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第110話 剥き出しの「生」

カシリアは口を半開きにし、眉間を親指と中指で強く揉みながら、目の前で繰り広げられる光景を凝視した。


「……はぁ?」


喉の奥から、乾いた疑問符が絞り出される。


理解の範疇を超えていた。


王宮での厳格な作法教育、貴族社会における優雅な立ち振る舞い、それら全てがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。


そもそも、公爵令嬢――たとえ隠し子であったとしても――が、衆人環視の可能性も捨てきれない屋外の湖で、躊躇なく水に飛び込み、あまつさえ髪を洗い始めるなどという事態は、カシリアの人生において想定されたことすらなかった。


「だってこのままじゃ帰れないし!寮監に怒られちゃう!」


エリナは湖水をすくい上げ、バシャバシャと豪快な音を立てて泥を洗い流している。


汚れた水が流れ落ちると、その下からは本来の滑らかな小麦色の肌と、濡れて重みを増した黄金の髪が露わになっていく。


先ほどまで死の淵にいたとは思えない、あまりにも日常的で、そして圧倒的に野性的な生命の輝き。


カシリアは額に手を当て、深く、肺の中の空気をすべて入れ替えるほど長く嘆息した。


王太子の威光も、貴族の常識も、この少女の前では無力だ。


彼女は規格外だ。


リリスとは対極に位置する、制御不能なエネルギーの塊。


リリスが硝子細工の彫刻だとすれば、エリナは嵐の中を駆ける野生馬だ。


「……本当に、とんでもない女だ」


独り言が漏れる。


だが、その声色には呆れと共に、微かな羨望にも似た響きが混じっていた。


「エ・リ・ナ!公爵家はお前に最低限の礼儀も教えていないのか!」


思わず、礼儀作法にうるさい老女教師のような口調で怒鳴ってしまう。


王太子としてあるまじき感情の発露だったが、もはや取り繕う余裕などなかった。


「なに言ってるんですか殿下〜?」


エリナは水面から勢いよく顔を上げた。


水滴が飛び散り、木漏れ日を浴びてキラキラと輝く。


彼女は濡れた髪をかき上げ、悪戯っぽくカシリアを見上げた。


「今の私は、ただの平民ですよ?ドレスも着てないし、ここには誰もいない。礼儀なんて必要ありません」


泥と水でぐしゃぐしゃになった姿のはずなのに。


なぜかその無邪気な笑顔は、雨上がりの空にかかる虹のようにまぶしく、カシリアの胸の奥底にすとんと落ちた。


重く垂れ込めていた罪悪感の雲が、一瞬だけ晴れるような感覚。


リリスといる時の息苦しさ――一挙手一投足を計算し、互いに傷つけないよう配慮し合うあの緊迫感――が、ここにはない。


あるのは、剥き出しの「生」だけだ。


「……はぁ。もう、好きにしろ」


カシリアは肩の力を抜いた。


説得など無意味だ。


この嵐に言葉で抗うことはできない。


彼は着ていた上着を脱ぎ、エリナを抱き上げた際に汚れた自分の手を、その裏地で無造作に拭った。


「えっ、殿下も一緒に洗うんですか?」


カシリアが上着を脱ぐのを見て、エリナが大口を開けて笑った。


その屈託のなさに、カシリアはこめかみが引きつるのを感じた。


本当に、この女の頭の中はどうなっているんだ。


王太子が側近もなしに水浴びなどするわけがないだろう。


だが不思議と、不快感はない。


むしろ、胸の奥に澱のように溜まっていた疲労や重圧が、彼女の底抜けの明るさに触れて、少しずつ溶けていくのを感じていた。


「違う。これを使え」


そう言って、カシリアは手に持っていた上着を、エリナの顔めがけて放り投げた。


「わっ!?」


高価な王家の刺繍が施された生地が頭からすっぽりと被さり、エリナが間の抜けた声を上げる。


投げた直後、カシリアは自分の粗雑な行動を後悔した。


紳士たる者、女性に物を投げつけるなど言語道断だ。


いや待て。


なんで俺、こんな雑なことを……?


リリス相手なら絶対にしないような無礼な振る舞いを、なぜ彼女相手だと自然にしてしまうのか。


バカは伝染するのか?


「ちょうど髪拭くもの欲しかったんです!ありがとうございます!」


エリナは上着から顔を出し、嬉しそうに頬を擦り付けた。


王太子の衣服を雑巾代わりにすることへの恐れ多さなど微塵もない。


「いや、拭き終わったらすぐ着ろ。風邪を引く」


カシリアはぶっきらぼうに言い捨て、気まずそうに顔を逸らした。


視線のやり場に困ったからだ。


水に濡れたシャツは肌に張り付き、体のラインを露わにしている。


「着る?なんでです?」


エリナは不思議そうに首を傾げた。


「……濡れた制服、透けて目立つだろ」


カシリアは小さく、控えめに、しかし顔を赤くして指摘した。


紳士として、これ以上具体的な言及は避けたかった。


「……あっ」


ようやく状況を理解したのか、エリナがぽんと手を打った。


だが次の瞬間、湖畔に響いたのは羞恥の悲鳴ではなく、豪快な爆笑だった。


「ぷはっ、はははは!殿下、ほんとに王子様ですか!?ピュアすぎますよ!」


エリナは腹を抱えて大笑いし、水面をバシバシと叩いた。


「なっ!?それを言うならお前の方が無自覚すぎるだろ!」


カシリアは顔を真っ赤にして反論した。


正直、この感覚のズレは致命的だ。


貴族令嬢であれば、肌を見られることなど死に値するほどの恥辱のはずだ。


「でも別に何も見えませんよ?殿下が気にしすぎなんです〜。あとで服、絞ればいいですし」


「……まさか脱ぐ気か?」


「え?着たままでも絞れますよ?」


エリナは平然とシャツの裾を掴み、雑巾絞りの要領で捻り始めた。


「…………」


カシリアは天を仰いだ。


同じ世界に生きているとは思えない。


彼女の辞書には「羞恥心」という項目が存在しないのか、それとも平民街ではそれが当たり前なのか。


どちらにせよ、カシリアの心臓には悪すぎる。


「もういい!絞るな!上着を着ろ!あとで新しい服を用意させる!」


深いため息とともに、完全降伏を宣言する。


これ以上問答を続ければ、こちらの理性が崩壊する。


「えっ、やった!ありがとうございます!」


エリナは素直に上着に袖を通した。


ぶかぶかの王太子の上着に包まれたその姿は、どこか滑稽で、けれどやはりやけに眩しかった。


「当たり前だろ……そんな格好で帰らせるわけないだろ」


カシリアは怒ったふりをしながら背を向けた。


その口元が自然と緩んでいることに、彼自身は気づいていなかった。

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