第115話 敵は正義か
馬車の車輪が砂利を噛む音が止まり、長い旅路の終わりを告げる。
護衛の騎士が扉を開け、リリスは差し出された手を取って地面に降り立った。
眼前にそびえるのは、ガーナー子爵家の領主館だ。
石造りの壁は風雨に晒された歳月を感じさせ、所々に蔦が這っている。
庭園には薔薇や百合といった観賞用の花はなく、代わりに薬草や実用的な低木が整然と植えられていた。
華やかさは皆無だ。
だが、荒廃しているわけではない。
掃き清められた石畳、手入れされた植栽、磨かれた窓ガラス。
そこには、極限まで無駄を削ぎ落とした規律と、生真面目な清貧さが漂っている。
タロシア公爵家の、目が眩むような豪奢さと比較すると、ここはまるで堅牢な要塞か修道院のようだ。
リリスは手袋を嵌めた手でドレスの裾を整え、完璧な微笑みを浮かべる。
背筋を伸ばし、一歩を踏み出す。
館の大きな扉が開き、一人の男が姿を現した。
白髪交じりの短髪、日に焼けた肌、そして岩のように逞しい体躯。
ガロス・ガーナー子爵。
かつて王国の騎士団長を務め、退役後も武人としての気迫を失っていない男だ。
彼は粗末だが清潔な麻のシャツと、飾り気のないズボンを身に着けている。
貴族というよりは、古参の兵士長といった風情だ。
ガロスはリリスの姿を認めると、破顔して大股で近づいてきた。
「ようこそおいでくださいました、リリス様!遠路はるばる、この何もない田舎へよくぞ」
その声は大きく、腹の底から響くような温かさがある。
冷徹で隙のない息子ナミスとは似ても似つかぬ、陽だまりのような無防備さだ。
「お初にお目にかかります、ガロス卿。カシリア殿下の婚約者、リリス・タロシアですわ」
リリスは優雅にカーテシーを行う。
「温かいお出迎え、感謝いたします。しばらくの間、厄介になります」
「何の、厄介だなんて!殿下の大切な方を預かることができ、ガーナー家にとってこの上ない名誉。……ささ、旅の疲れもおありでしょう。中へどうぞ」
ガロスは大きな手で館の方を示した。
その掌は分厚く、無数の剣だこや古傷が刻まれている。
労働者の手だ。
領主自らが土に触れ、民と共に汗を流している証左だろう。
リリスはその手に一瞬だけ視線を留め、再び微笑んで歩き出した。
館の内部に足を踏み入れた瞬間、リリスの眉が微かに動くのを止めることはできなかった。
広いエントランスホール。
高い天井。
構造自体は立派な貴族の屋敷だ。
だが、中身が「無い」。
床には毛足の長い絨毯などなく、ただ磨き上げられた木の板が広がっている。
壁にはタペストリーも名画もなく、あるのは古びた盾や剣が数点飾られているのみ。
照明はシャンデリアではなく、実用的な鉄製の燭台だ。
視線を巡らせても、金銀の装飾品、高価な壺、異国の調度品といった、富を象徴するものが一つも見当たらない。
あまりにもガランとしていて、足音が妙に反響する。
「……掃除は行き届いておりますが、少し殺風景でしたかな?」
リリスの視線に気づいたのか、ガロスが頭をかきながら苦笑する。
「いえ、とても……清潔で、落ち着いた雰囲気ですわね」
リリスは言葉を選んだ。
「ははは、そう言っていただけると助かります。何分、私も亡き妻も、着飾ることや贅沢には興味がなく……それに、飾る金があるなら、民のために使いたいと思いましてな」
ガロスは胸を張って言った。
その言葉に一点の曇りもない。
本気でそう信じ、実践しているのだ。
廊下を行き交う使用人たちもまた、異様だった。
きびきびと動く若いメイドや従僕は見当たらない。
代わりに、足を引きずった年配の男性や、片腕のない老人たちが、ゆっくりと、しかし丁寧に掃除をしている。
彼らは皆、ガロスを見ると敬礼し、親しみを込めて挨拶を交わす。
「閣下、お帰りなさいませ」
「おう、腰の具合はどうだ?」
「おかげさまで。今日は調子が良いです」
傷痍軍人たちだ。
国のために戦い、傷つき、行き場を失った者たちを、ガロスはこの館で雇っているのだ。
案内された応接室もまた、驚くほど簡素だった。
置かれているのは、頑丈そうな木製のテーブルと、クッションの薄い椅子だけ。
出された茶は、香り高い輸入茶葉ではなく、地元で採れた薬草茶だ。
カップも白磁の高級品ではなく、厚手の陶器。
「どうぞ、粗茶ですが」
ガロスが自らポットを持ち、茶を注ごうとする。
リリスは慌てて手を出そうとしたが、彼がそれを制した。
「おっと、リリス様は座っていてください。……使用人は最低限しか置いておりませんので、手の空いている者がやるのが当家の流儀でして」
ガロスは楽しそうに笑い、リリスの前にカップを置いた。
湯気と共に、素朴な草の香りが漂う。
リリスはカップを手に取り、一口含んだ。
苦い。
そして、どこか土臭い。
公爵邸で毎日飲んでいた最高級の紅茶とは比べるべくもない。
だが、ガロスはそれを美味しそうに飲み干し、満足げに息をつく。
「ナミスからは、リリス様は聡明で、何事にも真摯な方だと聞いております。……殿下が選ばれた方だ、きっとこの貧しい領地でも、何かを見出してくださると信じておりますよ」
その純粋な信頼の眼差しが、リリスには痛かった。
彼は善良だ。
あまりにも善良すぎる。
貴族の義務である「消費」と「循環」を放棄し、身の丈に合わない慈善事業に全精力を注いでいる。
この館の質素さは、美徳ではない。
経済という血液が凝固し、壊死しつつある証拠だ。
リリスはカップをソーサーに戻した。
カチリ、と硬い音が静寂に響く。
「……ええ、精一杯務めさせていただきますわ、ガロス卿」
リリスは完璧な笑顔で応えた。
その内心で、冷徹な計算式が音を立てて組み上がり始めていた。
ここには「富」がないのではない。
「富を生み出す意志」が欠落しているのだ。
この善良な老騎士の「正義」こそが、私が戦うべき最初の敵なのかもしれない。




