海 進んだり
あの日以来ぼくたち三人で集まることは一度もなかった。
なんとなく、ぼくはあれから毎日授業に出ている。
教師からも「頭がおかしくなったか」と言われたくらいだ。ぼく自身もとうとうそうかもしれないなあなんて自覚をしてしまったから否定はできない。けれど進学なんてする気はさらさら起きないので、まだ“当たり前の世界”には片足しか浸かっていないんだろう。
でも今はまだそれでいいと思っている。出たくなったら出るし、さぼりたくなったらさぼる。そうして変わりすぎることもなく変わらなさすぎることもなくゆっくりと大人になりたい。
のちに癒埜から聞いた話によると、日衣はあのライヴの次の日は真面目に学校に行ったんだそう。どんな目にあったのか気になるところではあるが……でもそれ一回きりで学校は辞めたという。
──それが日衣の、“前に進む”という選択だった。
何度繰り返しても抜け出せない教室から、自分で別の道を探して抜け出したんだ。
6月17日
まるでヨーロッパの大聖堂のようなキャンパスから出てきた茉莉さんは、羽のようになびく髪の毛を手で押さえてあさっての方向を見た。
「薄々予感はしていたんだ。彼女の両親はニューヨークにいるから、そのうちそっちに飛ぶだろうって」
「は……?」ニューヨークだ?
「きみは本当になにも知らないんだね、もう少し他人と関わる努力をしたほうがいい。そのうち同じ街内でも言葉が通じなくなるよ?道を訊かれても、あっ、とか、えっ、とかしか言えなくなる」
それかなりぐさぐさくるからやめてくれ……。全世界の口下手を敵に回したぞこの人。
なんとなしに見上げた空は、すっかり夏というものを映していた。まるで海が広がっているみたいな模様だ。
「もうこの街どころかこの国にはいないのか……」
改めてそう考えると、なんだかものすごく遠く感じた。この空は繋がっているはずなのに。
寂しくないと言えば嘘になる。だってなにも言わずに行っちゃったんだから。……いや、言ったか。日衣はちゃんと言ってくれた。ただ肝心な言葉が足りないだけだ。さすがに退学して渡米するだなんて事態は思いつきもしない。
ただ、隣にいるエスパーは全てわかっていたみたいだけれど……。
「太平洋を隔てられてはそう簡単に手も音楽も届かないね。せめて見送りくらいはさせてほしかった」
全くだ。いつか帰国が決まっても出迎えてやらないぞ。
茉莉さんは手のひらを空へと向けた。眩しい陽射しが遮られ、茉莉さんの顔が影る。
“前に進んでも悲しいことしかない”。それはそうだ。こっちにはぼくらがいるのに、渡米してしまえば日衣の味方は誰一人としていない。それでも前に進む。
──そうしなければつかめないものがたくさんあるんだ。
「あっちの学校ではちゃんと通えるといいけど」
なにも三年間きっちりじゃなくともいい。一時間でも一日でも多く通って、一人でも友達ができれば……きっと少しは楽しく暮らせるはずだ。
「いや」
茉莉さんは首を振っていた。
「学校はまだ無理だろう。たぶんしばらくは療養に専念すると思うね、あっちの医者は優秀だ」
「そうですか……」
けれど、茉莉さんもぼくもわかっている。もう待つことも連れ戻すこともしなくていいって。
言いたいことも言ったし、聴きたいことも聴いた。……笑顔も見れた。
たった一ヶ月だったけれど、Risingとして三人で過ごした時間はぼくの中で楽しい記憶へと変わっていた。きっと日衣も茉莉さんもそうだと思う。
なにも“当たり前”になる必要なんてない。どれだけ時間がかかろうとも頑張ったことを認められなくとも、それでもその記憶がいつかまた足を止めて逃げ出したくなってしまったときに、少しばかりの後押しとなってくれるはずだ。そう信じたい。