「……私には、分かりません」
リリスはベッドに倒れ込んだ。
シーツは冷たく、公爵邸の羽毛布団のような柔らかさはない。
けれど、笛の余韻が耳の奥に残っているおかげで、不思議と恐怖は薄らいでいた。
カシリアからもらった金で、一時的にこの儚い幸せを守ることはできる。
けれど、それは私の強欲なプライドが許さない。
かといって、彼らを切り捨てる冷酷さも持ち合わせていない。
私は、どっちつかずの、半端な令嬢だ。
貴方の隣に立つ資格など、やはりないのかもしれない。
それでも、今はただ、眠りたかった。
罪悪感と安らぎが混ざり合った泥のような疲労感の中で、リリスは重いまぶたを閉じた。
意識が闇に溶けていく直前、脳裏に浮かんだのは、カシリアの優しい微笑みだった。




