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第112話 精進せよ、カシリア

夜。


カシリアは執務室の重厚な絨毯の上を歩き、父カナロアのデスクの前で足を止める。


背後で扉が閉まる音が、退路を断つ号砲のように響いた。


夜は更け、窓の外には王都の灯りが星の海のように広がっているが、室内の空気は澱み、張り詰めている。


カナロアは書類から目を離さず、羽根ペンを走らせる音だけが空間を支配していた。


「……報告せよ」


その低い声は、質問ではなく命令だった。


カシリアは喉を動かし、乾いた唾を飲み込む。


「本日発生した、エリナ・タロシアへの集団暴行事件についてです。……現場に介入し、被害者を救出。加害者グループを拘束しました」


事実のみを淡々と述べる。


感情を交えれば、即座に付け込まれることを知っているからだ。


「主犯はファティーナ伯爵令嬢。動機は……リリスの名誉を守るため、というものでした」


ペンの音が止まる。


カナロアが顔を上げ、氷のような眼光で息子を射抜いた。


「それで?貴様はどう裁いた」


「……不問に付しました」


カシリアは視線を逸らさず、答えた。


「厳罰に処せば、彼女たちは『リリスのためにやった』と主張し、リリスが暴行を唆したという新たな噂を生む危険性がありました。また、ファティーナ嬢の生家である伯爵家と公爵家の対立を招く恐れもありました。……ゆえに、リリスの門出に免じて罪を許し、厳重注意と監視に留める措置を取りました」


言い終えると同時に、掌に冷たい汗が滲むのを感じた。


これは正義ではない。


保身と政治的妥協の産物だ。


あの泥の中で笑っていたエリナの犠牲の上に成り立つ、薄汚い決着だ。


父は、この欺瞞をどう断じるだろうか。


「ふっ……」


沈黙を破ったのは、短く乾いた嘲笑だった。


カナロアは背もたれに体を預け、組んだ指の上に顎を乗せた。


「甘いな。砂糖菓子のように甘い」


「……」


「だが……不味くはない」


意外な言葉に、カシリアは目を見開く。


「個人的感情を殺し、大局的な利益――タロシア家の名誉と貴族間の均衡を優先した判断だ。正義感ごときで無駄な波風を立てなかった点は評価してやる」


王は立ち上がり、ゆっくりとカシリアに近づいた。


その威圧感は、物理的な質量を持ってカシリアの肩にのしかかる。


「王に必要なのは潔白な正義ではない。泥を被り、血を啜ってでも秩序を維持する冷徹さだ。……その意味では、及第点を与えよう」


カシリアは小さく息を吐いた。


安堵はない。


ただ、王としての論理に屈した自分への虚しさが募るだけだ。


「しかし、カシリアよ。お前はまだ分かっていない」


カナロアの声が、不意に温度を変えた。


嘲りではなく、諭すような、それでいて心の臓腑を抉るような響き。


「何が……でしょうか」


「『我慢』の本質だ」


カナロアは窓辺に歩み寄り、眼下の王都を見下ろした。


「お前はファティーナを許す際、苦渋を感じたな?正義に反すると悩み、心を痛めた」


「……はい。否定はしません」


「それが未熟だと言うのだ」


王は振り返り、鋭く言い放つ。


「リリスを見ろ」


その名の響きに、カシリアの心臓が跳ねる。


「あの娘は、お前より遥かに過酷な地獄を、顔色一つ変えずに歩いているぞ」


「リリスは……」


「母親を失い、父親に裏切られ、挙げ句に愛人の娘に居場所を奪われた」


カナロアは容赦なく事実を列挙する。


一つ一つの言葉が、カシリアの胸に棘となって突き刺さる。


「だが、あの娘はどうした?泣き叫んで周りを責めたか?暴れて同情を引いたか?」


いいえ。


カシリアの脳裏に、リリスの姿が浮かぶ。


婚約を申し込んだ時の、あの儚くも美しい微笑み。


『殿下の婚約者になれるのは、私にとって何よりの光栄ですわ』


『もし殿下が他の女性を好きになったら、教えてくださいませ』


彼女は笑っていた。


心で血を流しながら、完璧な令嬢の仮面を被り、カシリアの罪悪感さえも受け入れて笑っていた。


「あの娘は全てを飲み込んだのだ。憎しみも、絶望も、屈辱も。……その全てを腹の底に沈め、完璧な淑女として、王太子妃として振る舞ってみせた」


カナロアは感嘆とも畏怖とも取れる溜息を漏らす。


「あれこそが貴族だ。あれこそが、王族の隣に立つ者に相応しい『怪物』だ」


「それに比べて、お前の悩みなど児戯に等しい。……一時の感情で正義を叫びたがる子供の癇癪だ」


カシリアは言葉を失い、立ち尽くした。


父の言葉が、霧を晴らすように視界をクリアにしていく。


俺は……リリスを「守るべき弱い存在」だと思っていた。


傷つきやすく、壊れやすい硝子細工だと。


だが、違った。


彼女は誰よりも強く、そして誰よりも残酷なほどに自分自身を律していたのだ。


あの微笑みが、どれほどの鉛のような苦痛の上に成り立っているのか。


あの優雅な振る舞いが、どれほどの悲鳴を押し殺して紡ぎ出されているのか。


その重さを、俺は今の今まで、本当の意味で理解していなかった。


「……彼女は」


カシリアの声が震える。


「彼女は……それほどまでに、強く……そして孤独なのですね」


「孤独を知る者だけが、真に他者の痛みを背負える。……お前が彼女に惹かれるのは、その深淵に無意識に触れているからではないか?」


カナロアの問いかけに、カシリアはハッとした。


惹かれている?俺が?


罪悪感や責任感だけではない。


あの静謐な瞳の奥にある、底知れぬ闇と強さ。


それに触れたい、その重さを分かち合いたいという渇望。


それが「愛」の萌芽であると、父は指摘しているのか。


エリナの太陽のような明るさに救われつつも、魂の深い部分で共鳴するのは、あの月のようなリリスなのかもしれない。


「……精進せよ、カシリア」


カナロアはデスクに戻り、再びペンを執った。


「リリス・タロシアを手放すな。あの娘は、お前を王にするための最強の半身となるだろう。……その心を真に手に入れられるかは、お前の器次第だがな」


「……はい」


カシリアは深く頭を下げた。


入室した時とは違う、重く、しかし確かな覚悟が胸に宿っていた。


「失礼いたします」


執務室を出ると、廊下の冷気が火照った頬を冷やす。


リリスは今頃、馬車に揺られ、遠い領地へと向かっているだろう。


その背中に、どれほどの重荷を背負わせてしまったのか。


カシリアは拳を握りしめ、窓の外の闇を見つめた。


次に会う時、俺は君の仮面の下にある素顔に、触れることができるだろうか。


その資格を持つ男に、ならなければならない。

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