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第106話 物分かりの良い婚約者

翌朝。


タロシア邸の正門には、王家の紋章が入った豪奢な馬車が停まっていた。


カシリア殿下が自ら迎えに来てくださったのだ。


「おはよう、リリス」


差し出された手。


白い手袋。


「おはようございます、殿下」


私はその手に自分の手を重ねる。


私の左手の手袋の下には、まだ生々しい傷跡が隠されている。


殿下はそのことを知っていながら、何も言わずに優しくエスコートしてくれた。


馬車が動き出す。


車窓から見える王都の風景が、後ろへと流れていく。


今日が、最後だ。


あの息の詰まる教室、突き刺さる視線、孤独なバラ園。


すべてに別れを告げるための、最初で最後の華やかな凱旋。


「……緊張しているか?」


殿下が問う。


「少しだけ」


「大丈夫だ。全て手はずは整っている。……君はただ、私の隣で笑っていてくれればいい」


殿下の表情は硬かった。


彼もまた、戦場へ向かう覚悟をしているのだ。


私を守るという、共犯の契約を果たすために。


王家学院の大講堂は、全校生徒の熱気で満ちていた。


突然の全校集会。


壇上には、学生会長であるカシリア殿下と、副会長である私が並んで立っている。


ざわめきが波のように広がり、やがて殿下が手を挙げると、潮が引くように静まり返った。


「諸君、急に集まってもらってすまない」


殿下の声が、会場を響き渡る。


「今日は、学生会長として、そしてメニア王国王太子として、重要な報告がある」


殿下は一呼吸置き、隣に立つ私へと視線を向けた。


その瞳に宿る熱が、私を焼き尽くすようだった。


「私、カシリア・メニアは……ここにいるリリス・タロシア嬢と、正式に婚約を結んだことを発表する」


悲鳴のような歓声、驚愕の息遣い、そして割れんばかりの拍手。


講堂が揺れるほどの衝撃が走る。


エリナの噂など、一瞬で吹き飛んだ。


王太子の口から直接語られる「正式な婚約」という事実は、絶対的な真実として世界を上書きする。


殿下は歓声が収まるのを待たず、さらに続けた。


「それに伴い、リリス嬢には王家より重大な責務を依頼することとなった」


会場が再び静まる。


「彼女は未来の王太子妃として、領地経営の実務を学ぶため……我が国でも重要な領地へ赴任することとなる」


「これは特例中の特例であり、彼女の類稀なる才覚を見込んでの王命である。……よって、彼女は本日をもって、当学院を休学し、公務に専念することとなる」


どよめきが起きる。


「追放」でも「逃亡」でもない。「栄転」。


誰もが羨む、王太子妃への最短コースとしての実務研修。


完璧なシナリオだった。


「リリス」


殿下に促され、私は一歩前へ進み出た。


数千の視線が私に突き刺さる。


かつては恐怖の対象だったその視線が、今はただの背景に見える。


私はもう、ここの住人ではないのだから。


「……ご紹介に預かりました、リリス・タロシアでございます」


私は、今までで一番美しい声を出し、一番優雅な微笑みを浮かべた。


「この度、殿下より過分な愛と信頼を賜り、身に余る光栄に震えております」


嘘。


「学生としての生活を離れることは寂しくもありますが……殿下の支えとなり、国の礎となるべく、この身を捧げる覚悟でございます」


嘘。


全部、嘘。


視界の端に、エリナの姿が見えた。


彼女は口をあんぐりと開け、けれど目を輝かせて拍手を送っていた。


ファティーナがハンカチで涙を拭っているのが見えた。


皆、騙されている。


私が「幸せな未来」へと旅立つのだと信じている。


私は、惨めな敗残兵ではなく、凱旋将軍としてこの場を去るのだ。


「皆様、今までありがとうございました。……ごきげんよう」


深く、深く一礼する。


顔を上げた時、私の目から一筋の涙が零れた。


それは演技でもあり、同時に、本当の別れの涙でもあった。


式典が終わり、生徒会室に戻った私たちは、ようやく二人きりの時間を取り戻した。


「お疲れ様、リリス。……よくやってくれた。」


カシリア殿下は肩の力を抜き、私に椅子を勧めた。


「殿下こそ。……素晴らしい演説でしたわ。」


私は勧められるままに座り、強張っていた足をさすった。


カシリア殿下は机の引き出しから、分厚い羊皮紙の束を取り出し、私の前に置いた。


「これが、君に任せたい領地の資料だ。」


「ガーナー領……ナミス様のご実家の領地ですね?」


「ええ。」


カシリア殿下は頷き、資料の一枚を広げた。


ナミスの父であるガーナー伯爵は、忠実だが少々商才に欠けていてな。


「領地は平和だが、財政は慢性的な赤字が続いている。」


「君の任務は、この赤字を解消し、領地の経営を立て直すことだ。」


「赤字の解消……ですか。」


私は眉を少しひそめた。


経営の立て直しは容易なことではない。


だが、カシリア殿下は安心させるように微笑んだ。


「心配はいらない。これは表向きの「試練」だが、解決策はすでに用意してある。」


彼はもう一枚の書類を提示した。


王家からの特別資金援助の認可証だ。


「これを使えば、当面の負債は即座に完済できるし、新たな事業への投資も可能だ。」


「つまり、君は王家の代理人として現地へ行き、この資金を使って慈善事業や公共事業を行い、領民の支持を得るだけでいい。」


なるほど……。


私は書類に目を通した。


王家の金という圧倒的な力を使って、問題を解決する。


実務能力というよりは、王家の威光を示すための政治的なパフォーマンスに近い。


それならば、私にも難しくはないだろう。


「ナミスにも話は通してある。現地では彼の一族が君を全力でサポートするはずだ。」


「静かで、平和な場所だ。……君が心を休めるには、最適な環境だと思う。」


カシリア殿下の瞳には、私への気遣いが滲んでいた。


彼は本当に、私のために安全な隠れ家を用意してくれたのだ。


「ありがとうございます、殿下。……謹んで、お受けいたします。」


私は資料を胸に抱き、深く頭を下げた。


これは任務であり、同時に療養でもある。


これから、私は静かで、平和で、そして何も起こらない場所へ。


そこで私は、殿下がエリナと恋に落ち、私を忘れていくのを、ただ静かに待つのだ。


「……リリス」


講堂を出て、馬車に乗り込む直前、殿下が囁いた。


「もう何も怖いことなどない。ガーナー領は平和の場所だ。オレがいくのを、待っていてくれ」


その言葉に縋りつきたくなる自分を殺し、私は首を横に振った。


「いいえ、殿下。ご公務を優先なさってくださいませ」


私は最後まで、完璧な「物分かりの良い婚約者」を演じきる。


「私は……いつまでも、お待ちしておりますから」

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