河原 聴いたり
日衣のいる目星はついていた。
学校のある繁華街を抜け、複雑に並んでいる住宅地を抜け、その先へ。
いなくなったときはいつもここにいた。──そして、今も。
小さな背中を見つけて安堵する気持ちと同時に、変な焦燥や緊張が冷や汗となって滲んでくる。手のひらを何度もズボンに擦り付けてみるが、治まる気配はなかった。
穏やかに流れている大きな川の手前。彼女はそこに膝を抱えて座り、向こうのずっと遠くの景色を見つめていた。
川を隔てた向こう側にはまた大きな街が広がっている。街と街とに挟まれたこの河原は、唯一何の建物もない自然だけが息吹いている平和な場所。静かに心落ち着かせられる場所だ。
……心落ち着かせて、日衣はなにを考えているのだろう。
でも、本当に心を落ち着かせることなんてきっとできない。ぼくらがめまぐるしく逃げたり追いかけたりしているように、この場所だっていつかは目まぐるしく姿を変え、平和な場所ではなくなってしまう。
その証拠に、街と街とを繋ぐ頭上の高架橋からは、建設機械のけたたましい音や指示をかける叫び声が鳴り止まず響いてきている。線路なんてものを作るんだそうだ。こんなところを電車なんかが通ったらうるさくてたまったもんじゃない。
この川だっていつかは埋め立てられ、自然は消滅し、街と街は合体して一つの街となる。それをぼくは虚しいというよりかは呆れの気持ちで見過ごしてきた。けっきょくは自分たちが楽に生きやすいように改造しているだけなんだ。子供がブロックを組み立ててロボットを作り、悪い怪獣をやっつけるみたいに。
怠惰に考えにふけっていると、視界の端で日衣の背中が動いた。抱えていたカバンから不器用な手つきでドラムスティックを取り出したのが見えた。日衣の小さな手には似合わず太くて長いスティック。
茉莉さんが何度初心者向けの標準スティックを勧めても、日衣はずっとあのスティックを頑なに貫き通していた。今では彼女の立派なパートナーとなっている。
──棒なだけに、相棒ってね。きみが選んだ相棒なら、その命が尽きるまで共に歩み続けることだ。
手の皮がぼろぼろになって泣き苦戦していた日衣に茉莉さんがかけた言葉を思い出した。
日衣は、スティックでタカタカっとリズム良く自分の膝を軽く叩き始めた。それから風と一緒に鼻歌を乗せた。不安定でおぼつかない声音。
『チャイコフスキーの序曲1812年』。
1812年、無敵を誇るフランスの皇帝ナポレオンがロシアとの戦争に敗れ大雪原を撤退する場面を描いた交響曲だ。フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の主題も度々登場する。
たしか日衣の憧れているドラマーも、よくこの曲をソロで叩く圧巻の演出をライヴでやっていたはずだ。
何時間そうしていたのかわからない。……いや、実際は数十秒だったのかもしれない。日衣の手と頭がだらりと落ちるまで、ぼくは呆けたように日衣の刻む音たちに聴き入っていた。
スティックを片手にまとめると、また膝を抱えてその上に頭を伏せた。長い髪の毛がふわりと風に揺れる。
向こうのビル群の隙間に赤い空が見えた。
──もうすぐ日が落ちる。まだ五月とはいえ肌寒いほうだ。いつまでそこでそうしているつもりかは知らないが、大事なライヴの前で風邪なんかひかれたら困る。
いや、ていうかあいつもう既に熱があるんじゃなかったか……?なにやってんだこんなことしてる場合じゃない。
「日衣!」
名前を呼ぶと、その身体がびくりと飛び上がり、赤い顔が振り向いた。その目がぼくの姿を捉えて一瞬驚いたあと、すぐにキッと鋭い目つきに変わった。
「こ、来ないで!」
慌てて叫び、重い体をよろよろと引きずるように立ち上がっていた。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
足がくがくじゃないか。バカなのか。
すぐ傍まで駆け寄ると、日衣は目を瞑り悲痛な声を上げた。
「忘れてって言ったでしょ!」
持っていたスティックでぼくの胸や肩をバシバシと攻撃的に叩き始めた。
こらこら、スティックといえども楽器で人を殴るな。
でもなぜか、ちっとも痛くはなかった。身体の痛みよりも今は心の痛みのほうが勝っているのかもしれない。
黙ってされるがままになっていたせいか、やがて日衣の叩く手は止まり、その握り拳をぼくの胸にドンと付いて落ち着いた。──次はぼくの番だ。
「あのさ、日衣。たしかに忘れてとは言われたよ。でもぼくは、はいそうですかわかりましたなんて一言も言ってないんだけど」
日衣の肩がぴくりと動き、しかめた顔を上げた。瞳がかすかに潤んでいる。
「……は?」
「超能力者じゃないんだ。簡単につい数時間前まで一緒にいた人間をぽんと忘れられるわけないだろ」
ぼくの攻撃に呆然とした顔の日衣は、唇をわなわなと震わせた。
「昨日の晩御飯のメニューだって覚えてるのに」
「……なんだったの」
そこ訊くかよ。答えるけど。
「ブリ大根とほうれん草のおひたし」
「女子みたい」
「悪かったな女子力満載な男で」
うちの母親、料理下手くそなんだよ。
日衣はぼくの胸から手を離すと、制服の袖で目をこしこしと擦った。そしてぽつりと言った。
「……わたしはコンビニのサンドイッチ」
晩御飯にサンドイッチか。そういえばこいつ一人暮らしだったっけ。
「よかったら作りに行こうか?」
コンビニ飯ばっかりだと栄養偏るぞ。
「よっ、よくそんな変態まがいなこと!」
墓穴を掘ったみたいだった。今度は弱々しい拳で叩かれる。耳まで真っ赤になっていた。
──そうだ、こうしてすぐ怒ったり恥ずかしがったりするのが本当の日衣だ。ならずっとぼくらの傍でそうしていればいいのに、どうしてわざわざ悪い方へとこいつは行こうとするのだろう。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってほしい」
憤慨していた手がぴたりと止まった。
想ってたって、念じたって、祈ったって、一言も伝わりはしないんだ。ぼくらには声があるんだから素直に声で伝えるべきだ。それを聴く耳だってちゃんとあるんだし。でも──
「……言ったところでなにかが変わるわけでもない」
日衣は簡潔にそう答えた。ぷいと顔を逸らされる。
「言わないほうがもっと変わらないだろ」
「変わらなくていい!」
大きな声を出してぼくの言葉を遮ると、また潤み出した目を伏せた。
「……どうしようもないことなの。黙ってても変わっていくなら、無理に事を起こして変える必要もない」
前髪を触って表情を隠そうとしながら言った。
「ややこしくするなってこと?」
日衣が頷く。
「わたしがいなくても世界は回るの。変わっていく世界に……わたしは必要ない」
「必要だから今こうして話してるんだろ。じゃあなにもかもこのままにするつもりか?なにも言わないまま抜けて、破った詩もそのままにするのか?」
日衣が瞳を大きく見開いてぼくを見上げてきた。濡れたまつ毛が震えている。
「……見た、の……?」
ぽっかりと開いた口が、掠れた声を出した。
見たもなにも、あれがお前のぼくらへの当てつけなんだろ?ぼくの口は止まらなかった。
「茉莉さんの前だから許されるとでも思ったか?歳上だから?大人だから?そんなの関係ない。あの人がどんな顔して見せてきたと思っ……」
ぽろぽろと溢れ出した涙を見て、その先はぴたりと簡単に止まった。日衣も自分の頬を涙がつたったのに気づき、慌てて両手で拭い出す。鼻をすんと鳴らしてぼくから体を背けた。
「……忘れて……」
腕で目元を隠しながらそう言っていた。
「だから、それはできないってさっきから何度も」
「じゃあ首を縦に振ってくれるまで、あなたの腕でも脚でも切る」
「拷問かよ」
「じゃあどうしたら忘れてくれるの」
「知るかよ、そんなに忘れてほしいならぼくがお前を嫌うようなことでもしてみろ」
「じゃああなただってさっさと死んでわたしのこと以外にもこの世での記憶全部忘れちゃえばいい」
忘れろに対して死ねって返しがくるか……。
……だめだ、すんなりと頭に血が上る。一旦落ち着かなきゃいけない。ぼくも日衣も。
「とにかくさ……」
頭を振ってリセットする。
「日衣はRisingにいなきゃいけない。必要なんだ、日衣が日衣でいるためにも」
日衣はゆっくりと腕を下ろした。真っ赤に腫れた目元が露になる。
「あなたは?」
「え?」
「わたしがいて、あなたにメリットがある?」
……なんだよ、それ。
「あるもなにも……」
「ちゃんと話してくれないのはあなたのほうでしょ?ライブ前だから、Risingが、ドラムスが、茉莉が、そればっかり」
「ぼくだってちゃんと言うつもりで……」
「わたしを捜しに来たのだって、茉莉に言われてでしょ?」
──図星。
思わず目を逸らす。そうだ。茉莉さんや癒埜に助けを求めて励ましてもらって日衣のことをお願いされなきゃ、ぼくは今ここにはいない。
日衣は小さな声で素っ気なく続けた。
「茉莉がいるから……いいでしょ。わたしがいなくても……。Rainbowは元々、リッチーとロニーの二人で始まったバンドなんだから」
……どういう、こと?二人?
「でもRisingは日衣がつけた名前だろ?それをそんな簡単に放っていいの?」
ぼくの問いに、日衣はぴくっと反応していた。顔を伏せる前、下唇を噛むのが見えた。
そもそもに日衣がどうしてRisingとつけたのか、その意味もなにも知らない。こいつは本当にぼくらにはなにも話してくれていないんだ。本当になにも。なに一つだって。……なんか悔しくなってきた。
でも、訊けばなにか答えてくれていたんじゃないのか?なんでぼくは今まで一度も訊かなかったんだ……。それじゃあこんなにすれ違って当たり前じゃないか。
──でも確かなことは一つ。これは誰に訊かなくてもわかる。
「Risingは日衣がいないと始まらなかった。これからだってずっとそうだ」
日衣はぼくの言葉に、ぎゅっと両手をきつく握った。
……なにも返してはこない。もうなにも言う気がないのかもしれない。ぼくの言葉は全部空回りしていて、日衣の心にはなに一つ届いていないのかもしれない。なに言ってんだこいつぐらいにしか思われていないのかもしれない。
耐えきれなくなって、肺の中に張り詰めていた息を一気に吐いた。
けれどいくら遠回りでも空回りでもバカみたいでも、もうこのままではいられないんだ。茉莉さんにも約束した。──必ず連れ戻すと。
「熱、大丈夫?」
長いまつ毛がぴくりと動き、それから小さく頷いていた。
「明日リハだから……。学校は無理して来なくてもいいけど、リハは来いよ?」
また目を伏せられる。頷いてはくれなかった。
……そうだよな、こいつの言いたいことなに一つ聞いてないもんな。
でもぼくらは音楽で言いたいことを伝えれるんじゃないのか?
気恥ずかしいことでも面倒くさいことでも、拙く不器用に綺麗に届く。今まさに、それをできる立場にぼくらはいるんだ。そう期待してる。だから──
「だから、待ってる」
しっかりとそう言ってみた。そしてそれは、きっと届いたはずだ。
日衣はふいと踵を返し、カバンを取ってそそくさとぼくの前からいなくなった。