虹 届いたり
ずしりと足の裏から響いてくる地鳴りの音。空も地面もなにもかもが割れそうな勢いで、でも不思議と耳を塞ぎたいとは思わなかった。
ライヴハウスに戻ってくると、裏口は怪しい人たちでごった返していて通路を塞がれていた。壁に寄りかかったりしゃがんでいたりといったシルエットが十人くらい見える。ぽつぽつと浮かんでいるのは煙草の光。バイクや高級車なんかも止まっている。
……なんだあれ?あれが俗に言うヤクザの溜まり場とか言うものか?なんでこんなところで……。
臆病なぼくは心の底から関わりたくないと素直に思ってしまう。というか絶対関わっちゃいけない。
まだ表情の険しい日衣の手を引っ張り、周って正面入口から入る。受付の女性に事情を話しRisingの一員だということを告げるとすぐに通してくれた。
階段を下りるにつれてだんだんとざわめく音が大きくなっていく。日衣は途中で何度も足を止めたり俯いたりしていて、そのたびにぼくはまた歩き出してくれるのを黙って待った。
突き当たりの重たい扉を押す。
その瞬間、耳をつんざくような激しいギターリフが襲いかかってきて、それだけでぼくと日衣の髪の毛は強風に煽られたかのようにぶわりと浮かび上がった。
ギターの音に連動するように箱内にびっしり詰まった歓声を上げる黒い波と、その再奥で眩しい三本の光を浴びて浮かび上がっている一人の姿が見える。汗と髪を振り乱しながら、真っ白な相棒を自在に操っている。そして、とても楽しそうな顔……。
背後で扉が閉まり外気が遮断されると、ここはもう社会の喧騒にも邪魔されず時間の流れもない、まるで別世界だった。
──ふいに、繋いでいた手が強く握られた。
日衣は眉間の皺を濃くして、ただただステージ上の自分のことを一生分待ってくれていた人を見つめていた。
口が小さく開き、彼女の名前を紡ぐ。その糸がステージまで届き、茉莉さんはぼくらの姿に気づいた。弦をまさぐる手を止めて余韻だけをわんわんと響かせる。
そしてぼくらに向かって……いや、日衣に向かって微笑みかけた。それは怒ってもなく笑ってもなく優しくもなく、なんと形容すればいいのか分からない微笑みだった。
……初めて見た。茉莉さんがこんな表情を誰かに向けるのを。
圧倒された日衣は半歩後ずさっていた。でもそんな日衣の姿にはもう目をくれず、茉莉さんはスタンドマイクにしがみついて歌い始めた。
──反逆だ!反逆だ!再び亡霊が浮かび上がる!──
わっと大きく波が揺らいだ。
3rdアルバム『バビロンの城門』の収録曲『Kill The King』。Rainbowを代表する曲であり、ハードロックを語るに欠かせない曲でもある。
歌いながらまた弦を掻き始め、すらっと綺麗に伸びたその足ではベースアンプを踏み鳴らしている。 床が抜けるんじゃないかと思うくらい観客の心を惹き付けていた。
──当たり前だよ。あたしは観客を退屈させるような腑抜けた真似などしない。
有言実行。嘘でも冗談でもなかった。茉莉さんはたったひとりでもこれだけのライヴを当たり前のように演れる。圧巻の一言にかぎっていた。
……いや、ちがう。ひとりじゃない。……なにか聴こえる。……なんだ?茉莉さんの出す音や声に混じって、かすかに別の音が聴こえる。
──たどたどしくなにかを叩く音と、それに合わせるような途切れ途切れに弦を弾く音──
こもっていて雑音にも近いけれど、確かにどこかで聴いたことがある。どこでだっけ……?なんだかすごく懐かしい気持ちになる。……あれはたしか春の匂いと埃の匂いと──
「あれ」
気になるその答えの先を、日衣が指差した。茉莉さんのホットパンツのベルトに引っ掛けてある物。それからそれは鳴っていた。
ICレコーダーだ。
──ぼくらが初めて会った日。日衣が初めてドラムを触ったとき。壊れ物を扱うみたいにおっかなびっくり一つずつ叩いていく日衣に合わせて、ぼくがベースを刻む。そんなセッションですらない変な音たちを、記念だよと言って茉莉さんが録音していたのを思い出した。まさかこんな場面で使うことになるとは……。
たとえ一人でステージに立つ羽目になっても、Risingの一員でいるかぎりはぼくと日衣の音も共に鳴らさせる。茉莉さんはそういう人だ。どこまでも三人でRisingだと言い張る人だ。
ふと横を見ると、きらきらと目尻に溜まった涙を拭っていた。
ステージ袖に周るや否や、たちまち奏也さんの雷が落っこちてきてぼくは守るように頭を抱えた。
「遅えぞ!さっさと準備しろ!」
「すっ、すみま……」
「謝るならあいつに謝れ。もう20分もあのままだ」
そう言う奏也さんは、光の中にいる茉莉さんをちらりと見やった。ぼくも釣られて見ると、たしかにそこには輝いている姿があった。幻でもなんでもない。あんな笑顔でこんな演奏を、たったひとりで20分も……。
「あの、ぼくてっきり他のバンドが再登場して時間を稼いでくれると思ってたんですけど……」
振り返り恐る恐る訊くと、ぼくと日衣の周りにバンドマンたちが集まって来た。なぜかみんな優しい笑顔を浮かべていて──もしかしてぼくらを待ってくれていたのか……?
奏也さんは、鬱陶しそうに頭をがりがりと掻きながら答えてくれた。
「あいつ言ってたろ、“うちのものには手は出させねえ”って。こんな演奏されちゃ止めるに止めれねえよ」
……そうか、そういうことか。茉莉さんの考えていることに相変わらず唖然とさせられる。マジックのタネ明かしもいいところだ。
あれはぼくの身のことを言っていたんじゃなく、“Risingの持ち時間”のことを言っていたのか。他の誰にも邪魔はさせない。ステージに立つのはぼくら三人だけだと。
……なんだかあの人には一生敵わない気がする。
「ほらよ」
突然ぼくの腕の中に押し込まれたのは、ずしりと重たく冷たいもの。ぼくのベースだった。
そう、敵わなくてもいい。ぼくも日衣も、茉莉さんがなにを考えているのか全て理解しなくてもいい。今ここにはちゃんと三人揃っている。
ストラップを肩にかけると一瞬だけ動悸がした。けれど、その高鳴りの中にリハーサルのときのような恐怖心は混ざってはいなかった。あるのは──期待とまだほんの少しの不安。
ぽん、と奏也さんに肩を叩かれた。
「早く行ってやれ。王が殺られまくりでそろそろ同情するレベルだ。満足に成仏もできねえだろうよ」
これ以上あの人を待たせる必要はない。ぼくは奏也さんに頷いてみせた。
背後で狼狽えていた日衣はいつのまにか相棒のスティックを手に握っていて、涙の余韻もない力強い目をしていた。その目は今度こそぼくと合わせてくれている。
「あとで……茉莉ともちゃんと話したい」
「うん、そうしてあげて」
日衣はこくりと頷き、髪の毛の乱れを整えると、ぼくの背中を押した。
*
どんなライトよりも茉莉さんの笑顔が一番眩しかった。
というのはさすがにくさすぎて誰にも言えないけれど、でも確かにそう感じた。
ぼくらがステージに上がるとたちまち大きな拍手と歓声に包まれ、茉莉さんはそれに紛れるようにしてレコーダーと演奏の音を止めた。まるで、もう必要ないとでも言うように。
そしてぼくらに向かって体ごと振り返る。髪もシャツも汗でびっしょりだった。それでも爽やかに見える不思議は女性の神秘的な謎の一つである。
茉莉さんは日衣を見て、ぼくを見て、また日衣を見て、そして泣き出しそうなふわりと優しい表情で微笑みかけた。その表情にまた圧倒された日衣は一瞬固まったあと、顔を逸らしてそそくさとドラムセットに回って行った。ほんと素直じゃないなあ……。
ぼくも茉莉さんの右側に着き、初めて正面を見る。──そこには観客たちの期待に満ちた目がびっしりと広がっていた。
今まで五組のバンドがやってきてそれだけでもう満足なはずなのに、更に茉莉さんの演奏で足に釘を打たれている。そんな期待の中でぼくたちが演ってもいいんだろうか?比べては幻滅して帰ってしまわないだろうか?
……それはないと信じたい。だって、今ここには日衣がいる。日衣が下から支えてくれるだけで、ぼくと茉莉さんは前へ進んで行ける。だから、大丈夫だ。
覚悟を決めて今度はしっかりと正面を見る。今はまだ見えない虹が、きっとそこにはあるはずだから。
──そして、Risingのライヴが始まった。
茉莉さんが軽やかにソロで弾く『Over The Rainbow』。
ミュージカル映画『オズの魔法使』の主題歌だ。Rainbowのライヴでは、リッチーがこの曲のリフレインを弾いて幕開けするのが定番だった。せっかくRainbowの曲を演るんだからこの曲だって演ろうと茉莉さんが提案したのだ。
カンザスの農場に住む少女ドロシーは、いつも“虹の彼方のどこか”によりよい場所があると夢見ていた。そんなある日、竜巻に襲われて魔法の国オズへと飛ばされてしまう。「オズの魔法使いに会えばカンザスへ戻してくれるだろう」という北の魔女の言葉を信じ、知恵がない案山子、心を持たないブリキ男、臆病なライオンと出会い、それぞれの願いを叶えてもらうためエメラルドの都にいる魔法使いオズのもとへと冒険に出る。
その劇中でドロシーが憧れを歌うのだ。
──虹の向こうのどこか空高くに子守歌で聞いた国がある。そこでは信じていた夢が全て叶うという。いつか星に願いましょう。目覚めるとあたしは晴れ渡る雲を見下ろし、全ての悩みはレモンの雫のように溶けていく。虹の向こうのどこかで飛ぶ青い鳥たちのように、いつかあたしも飛んで行けるはずよ──と。
子供の頃から親しんでいた物語だけれど、この作者は、“願い事はもう既に自分自身の中にあるんだ”と伝えたかったのだとぼくは今ではそう思っている。
続けてリフを刻み、日衣がバスを鳴らして始まるのは、三人での『Kill The King』。
大歓声が会場を包み、みんながみんな王を殺せと合唱し出した。
茉莉さんひとりでの凄まじい『Kill The King』を聴いたばかりだからか、少しだけ覚える抵抗感が手のひらに冷や汗となって滲み出てくる。
けれど、やはり日衣のドラムスが加わるだけでだいぶ迫力が違っていた。そうなってくるとぼくは必要なくなってくるのだが……。でも茉莉さんがさっきまで使っていたベースアンプはいつのまにかステージ端に寄せられていたし、どんなに下手くそでもぼくはRisingのベーシストであってそれ以外のなにものでもないから、だからどうか許してほしい。
三人で演ることに意味があるんだってぼくらは思っているから、だからここにいる全員にもそう思っていてほしい。……そう願う。
調子に乗ってきた日衣が得意のレギュラーグリップに持ち変えてどんどん追い上げてくると、茉莉さんも負けじと火花を散らす。そうなるとやはりぼくはどんどん置いていかれていた。いや、闘ってどうするんだよ。
でもこの曲は本来こういう曲なのかもしれない。どのバンドのどのライヴでだって最初から最後までハイテンションで駆け抜けるべき曲なんだ。だって、王様を称える歌ではなく殺す歌なんだから。
一瞬の静けさがあってから、ぶわっと歓声が上がった。
まだ一曲しか演っていないというのに、ぜいぜいと息が切れていた。額に浮かんだ汗を腕で拭う。
後ろでは、頬を紅潮させた日衣が胸に手を当てて息を整えていた。なんだか呆けているようにも見える。その様子を同じく見ていた茉莉さんは冗談めかして言った。
「ヨリ!あたしたちを置いていかないでくれるかい?」
日衣は目を見張ったあと、むっと唇を尖らせた。
「飛ばしてるのは茉莉のほうでしょ」
「いいや。途中からリズムが加速していたよ?あたしに釣られたのかい?」
日衣は髪の毛を逆立たせて、バスをばふばふと踏んづけた。
「ちがう!茉莉がアドリブ入れたからそれに合わせただけ。釣られたのはそっち」
「どっちもどっちだろうが!」
「あなたは突っ立ってないでちゃんと弾いて!」
……言われちゃったよ。日衣がいてもぼくは突っ立ってるだけにしか見えないのかよ……。汗だくになってるのが馬鹿みたいじゃんか、さすがに落ち込むぞ。
「大丈夫だよスミ。上手く弾けないなら、踊ったり回ったり演じたりしているといい。あたしたち三人でのライヴなのだから、どんなことをさせてでも最後までステージに居てもらうよ」
「いや踊るくらいだったら弾きますけど……」
こうなってくるとベーシストの威厳皆無だな……。
そんなくだらない一門着がしばらく続いたあとで、茉莉さんはマイクに向かってそっと語り出した。
昔からライブ慣れしているからなのかかなり安定した話し方だった。たわいない大学生活での出来事。いろんなバンドを渡ってきて感じたこと。練習風景に華がないと言って日衣にパンダのきぐるみを着せたときのこと。……さすがにこれには日衣が憤慨し、ドラムセットを蹴倒す勢いで止めに入って笑いが巻き起こった。
それと、Risingの足跡。消えたり逃げたり待ったり泣いたり怒ったり、すれ違いながらもそれでも今三人でここに立っている奇跡。観客は誰一人として物音を立てず、茉莉さんの声に聴き入っていた。
「あたしはね、思うんだ。時間というものは意識しなければ流れないものなんだと。それなら意識しないで生きればいい。そうすれば時間は永遠にある。変わっていくものたちから目を背けられる。でも……それができたら話が早いね。皮肉なことにあたしたち人間は時間に縛られていなきゃ生きていけない生き物なんだ」
長いまつ毛を伏せ、マイクに囁くように声を出す。
「思い返せば、記憶というものは辛いことや悲しいことのほうが多かったように感じる。それは当たり前だよね、楽しい時間よりも辛い時間のほうが体感的に長く感じるからだ。だけど、どんなに物悲しい記憶でも、楽しかったと思えるようなおまじないをあたしは見つけたんだ。今日……ついさっきのことだ」
茉莉さんの目が一瞬、後ろの日衣を捉える。そしてまた前を向いた。
「それは、変わることを受け止めるということ」
カタッ……とかすかに背後で動揺した音が鳴った。
「変わらないものなんてないんだ。どうしようもなく変わっていくんだ。変わったと自覚するのはどうしてだと思う?その以前の姿を知っていたということだよね、変わる前の姿を。変わるのは周りだけじゃない。自分自身も変わっている。頑張ったから変わっているんだ。受け止めるということは、自分自身を受け止めるということ」
変わることを、頑張った自分を……受け止める。
それはどんなに残酷なことだろう。変わるのが嫌だから抗ってきたというのに、この人は受け止めろと言っているんだ。自分を受け止めることで変わるものも受け止められると。
茉莉さんは、ギターのボディをそっと愛おしそうに撫でた。
「音楽は不思議だよ、どんなに時代が流れようと世代が変わろうと何十年何百年と永遠に愛され続ける歌がある。……それが、おまじない。変わって欲しくない想いを歌にすれば、それは永遠に残り続ける」
──変わらずに、誰かの心に。
日衣は下唇を噛んで、じっと茉莉さんの背中を見つめていた。なにを考えているのかはわからない。でも、茉莉さんの言った言葉はしっかり日衣に届いているはずだ。──今ここにいる全員にも。もちろん、ぼくにも。
「さて」
茉莉さんは汗で顔に張り付いた髪の毛をはらうと、ギターを持ち直した。そしてぼくと日衣を見る。
日衣が何回か深呼吸をしたあとで頷いた。
今日のライヴで演る曲は決まっていた。『Kill The King』と……あともう一曲。
『Rising』のB面。大作は、ドラムイントロから始まる。
エジプトの奴隷たちが魔術師の命令により石の塔を必死に築こうとする。だが魔術師は転落して死んでしまい、奴隷たちはどうすればいいのかわからず途方に暮れてしまう。そんな中彼らは思うのだ。ただ家に帰りたい……と。
リッチーはこの曲をライヴで演ることを頑なに嫌がっていた。それは、収録で使用したチェロなど様々な弦楽器がライヴでは使えないこと。オーケストラサウンドがなければ、曲そのものの本質が失われてしまうからだ。
けれどコージーがRainbow脱退前の最後のライヴ、あの伝説のモンスターズオブロックライヴでは、ライヴ用にアレンジされた『Stargazer』を丸々一曲披露した。コージーがこの曲がお気に入りなのを知っていてリッチーが急遽取り入れたのだ。
ぼくは杉名レコード店でそのライヴの音源を聴いたことがあったけれど、その『Stargazer』は正直すごいとは思えなかった。なによりもグラハムが歌詞を覚えておらず、それに感化されるようにリッチーはひとりで突っ走っていた。そして最後にはストラトを粉砕しアンプを炎上させ、まるで殺気に満ちたようなクライマックスでそのライヴは幕を閉じた。
いまいちと感じたぼくだったけれど、けっきょくは最後まで聴き惚れて感動してしまったのだ。伝説としか言いようがないのもわかる。
あのライヴでトリを飾ったRainbowは、やはり今のぼくらと似たような状況にあったのかもしれない。ライヴ前の時点で、既にコージーだけでなくグラハムの脱退も決まっていたのだ。
Rainbowのメンバー入れ替えの数々は、音楽思考の食い違いというよりかは人間関係のすれ違いが主な原因だった。脱退していったメンバーは口々にリッチーの悪口を言っていた。でもどんなに悪口を言おうが喧嘩をしようが、やはり音楽の腕は尊重し合っているのだ。だから彼らは一時でも同じバンドで同じステージに立ち、同じ曲で汗を流した。
曲だけでなくそういう心情同士のぶつかり合いみたいな個性的な部分も、日衣がRainbowを好きな理由の一つなのかもしれない。ぼくも最初は全く興味がなかったけれど、今ではこんなに知っているくらいには好きだ。
終盤、サビのリフレインを茉莉さんはたっぷり4分ほど繰り返した。火を吐くように伸び伸びと歌い、それを打ち消すように日衣はシンバルを狂ったように叩きまくる。いやだから争うなって。
──虹が上っているのが見える ほら 地平線の上を見ろよ──
怒りに震え絶望する彼らは、ただただ願う。声が音となって出るかぎり喉から絞り出す。
──俺を帰してくれ 家へ帰してくれ──
長い長い切な願いが潰えたあとも、日衣の手は止まらなかった。
「日衣……?」
なにやってんだ、『Stargazer』で終わりの予定だろ……?
茉莉さんも緊迫した表情で日衣を凝視する。
「ヨリ!」
日衣はちらと顔を向けただけで、ツーバスを駆使した怒涛のような勢いのドラミングは止めなかった。
茉莉さんも気づいていた。……そう、このビートは『Stargazer』の続きだ。
──奴隷たちの話には続きがある。B面は組曲で出来ているのだ。
希望も目的も失った彼らに『暗闇の中に一筋の光』が見える。その光は、自分たちを本当の家へと導く星なのだ。もう誰かに囚われ縛られている必要はない。目的を与えられることも、それが失くなって絶望することもない。本当の夢と希望の自分だけの星を見つけた──そんな結末だ。絶望で終わるのではなく希望で終わる作品なのだ。
一テイクで録られたこの曲は、まさに奇跡とも言えるものだった。当時の五人にこのアルバムでやった全てをもういっぺんやっくれと言っても、おそらく無理な話だろう。
それに本家だってこの二曲フルを同じライヴで演奏することはなかった。それはコージーの体力を考慮してのことだ。コージーでも無理だったものが、日衣になんてできるわけがない。茉莉さんも不安で満ち溢れた表情で何度も日衣を呼び、止めさせようとした。……けれど、日衣が手を止めることはなかった。
こいつの頑固さは良くわかっている。止めても無駄だ。一瞬焦ったけれど、ぼくはもう気にしなかった。日衣がやりたいならやればいい。
そんなぼくの冷静な態度を見かねて、茉莉さんも心折れたようだった。大きく息を吐いたあと、日衣の刻むフィルに連なるようにしてハイスピードなイントロを弾き出した。観客が沸き上がり、会場内が大きく揺れた。
あとはもう最後まで……奴隷たちを無事に家まで帰してあげよう。
「ふふ。ほら、呼んでるよ」
まだまだ元気な茉莉さんがけらけらと笑った。
日衣は床に座り込んでペットボトルを頬に当てていた。意気消沈……はしていないみたいだ。潤んでいる瞳は、幕の向こうから聴こえ続けるアンコールを期待する声に感動しているようにも見えた。
「あたしが歌いたい曲を演ってもいいかい?」
「なんの曲ですか?ぼく弾けないかも」
「大丈夫。いつも演っていた曲だよ」
いつも……?それならやっぱりRainbowの曲か?
ぼくと日衣は、茉莉さんお手製のTシャツにはや着替えした。三人お揃い。……やっぱり恥ずかしい。
でもそんな照れる間もなく、日衣と共に茉莉さんに背を押されながらステージに舞い戻った。
業火の如く歓声が燃え上がったが、それに応えることなく茉莉さんがすぐにつま弾き出したのは先程までの熱に打って変わってスローでしっとりとした音色。1stアルバム『銀嶺の覇者』に収録されている『Catch The Rainbow』のイントロだった。
けれど、茉莉さんが歌い出したのは本来の『Catch The Rainbow』の歌詞ではなかった。ぼくにも、観客の何人かにも、そして背後でも、ざわっと戸惑いが走った。
茉莉さんの気持ちの良い歌声が、静まり返った会場内に響き渡る。思わず目を瞑ってうっとりと聴き入りたくなるほどだ。
──ただ、ぼくにはすぐわかった。これが“日衣の想い”だってことが。
あの破り捨てられたものだってことが。繋がった全文を見たわけではないけれど、これが間違いなく日衣の書いた歌詞であり、日衣の想いの全てだってことが。
だからぼくもビートを刻み出す。気づいた茉莉さんがこちらを向き、口の端を釣り上げてにたりと笑んだ。
メロディに上手くはまる脆い歌詞。厩番の少年と貴族の女性のラヴソングが、ひとりの繊細な少女の詩に変わる。
日衣は固まっていた。スティックをまとめて両手で握ったまま、大きな瞳を見開かせていてぴくりとも動かず、──青ざめた唇だけが小さく動いた。
一度なにかを堪えるように目を伏せ、やがて顔を上げると、ハイハットをちらちらと鳴らし始めた。
少しずつ歓声が上がっていき再び熱を取り戻した会場内は、もう一切の戸惑いが消え去っていた。
それに感化された茉莉さんは、ぴょんぴょんとうさぎのように飛び跳ねながら日衣のすぐ傍まで移動した。だからぼくも二人の傍へ行き三人で向かい合って演奏をする形になった。観客の顔を見ないどころか背を向けるだなんて……と思ったけれど、日衣が前を向いているから大丈夫だと思っておこう。
ぼくらが演る楽しさを知り、目いっぱい楽しむ。楽しさを誰かに伝えるのは、まだ今じゃなくてもいい。
ただぼくらは、変わらない時間の中で同じ想いの中にいた。
歌詞を変えただけだが、それでもこの曲こそが茉莉さんの言っていた『おまじない』そのものなんだろう。
──ふっと、日衣が笑った。初めて笑った。
無邪気で無垢で、素直な笑顔。目を細め、日衣らしい不器用な笑顔。
いつもむすっとしているか怒っているかだったから、日衣の笑顔が見れたことには驚いて、でもただただ嬉しくて、尊くて守りたくて、いつも笑っていればいいのにって思った。それだけでぼくの目頭がじわりと熱くなった。
そのためには、やっぱりぼくらは前へ進み続けるしかないんだ。どんなに変わっていく世界でも、自分を受け入れ、そして──