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第100話 貴族令嬢の義務

涙というものは不思議なもので、一度流しきってしまうと、体内から毒素が排出されたかのような、奇妙な虚脱感と静寂が訪れる。


私はカシリア殿下の胸からゆっくりと顔を上げた。


視界はまだ水膜に覆われているが、呼吸は幾分か深くなり、心臓の不規則な鼓動も落ち着きを取り戻していた。


「……申し訳ありません、殿下。……取り乱してしまいました」


私はハンカチを目元に押し当て、震える声で詫びた。


化粧は崩れていないだろうか。


目は赤くなっていないだろうか。


即座に湧き上がるのは、やはり「見られる自分」への懸念であり、それが骨の髄まで染み付いた公爵令嬢としてのさがであることを痛感する。


殿下は首を横に振り、卓上の水差しからグラスに水を注いで差し出してくれた。


「謝るなと言っただろう。……少し、落ち着いたか?」


「はい……おかげさまで」


冷たい水が喉を通り、熱を持った食道を冷やしていく。


その感覚が、私を現実へと引き戻すアンカーとなった。


ここには、泣きじゃくる子供はもういない。


殿下は懐から清潔なハンカチを取り出し、ためらいがちに私の頬に残る涙の痕を拭った。


その指先の感触が、あまりにも優しく、そして痛い。


「……戻れるか?」


問いかけの意味は明白だ。


あの煌びやかで残酷な舞台へ、再び笑顔の仮面を被って戻る覚悟があるか、と。


私は小さく、けれど明確に頷いた。


「もちろんですわ。……ファティーナの誕生日ですもの。最後まで祝って差し上げなくては」


これは貴族令嬢の義務。


たとえそれが、明日から始まる逃避劇への序章に過ぎないとしても。


私は立ち上がり、壁に掛けられた鏡の前へと歩み寄った。


映し出された自分の顔は、思ったよりも酷くはなかった。


目は少し潤んでいるが、頬の赤みは「体調不良からの回復」あるいは「殿下との甘い時間」を示唆するものとして機能するだろう。


乱れた髪を指で整え、ドレスの皺を伸ばす。


背筋を伸ばし、口角を上げる。


鏡の中の少女が、完璧な角度で微笑み返す。


――大丈夫。


まだ、壊れていない。


「行きましょう、殿下」


「ああ。……行こう、リリス」


その腕に手を添える。


手袋越しの接触。


静かで冷たい信頼。


扉が開かれると、再び光と音楽、そして人々の視線の波が押し寄せてきた。


一瞬だけ足が竦みそうになるのを、殿下の腕が力強く支える。


『大丈夫だ』


声には出さずとも、その腕の力がそう語りかけていた。


私たちは並んで歩き出す。


先ほどよりも距離を詰め、親密さを誇示するように。


「リリス様!お加減はいかがですか?」


ファティーナが真っ先に駆け寄ってくる。


その表情には安堵の色が浮かんでいた。


「ええ、もう大丈夫ですわ。殿下が、とても親身に介抱してくださいましたから」


私は羞恥を含んだ微笑みを作り、殿下を見上げる。


殿下もまた、慈愛に満ちた眼差しで私を見つめ返す。


「リリスが元気になってよかった。……彼女なしでは、この宴も色褪せて見えるところだった」


その言葉に、周囲から感嘆の溜息が漏れる。


完璧だ。


誰も疑わない。


ここにいるのは、美しき王太子と公爵令嬢。


エリナの噂など、この光の前では影も形もない。


私はファティーナと談笑し、他の令嬢たちの挨拶を受け、殿下の隣で優雅にグラスを傾けた。


心の中は砂漠のように乾いているのに、口からは花のような言葉が溢れ出る。


慣れてしまったのだ。


自分を殺して笑うことに。


絶望を飼い慣らし、それを糧にして美しく着飾ることに。


宴もたけなわとなり、やがてお開きの時間が近づいてきた。


「名残惜しいですが……リリスの体調も万全ではありません。今夜はこれで失礼させていただきます」


殿下の宣言により、私たちの退場が決まる。


「もちろんですわ!リリス様、無理をなさらないでくださいね。……また学校でお会いしましょう!」


ファティーナの無邪気な言葉が、胸に刺さる。


『また学校で』。


その約束を果たす日は、もう来ないかもしれない。


私は曖昧に微笑み、答えを濁した。


「ええ……ありがとう、ファティーナ。素敵な夜でしたわ」


殿下にエスコートされ、馬車へと向かう。


夜風が火照った頬を冷やし、現実の重さを思い出させる。


馬車の前で、殿下は立ち止まった。


従者が扉を開ける。


「送っていく」


「……いえ、殿下。これ以上は……」


「送らせてくれ。……いや、送りたいんだ」


殿下の瞳は真剣で、拒絶を許さない強さがあった。


これは贖罪なのだ。


彼が自分の罪を少しでも軽くするための、自己満足に近い儀式。


それを理解した上で、私は頷いた。


「……ありがとうございます」


帰りの馬車の中は、行きとは違う種類の沈黙に支配されていた。


緊張や探り合いではない。


嵐の後の、疲労と安堵が入り混じったような重苦しい静けさ。


殿下はもう、私の手を取ろうとはしなかった。


ただ向かいの席に座り、窓の外を流れる闇を見つめている。


その横顔には、深い苦悩と決意が刻まれていた。


彼は今、考えているのだろう。


私を学校から遠ざけるための、完璧な嘘を。


王家学院という権威ある場所から、筆頭の生徒を正当な理由で欠席させるための、緻密なシナリオを。


それは、彼にとってもリスクのある行為だ。


王太子の権限を私的に乱用することになる。


それでも彼はやると言った。


私のために。


その言葉が、頭の中でリフレインする。


私たちは愛し合っているわけではない。


恋人でもない。


馬車がタロシア公爵邸の門をくぐる。


巨大な屋敷は闇の中に沈黙しており、その奥で待つ「新しい家族」の気配を想像して、胃が縮む。


「……着いたな」


殿下が呟く。


「はい」


馬車が止まる。


扉が開く直前、殿下が私を見た。


「明日……必ず、連絡を入れる。君は何も心配せず、部屋で休んでいてくれ」


「……はい。お待ちしております」


私は深く頭を下げ、馬車を降りた。


背後で馬車の扉が閉まり、車輪が回り出す音が遠ざかっていく。


私は一人、夜の屋敷の前に取り残された。


見上げれば、私の部屋の窓に明かりがついているのが見える。


ロキナが待っているのだろう。


「……ただいま」


誰にともなく呟き、私は重い足取りで玄関への階段を上った。

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