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第103話 婚約

深夜の王宮は、石造りの静寂に包まれていた。


回廊を歩くカシリアの足音だけが、規則正しく、そして重く響く。


衛兵たちの敬礼を無視し、彼は一直線に父王の執務室へと向かっていた。


心臓の鼓動は早鐘を打ち、胃の腑には鉛を飲んだような重圧がある。


だが、その瞳には退路を断った者の決意が宿っていた。


扉の前に立つ近衛騎士が、王太子の形相を見て無言で道を開ける。


重厚な黒檀の扉が、ゆっくりと内側へと開かれた。


「……遅いぞ、カシリア」


執務机の奥、書類の山に埋もれるようにして座る国王カナロアは、顔も上げずに言った。


ペンを走らせる音だけが、部屋の空気を切り裂いている。


「夜分に申し訳ありません、父上。……至急、ご相談したい儀がございます」


カシリアは部屋の中央まで進み出ると、深々と頭を下げた。


王宮において、親子である以前に彼らは主君と臣下であり、王と次期王である。


私的な甘えは許されない。


「リリス・タロシアの件か」


カナロアの手が止まった。


鋭い眼光が、息子を射抜く。


すべてを見透かすようなその瞳の前では、どんな些細な嘘も灰になる。


カシリアは息を飲み、頷いた。


「はい。……彼女を、一時的に王家学院から遠ざけたいのです。そのための、正当かつ公的な理由をいただきたく」


「遠ざける?」


カナロアは眉を片方だけ上げ、興味深そうに背もたれに寄りかかった。


「成績優秀、素行方正。次期生徒会副会長にも内定しているあの娘をか?理由はなんだ」


「……私の、不徳の致すところです」


カシリアは拳を握りしめた。


爪が食い込む痛みを、自らへの罰として受け入れる。


「私が……軽率でした。身元も定かではない娘と不用意に接触し、公衆の面前で親しく振る舞ってしまった。その結果、謂れのない噂が立ち、婚約者候補であるリリスの名誉を著しく傷つけました」


自殺未遂のことは言えない。


言えば、リリスは「精神的に不安定な娘」として王妃候補から除外され、最悪の場合、廃嫡や幽閉の憂き目に遭うかもしれない。


だからカシリアは、すべての罪を自分一人で被る道を選んだ。


事実、それは嘘ではなかった。


「彼女は気丈に振る舞っていますが、心には深い傷を負っています。……これ以上、好奇の目に晒し続けることは、タロシア家との関係にも亀裂を生じさせかねません」


「ゆえに……冷却期間が必要です。彼女を守るために」


一息に言い切り、カシリアは再び頭を下げた。


床の絨毯の模様を見つめながら、彼は王族としての己の未熟さを噛み締めていた。


たった一つの軽挙が、人の人生を狂わせる。


その権力の重み、責任の恐ろしさを、これほど痛感したことはなかった。


沈黙が落ちた。


数秒、あるいは数分にも感じられる時間の後、低い笑い声が聞こえた。


「……くく」


カシリアが驚いて顔を上げると、カナロアは愉快そうに口角を歪めていた。


「ようやく、その顔になったな」


「……父上?」


「自分の行動が他者の運命を決定づけるという恐怖。それを知らぬ者は王になれん。……女一人守るために、そこまで必死になるとはな」


カナロアは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。


夜景を見下ろすその背中は、強大で、そして冷徹だった。


「リリス・タロシア。……良い娘だ」


王の口から出たのは、意外な評価だった。


「公爵の不始末、お前の浮ついた噂、それら全てを飲み込み、文句一つ言わず耐えているのだろう?美貌もあれば知性も抜群。それと『忍耐』と『演技』もそれほど優れているとは」


カナロアは振り返り、カシリアを見据えた。


「その娘は一番相応しい王妃候補者だ。タロシア公爵家の新しい娘……あの『エリナ』とかいう野生児よりも、遥かにな」


父はリリスの苦悩を知らない。


彼女が耐えているのではなく、壊れかけていることも。


だが、その「誤解」こそが、今はリリスを守る盾になる。


「では、許可を……?」


「単なる休学や療養では弱い」


カナロアは冷ややかに切り捨てた。


「それでは、『リリスは噂に負けて逃げ出した』と認めるようなものだ。逆効果になる」


「では、どうすれば……」


王はニヤリと笑い、盤上の駒を動かすように言った。


「攻めるのだ。……逃げるのではなく、栄転させる」


「栄転……?」


「リリスとの婚約を、内定ではなく正式に発表しろ」


カシリアは息を呑んだ。


婚約発表。


それは、リリスを逃げ場のない「未来の王妃」として完全に固定することを意味する。


「そして、王太子妃としての公務を学ばせるという名目で、領地の管理を任せる。」


カナロアの提案は、完璧だった。


学生としての身分は維持したまま、現地での実務研修という形を取れば、登校する必要はなくなる。


しかも、「噂のせいで逃げた」のではなく、「王太子妃として選ばれたから公務に就いた」という最強の大義名分が立つ。


エリナの噂など、王家による正式な婚約発表の前では塵芥に等しい。


誰もリリスを嘲笑できなくなる。


「……ですが、父上」


カシリアの声が震えた。


「それは……彼女の意志を無視して、一生を縛り付けることになります」


リリスは、本当に俺との結婚を望んでいるのだろうか。


今の彼女は、傷つき、疲れ果て、ただ「逃げたい」と願っているだけではないのか。


そんな彼女に、王妃という重すぎる首輪を嵌めることが、本当に救済になるのか。


「王族に自由などない。政略結婚は必然だ」


カナロアは無慈悲に告げた。


「タロシア公爵家を取り込むには、リリス以外にない。あのエリナという娘は使えん。……お前も、リリスを愛しているのだろう?」


「……愛……か……」


カシリアには、まだ愛という感情を知らない。


「欲しいものがあれば奪え」


王の声が、雷鳴のように轟いた。


「迷うな、カシリア。守りたいなら、手元に置け。権力で囲い込み、誰にも触れさせぬよう閉じ込めろ。それが王の愛し方だ」


カシリアは言葉を失った。


父の論理は正しい。


王としては、それが正解だ。


だが、カシリア個人の心は叫んでいた。


リリスのあの涙。


自殺未遂。


彼女が求めているのは、権力でも地位でもなく、もっとささやかな安らぎなのではないか。


「……私は、彼女の心が……分かりません」


弱々しい告白。


カナロアは溜息をつき、呆れたように手を振った。


「まったく、繊細すぎる息子だ。……まあいい」


王は机に戻り、一枚の羊皮紙を取り出した。


「案は出してやった。だが、タロシア公爵令嬢ともあろう者に、王命だけで無理やり婚約を強いるわけにもいかん。本人の合意は必須だ」


「……はい」


「悩む暇があるなら、明日、リリスに直接聞け」


カナロアはペン先をカシリアに向けた。


「彼女の口から『イエス』と言わせろ。……お前の誠意とやらで、説得してみせろ」


「それができなければ、この話は白紙だ。リリスは噂の渦中に放置され、お前は無力な王太子のままだ」


突きつけられた最後通牒。


カシリアは深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


逃げ道はない。


明日、リリスと向き合うことになる。


それが、彼女を地獄から救い出す唯一の方法であり、同時に彼女を別の黄金の檻に閉じ込める行為になるだろう。


「夜が明ければ、すぐに迎えに行け。……下がってよい」


「は……失礼いたします」


カシリアは退室した。


扉が閉まる音と共に、彼は廊下の冷たい壁に背を預け、天を仰いだ。


重い。


王冠の重さとは、これほどまでに骨を軋ませるものなのか。


リリス。


君は、俺の手を取ってくれるだろうか。

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