細石刃と土器と華北
面白いものが見つかった。細石刃という石器群があるのだが、これ華北と東北で系統が違う。まず初期はこれらを加工する道具があるのだが、これを細石核と言う。この形の系統が違うらしい。楔型と呼ばれるのが東北地方の物で、船型、方型などと呼ばれるのが華北地方の物になるらしい。
土器の出現にこの楔型細石核が伴っていたらしい。
これで決定か?なら甘くなくて、元々これらの技術を持っていたのはバイカル湖のQ系で、彼らが海岸部C2系と混血して伝わったものになる。それらが東のNに多分混血によって伝わったものかと。そのため、元のQ達がまだ北方に居るわけで、どのあたりに居たか?は不明だが、中国の古い歴史にQが何度も関わっているので、おそらくそっちのQ系の技術が別系統で華北に伝わったのじゃないか?と私は見ている。
と言うのもこれらの中心地がいきなり山西省を中心に広がったようで、東北部から伝わった形跡が無い。しかもどっちか?判別する事は出来ない。そのため決定だとは言えないとは知っておいて欲しい。だが可能性としてはかなり東北部の土器文化が石器文化と共に伝わった可能性が高いと私は見ている。
他にもアリ、東北から西に行った場所の遺跡で楔型細石核減る場所があるらしい。これは細石刃自体は使われてるので、西の技術との混合地域だからになる。じわじわと東の文化が華北平原に伝わってるのが分かると思う。
ここからは推測になるが、森林と平原でかなり変わってしまったかな?と見ている。温暖化によって広がった森林沿いに広がった東北集団が、ヤンガードリアス期によって再び森林の縮小と平原の拡大で西の狩猟集団と接触したのじゃないか?と見ている。実際は森林は重要じゃない。本来の生業は漁労になる。
土器は植物食によって広まったのじゃない。南部も同じだが漁労と共に生まれている。河南の稲作と畑作の融合はひょっとしたら南北の民族の結合した集団だった可能性はある。あのあたりのDNAはまだ出て無いから。南部と北部で同じ文化だったわけだが、これは南部の漁労民がそもそも北部に海岸沿いに進んだ形跡がある。
特に特徴的なのはポリネシアで多いB系がアメリカ大陸にまでいってる点である。しかも海岸沿いにアメリカのmtD系が広がってるのも分かっており黄河文明の中心だったD系も元は漁労民であった可能性が高い。
南北は共通した広がりじゃないのか?なら面白い事に実は南部に細石刃が伝わった時期と場所に土器が出ている。ただ、これは調査した人が居て、あまりに北部と土器の作り方が違うため北部の土器集団が南下したと考えるのは苦しいとの指摘もある。後南部の方が歴史が古いが、これは測定の誤差がかなり怪しいと多くの人に指摘されてるため後の時代か同時期であった可能性が高い。
ただすべての地域に細石刃が絡んでるのは事実。当然日本もそうなる。元々日本は、北部に関しては同一文化圏的な扱いをする人も居て、日本での起源とアムール側の起源を特にどっちが先か?重視して無い人も居る。地域差に過ぎないって程度で、ただ日本の西部は中国の伝播である可能性が高いのだが、これは複雑なのだが、華北独立なのか?
または先ほど書いたように東北から華北に伝わったのか?が難しい。日本に来た段階で、細石核が楔型じゃない華北型になってしまってるからになる。しかも土器も華北的な微妙なオリジナリティが出てしまってるのもある。以前も書いたが、似てるような似て無いようなって微妙なものがあって厳密にこれは東北部から伝わったものだと言えないってのがある。
だからこそ今回の石器を伴って強化しようって試みが出来たわけなので。
土器が発見された年代と農耕遺跡が発見された年代を重ねて、かなり近い年代なので、その前のヤンガードリアス期までに寒冷適応した東北人が華北に移住した話には整合性が取れている。暖かくなった時期なので華北で寒冷適応したわけじゃない。
再度耳垢の遺伝子が見つかったのもあり、統合して説明するけど、中国東北部奥地が多分起源だと思われる。これらの地域で発生した小さな集団の寒冷適応変異が、近隣の別集団とじわじわと混血する事で同じ寒冷な環境にある場所では適応的なので、他の遺伝子は均一に混じりあわなくても、東北全体が寒冷適応だけに限って均一な集団になったと現代の結果から考えるとそうなる。
これらの集団の西の端に居た集団が、華北との集団と接触して農業前に混血して徐々に華北集団へと変化していくと見ている。その流れの中で漁労+森林植物食だったのが、漁労+草原植物食に変わって言ったのか?と。これが後に栽培化に変化していったのかと。その後ヤンシャオ文化になっても漁労が重要な中心だったし、ヤンシャオで有名な紋様に魚模様が特に重視されていたので漁労文化は続いたんじゃないかな?と見ている。
ただし河南省で南部の文化と接触してる形跡があるので、漁労はそちらかもしれないという点。ただ元々南北の集団は、元は同じ南部漁労文化の集団だと思うので接触後平和的にすぐに合流した可能性がある。遺伝子が違うが、根底の部分のC1D系の部分は共通してて、そもそも南部に寒冷適応して無いだろうC2系がちらほらいるので残った系統があるのは確か。ただその後O1A、O1Bが上書きしたため違うように見えるだけで。
まだまだ後期の華北の楔型文化の流れがあるため明確にそれが東北からの文化や遺伝流動だと言えないけど、可能性としては十分にありうる。じゃ何故それを専門家が言い出さないのか?なら土器の間の遺跡が無いからになる。ただそれを言うと西日本の細石刃を伴った土器も問題が出る。間の朝鮮で出て無いからになる。
これは考古学のアプローチの仕方の問題に過ぎないし、遺伝的に組み合わせて見た話が無いだけになる。だから私以外専門家の意見が無いってだけになる。考古学の最大の弱点である間が無いのは遺伝はものすごく強い。考古学では独自発展し田と言う論理で、離れたものは片付けられる。
だが遺伝は子孫だと絶対に言えるケースがちゃんとある。子孫であるならどれだけ突飛な間が無い関係もそこから来たと断言できる。考古学的なものを補強するのにものすごく強力な知識になる。




