05 悍ましき呪い
流血表現、グロテスクなどの、やや陰惨な表現があります。
ご注意ください。
『ユリウス! ユリウス! しっかり!』
酷く吐血して吐き出された血液に塗れているにも構わず、シグリットは伸ばされた恋人の手を強く握った。邪竜との激しい戦いでほとんど失われた魔力を極限まで振り絞って治癒魔法を注ぐが、毒と瘴気に塗れたユリウスの身体は、凄まじい速度で蝕まれていく。悍ましい黒い魔物は騎士達が全力で屠った。だが、それでも尚ユリウスの身体にこびり付いた悪意の残滓が、その腕を、胸を、腹を侵食し、体内を侵して彼の命を抉り取る。ごぽり、と再び口から血が溢れた。つい先ほどまで激しい苦悶の声を上げていた唇からは、今はもう微かな吐息を漏らすのみ。
薄く開けられ、光を失いつつあるその瞳が、シグリットの姿を捉えた。
その、唇が微かに動く。
――愛してる。すまない。
ずるり、と握り締めた手が重みを増した。
光の消えたその瞳は、もう二度とこの世界を映さない。
「――っ!!」
声にならない悲鳴を上げて、シグリットは跳び起きた。途端に眩暈が襲い、そのまま寝台の上に倒れ伏した。身体が酷く熱く、呼吸が苦しい。昨晩少し気怠さを感じる程度であったものが、一晩明けたら酷く発熱していた。
(――参ったな)
発熱すると気が弱る。弱るとあの日の悪夢を見る。そうして弱った心に付け込んで、またあれがやってくる。
呪いに侵されて以来、やはり身体に障るのか、よく熱を出して臥せるようになった。それでもここ暫くは穏やかに過ごせていたと思ったのに。
数週間前に突然訪ねて来た騎士達。彼女を救いたいと言った彼らは、とても気の良い人達だった。腫れ物を扱うようでもなく、ずっと昔からの友人のように接してくれる彼らに、随分と癒されていたものだった。
でも、温かい気持ちを抱くごとに、心の奥底から頭をもたげてくる黒いモノ。
(抑えなければ)
抑えなければ、またあれが来る。あんな悍ましいものを、あの気の良い人達に見せたくはない。
シグリットはひとつ大きく息を吐くと、ゆっくりと寝台から足を下ろす。汗と涙でべたつく顔が気持ち悪い。顔を洗って、薬湯を。いつもの薬湯を飲んで、気を落ち着かせて、それからまたもう一眠りしよう。
寝室を出て、小さな盥に水を張って顔を洗う。手布で顔を拭うが、またじわりと汗が滲み出て、シグリットは顔を顰めた。久しぶりの発熱は長引きそうな予感がする。
ふと、人声が聞こえて視線を巡らすと、居間の窓の向こう側、温かく柔らかい日の当たる庭に騎士服姿が二つ見えた。
じくり、と胸の奥底に焼け付くような痛み。
――お前に、あの温かい場所は似合わない。
頭に響く、昏い声。痛みはじわりじわりと焼き広がるように身体を蝕んでいく。覚えのある不快な感覚に、胸元を押さえた。始まる予兆。
駄目だ、抑えろ、抑えろ、考えるな。
――お前が温かい気持ちを抱くなど許さない。
――お前が穏やかに生きるなど許さない。
――あのひとを殺したのはお前。
――お前さえ居なければ。
――未来永劫、あのひとの元に逝く事など許さない。
必死に押し留めようとするのを嘲笑うかのように、頭に木霊する、声、声、声。
――お前はそこで、永久に罪を償い続けるがいい!!
焼け爛れた傷跡に猛毒を塗り込まれるような、形容し難い凄まじい痛みが全身を駆け巡り、視界が赤黒く染まった。
――崩れ落ちる寸前、視界の端に映った窓の外、マティアスとカルラが振り返るのを見たような気がした。
エルドリートはもどかしい思いで厩舎に辿り着くと、急いで厩舎から愛馬を引き出す。鞍は要らない。一秒でも惜しい。そのままその背に跨る。
「マティアス殿はかなりのやり手と聞いてたが、それでも手に負えないのか」
既に馬上の人となっていたカルラに問うと、女騎士は蒼褪めた顔を隠しもせずに言った。
「あれは……あんな強力なものは見た事がありません。とにかく急いでください、早くしないと保たない!」
不吉な台詞に心臓が握り潰されそうな錯覚に陥るが、馬首を巡らすと、郊外に向かって走り出した。
郊外の家に着くなりエルドリートとアルベールは愛馬から飛び降り、扉へ向かって疾走する。家の扉は閉ざされたままであったが、呪いの気配を察せられるアルベールは顔を顰めた。
「……これは……拙いな。急ごう」
言われるまでもなく駆け出し、乱暴に扉を開ける。
「シグリッ――!?」
目の前の光景に、息が止まった。隣でアルベールが鋭く息を飲む音が聞こえた。
寝間着らしい簡素な長衣姿のまま、床に横たえられているシグリットの身体の上を、黒とも濃緑とも言えぬ悍ましい何かが絡み合うように蠢いている。よく見ればそれは、男のような、女のような、時折何か人のような形を模ってシグリットに纏わりつき、薄気味悪い触手のようなものを、その身体を抉るように蠢かせていた。
「なん……っだこりゃ……っ」
「おい早く手伝えアル!! 抑えきれん!!」
その左手でシグリットの細い両手首を床に縫い止めるように押さえつけ、右手を何かの印を刻むように彼女の身体の上を滑らせていたマティアスは、必死の形相で叫んだ。
「エルド! お前はシグリット殿の身体を支えて、両腕を押さえてくれ! トマスとカルラは補助を頼む!」
「わかった!」
シグリットに駆け寄り、開けられた胸元を見て目を剥く。
黒い何かが撫でるたび、その白い肌が黒に侵食されてじりじりと焼け爛れて行く。そして焼け爛れた端から皮膚が再生して滑らかな肌になり、途端にまた再び禍々しい黒がその肌を焼いていく。
「酷ぇ……」
喉の奥からせり上がる何かを必死で押し留め、エルドリートは絞り出すように呟いた。トマスは目を見開いて立ち竦んだまま動けない。焼いては治し、治しては焼く。華奢な身体の上で繰り返される破壊と再生。想像を絶する痛みだ。
シグリットは玉のような汗を浮かべ、食い縛った歯の奥からは、苦痛に圧し潰された声が漏れる。時折身を捩ってくぐもった悲鳴と荒い息を吐くその姿は酷く痛々しい。けほ、と小さな咳と共に、血液が吐き出される。
「体内まで……やられてんのか」
あまりの痛ましさに震える身体を叱咤し、彼女を起こして支え、腕を取ろうとしてその指先に血が滲んでいるのに気付いた。
「床掻き毟って傷が付くんだよ。だから押さえててくれ」
マティアスの台詞に顔が歪む。一体どれだけの苦痛がシグリットを苛むのか。
「……シグリット。俺がついてる」
無意識に呟いた言葉に、白騎士達が一瞬こちらに目を向けるが、直ぐに手元の作業に集中した。四人で印を組み、祓い詞を詠唱する。印を組んだ指先を中心に仄蒼い光が満ち、シグリットの身体から這い上る黒い霧のような何かを包み込むようにして光の膜が張り巡らされた。黒い霧と青白い光がせめぎ合うようにして絡み合い、光の膜が厚みを増して抑え込めば霧が霧散し、かと思えば再び体表から溢れ出て光の膜を食い破る。
四人の顔から汗が滴り落ち、苦戦しているのがありありと判った。南方騎士団の二人は経験が浅いのか早くも息を上げ、印を組む指先の光が徐々に弱まる。
「このっ……こいつっ……!」
普段穏やかな優男然としたアルベールが似つかわしくない悪態を吐く。
シグリットの喉から一際高い悲鳴があがった。眦から幾筋も涙が零れるのを見て、エルドリートはその身体を強く掻き抱いて叫んだ。
「シグリット! しっかりしろ!」
「くそがっ……!」
マティアスは吠え、アルベールが憤怒の形相になる。持てる魔力を全て指先に集中し、爆発的な光が部屋に満ちた。怨嗟と呪詛の声を上げ、人型の黒い霧は霧散した。強張っていたシグリットの身体が糸が切れたように弛緩し、重みを増した。その身体を抱き締めたまま、エルドリートは息を大きく吐いた。
「は……はぁっ……」
「きっつー……」
白騎士の男二人は脱力して肩で息をする。トマスとカルラに至っては声も出ないらしかった。暫く重苦しい沈黙が場に下りる。
「解呪した……わけじゃねえんだよな?」
そう簡単にいくまいとは思ったが、案の定白騎士達は首を振った。
「残念ながら、表面に出てたのを取り払っただけだよ。根本的な解決にはなってないね」
アルベールは力無く言う。
「白騎士団ではそこそこの腕前を自負していたけど、これはちょっと……」
「……ああ」
マティアスは苛々と頭を掻き毟った。栄えある中央騎士団に在籍する選りすぐりの白騎士として、四人がかりで漸く抑え付けたという事実が酷く堪えたようだった。
「残念だが、こいつは環境の整った場所で時間をかけて治療しないと無理だ」
アルベールも頷いた。エルドリートは指揮官として決断しなければならなかった。
「そうだな。とりあえず、一旦基地に連れて行こう。熱が出てるようだし、また発作が出てもすぐ対応できるようにしたい。トマス、カルラ、悪いが一度戻って馬車を手配してくれ。それから医療部とペルレ殿に先触れを頼む」
二人はぐったりと俯けていた顔を上げると、蒼白な顔のまま頷き、そして家を出て行った。ややあって、馬の駆ける音が遠ざかっていった。
エルドリートは腕の中の魔女に視線を落とす。汗でべったりと張り付いた黒髪をそっと払い、口元の血を指先で拭い落とす。先ほどまで蒼褪めていた顔が、徐々に赤みを帯びて行く。浅く息を吐き、エルドリートにぐったりと預けたままの身体は熱を持って酷く熱い。
見るも悍ましい呪いだった。瘴気に侵され狂った魔物や、呪いを受けて異常行動に走る人間は何度か見た事はあった。だが、あれほどの凄まじい呪いは初めてだった。常人だったらきっと一度で死に至る程の、だが死ぬことも許されずに、ただただ苦痛を与え続けるだけの、呪い。
(あれを、今までずっと、たった一人で耐えて来たってのか)
誰に頼ることもなく、孤独な家で、苦痛が過ぎるまで血が滲むほどに床を掻き毟って。
(助けなければ)
力無く投げ出されたままの手を取る。掻き毟って傷付けた指先から、まだ血が滲んでいた。それに気づいてアルベールが気怠げに手を伸ばすと、治癒の光を灯して傷口を塞いでいく。そうして綺麗になった手を握り締めて、エルドリートは思った。
この、優しく穏やかな魔女を、殺意と悪意に満ちた呪いから、助け出したい。
強く、そう思った。