高架橋 見たり
いつもの河原の橋の上、建設中の線路はさすがに夜になると放ったらかしだった。荒い砂利や砂袋の他に工具まで散乱している。日が昇ったらまたすぐに作業を再開するんだろう。
もちろんテープが掛けられていたが、ぼくらは躊躇なく跨いで立ち入り禁止区域に侵入した。
仮設のレールが敷かれており、暗闇の奥へと続いていて端が見えない。隙間からはブルーシートと枕木が覗いている。そのレールを避けた地面の上に三人並んで腰を下ろした。線路なんてできたらもう座ることも立つこともできなくなる場所だ。そう考えると少しだけ感慨深くなる。
たとえ工事事故が起こったとしても、ここが未成線になることはおそらくないだろう。ここに線路が通れば誰もが快適に暮らせるようになるからだ。変わってほしくないだなんて、ちっぽけで大きな想いを持つ人がいることも知らないで……。
眼下には空を映した川が流れ、眠らない街と街を分断している。見渡すと建物の至るところに明かりが灯っていて、そこではまだ勉強したり働いたりしている人がいるのだろう。……それはなんのためだろう?
けっきょく残るのは結果だけで、それまでの過程なんてちっとも認められはしないのに、それでも頑張る理由ってなんだろう。
けっきょくは自分意思なんかで生きているのではなく、この国の思惑通りに生かされているだけなのかもしれない。賢く勤勉であるように……と。それができずに脱線した者はこの国に殺されたも同然なのかもしれない。もう誰の目に止まることもなく、やりたいことをやって好き勝手暴れ、自分意思で生きている。そっちのほうが人間らしい気もするのだが、なぜか“はみ出し者”だと嘲笑されるのが当たり前なのだ。
……ああ、本当に“当たり前”ってなんなんだろうな。その答えは一生出ない気がする。
茉莉さんは、ここに来る途中のコンビニで好きに選んで買った飲み物とお菓子を袋から出して足元に広げた。その中にはやっぱりお酒の缶。
ぼくがため息をつくのと茉莉さんが意地悪く笑うのは同時だった。
「打ち上げに酒は必須だと何度も言っただろう?」
「だからぼくらは未成年ですってば」
「お酒の味も知らないで大人になるほうが子供だよ」
はあんなるほど。そりゃたしかに正論かもしれない。
「……て、騙されるところだったじゃないかよ!なに勝ち誇った顔してんですか」
茉莉さんは、愉快そうにけらけらと笑った。
「いやあスミは面白いなあ」
「可純うるさい」
「お前も少し納得したような顔してただろうが」
してた。絶対してた。でも首をぶんぶん振られる。
「してない。わたしが関心したのは、茉莉の嘘っぽく聞こえない嘘の言い方」
褒められた茉莉さんは、興味があるかい?と口の端を釣り上げた。
「大人はね、大きな身体にたくさん嘘を詰め込んでいるものなんだよ。水分が60%なら、残りの40%は嘘で出来ている」
「これ、わたしが関心してるのはこれ」
「たしかに嘘言うの上手いですよね……簡単に騙されそうになるから恐ろしい」
こうして今まで一体何人もの犠牲者が出たのか……だが、茉莉さんは「おや?」と真剣な表情で首を傾げた。
「これは嘘じゃないよ?本気で言っている。人間は歳をとるごとに体内の水分割合が減っていく。それは筋肉が衰える代わりに脂肪がつき、その脂肪分だけ水分の割合が少なくなるからだ。けれど脂肪がつこうがつかまいがどっちみち細胞内の水分は低下してしまうものだ。減った分をなにか別のもので補う必要があるけれど、老化が進む身体ではなかなか難しい。でも体内に秘めているにも関わらず唯一老化対象に引っかからない代物がある。それが嘘、隠し事だ」
──絶句という名の絶句。
さすが院生なだけあって説得力が違う。ああそうなんですか勉強になりましたと素直に首をがくんがくん動かすしかなくなる。日衣も呆けたように目を見張っていた。
そんなぼくらを見て、確信犯はにんまりと笑んだ。
「スミもヨリもこれから体が大きくなるにつれてどんどん隠し事も増えていくだろうね。でもそれは悪いことではないんだよ、嘘というのは誰かを想っていなきゃつけないものだ。嘘が多ければ多いほど思いやりのある人間だということ。そして」
その続きは日衣が言った。
「偽善者のできあがり」
……ああ、なるほど。だから大人はどいつもこいつも善を顔面に貼り付けた悪人ばかりなのか。ついに納得してしまった。
ぼくもいつかそうなるんだろうか?そう考えると大人になんてなりたくないとさえ思ってしまう。
でも時間は止まることはない、嫌でも大人になってしまうんだ。このままなにも変わらない姿で子供の心のまま大人になったとしても、周りは大人だと思って接してくる。それってついていけるんだろうか……?
日衣が手を伸ばしてポッキーの箱を取った。中から一袋取り出し、キュウゥゥッとじれったい音を響かせて開けようとするがなかなか開かない。ぼくはその様子を黙って眺める。
二年遅れの教室は時間差が激しく場違いでついていけなかった。でもなにも障害がなく遅れのないまま大人でいて場違いだと感じれば、それは自分の心の過失でしかない。なにも言い訳ができない。
「怯えることはないよ」
思い悩んでいた頭の中にスッと声が響いた。
茉莉さんは、涙目になっている日衣から袋を受け取ると簡単に開けて見せた。頬をふくらませる日衣に優しく微笑む。
「大人がどういうものかと考え続けることが大事なんじゃないかな。その過程が大人か、その結果が大人かは人それぞれだけどね」
そう言うとポッキーを一旦箱の上に置き、缶を一本ずつ手渡してくれた。
梅ソーダとお洒落に書かれたラベル。水滴がぽたぽたと膝の上に落ちる。
プルタブを持ち上げて開けると、鼻につーんとくる酸っぱい香りに混じってアルコールの確かな匂いが漂った。続けて、プシップシッと隣で軽快の良い音が続けて鳴る。
「さて、乾杯といこうじゃないか。ヨリ」
アルコールの匂いに目を瞑って唸っていた日衣は、茉莉さんの声に瞳をまん丸く開く。やがて、ぼくと茉莉さんを交互に見てからおずおずと口を開いた。
「……か、かんぱい」
コチーンと三つの缶がぶつかる音。それから潤しく喉を通っていく気持ちの良い音。
と、さも当たり前のことかのように自然に流されてはいるけれど、これは間違いなくお酒なのだ。そしてぼくは未成年なのだ。そう何度も自制し一口だけに留めておいた。
……うん、めちゃくちゃ美味い。なんだこれ。
美味いと感じるということはぼくはもう大人なのかもしれないなあ。……なんて、たかが梅ソーダで威張れるかっ。
半分以上も一気に呑んでしまった茉莉さんは、ぷはっと満足げな顔で息をついた。
日衣はというとけっこう呑んだみたいで、缶に唇をつけたままぼーっとしていた。正反対の二人を見て自然と口元が緩む。
「ヨリ?大丈夫かい?」
「こいつが熱あるの完全に忘れてないですか?」
「うん、忘れてた」
茉莉さんはけたけたと笑い、日衣の背中を撫でる。
「ごめんねヨリ。水も買っておいたから辛かったらちゃんと言うんだよ?」
「……大丈夫。わたし大人だから」
「どこがだよ」
「茉莉の嘘っぽく聞こえる嘘聞いて思ったの。わたし、二人にたくさん隠し事してるから……だから大人」
「それ言っちゃったら隠し事にならないんじゃ……」
「うるさい」
むっとした顔で睨まれたので、口をつぐむ。
「でも隠し事をしていたほうが距離感的には一番楽だと思うけど、どう?」
茉莉さんが首を傾げて訊いていた。
こないだも言っていた、“一定の距離を保っていたほうが気持ちの良い関係”のことを言っているんだろう。
日衣は目をそわそわと動かし、一瞬考えてみたあとで頷いた。
「二人がわたしのこと全部知ってたら気持ち悪くて死にたくなる」
「それは同感だね」
それにはぼくも同感だ。やっぱり隠し事はあったほうがいい。関係を続けて行く上で不要なものはそのまま隠しておけばいいし、必要なものは伝えればいい。
それだけなのに、どうしてかすれ違ってしまうのが人間なんだ。めんどくさいものだ。
「あたし的には、自分を守るために嘘をつくのが子供で、誰かを守るために嘘をつくのが大人なのかなと思うよ。それが全てではないけどね」
茉莉さんは日衣と目を合わせた。そしてゆっくりと言う。
「だからもし嘘をついたとして、それで悪い気がしなかったのなら……。それは自分ではなく誰かを守ったという証拠になる」
それって、つまり──
しばらくしてその意味に気づいた日衣は目を見開き、茉莉さんからバッと顔を逸らした。……まるで、バツが悪そうに。
たぶん日衣は悪い気がしているんだろう。自分を守るためにぼくらに嘘をついていると、そう茉莉さんに見抜かれ、そして自分自身も自覚をしてしまった。
茉莉さんは微笑を浮かべ、地平線の彼方にずっと続いている川に目を落とした。
「難しいね。隠し事をたくさんするのは大人だけど、でも悪気のある隠し事をするのは子供。自分で言っていて馬鹿みたいだとは思うよ」
……いや、少なくとも茉莉さんの意見は的を得ているとぼくは思う。
素直さの問題でもあるのかもしれない。素直に悪い気がしてるなら、きっとまだ大丈夫だ。これからいくらでも成長していける。
茉莉さんはくすっと笑うと、ふくれっ面の日衣の唇にポッキーを押し当てた。日衣はそれを黙ったまま咥え、ポリポリと頬張っていく。
その様子を見ていて改めて思うが、ぼくは日衣の大人になった姿というものを明確に想像できない。
このまま意地っ張りな大人になってしまうんだろうか……?それとも、茉莉さんみたいなどこか賢い人になるんだろうか……?
「……ふ、ふは」
思わず笑いが込み上げてくる。肩を震わせ、口の中でぷるぷると堪える。茉莉さんみたいな日衣って……さすがにないない。
「可純気持ち悪い」
「スミ不気味だよ」
どんな大人になろうが、きっと根っこの部分は今となにも変わらないはずだろう。
それから何分、あるいは何時間そうしていたのかはわからない。
お酒の缶もお菓子の箱も空になるまで、くだらない話を延々として盛り上がっていた。結成してから今までで一番“おしゃべり”というものをした気がする。
お酒の酔いも手伝ってかすっかり疲れ果ててしまった日衣は、茉莉さんの肩に頭を預けてうとうとしていた。
「夏は合宿にでも行きたいね」
そっと、茉莉さんは提案してきた。
「合宿かあ……」
考えたこともなかった。朝から晩まで練習するのかな、それもそれで面白そうだ。
「あたしはね、この三人でやりたいことがたくさんあるんだ」
意気揚々とした表情でそう言った。
「例えば?」
「ライヴももちろんだけど、遊んだり旅行したりパーティーをしたり季節のイベントをしたり、普通の友人同士みたいな連れ合いがしたい」
「茉莉さんはいつもしてそうなイメージなんですけど」
「そうかい?あたしは意外とインドアなほうだよ?」
「いやいやどこが」
全力で手を振ると、茉莉さんはわははっと笑った。そして目を細め、優しく微笑んだ。
「とにかくこの三人がいいんだ。……なにをするにも」
「どうして……、どうしてそこまでぼくと日衣にこだわるんですか?」
「どうしてだと思う?」
質問に質問で返された。
歳も茉莉さんだけ離れている。頭が良くて、交友関係も広くて、音楽の腕は一流で、おまけに誰が見ても美人で、それなのにひっそりと陰で生きているに等しいぼくと日衣と一緒に過ごしたいと言う。それはどうして?……どうしてだろう。わからない。
なかなか答えれずにいると、茉莉さんは簡単に答えを告げた。
「二人が人間らしくてたまらないからだよ」
「……は?」
予想だにしない答えにぎょっとする。茉莉さんの瞳は空を見上げていた。
「平凡に健常に生きている人よりも、抗って荒れて逃げて嗤われて泣いて死にたがっている人のほうが人間らしい。だって、勿体無いじゃないか。せっかくの人生なのにすんなりすんすんしれっと生きて死ぬだけなんて。それよりだったら、精一杯もがき苦しんで死んだほうがいい」
そう真顔で言ってのけた。
「ぼくらが、そうだってこと?」
「うん。スミとヨリはすごく懸命に生きてる。人間らしく、自分らしく」
だから……一緒にいたいの?
「少なくとも、ぼくは健常に生きている人と過ごしたほうが楽しいと思います。だってそのほうがなにも障害がないわけだから、心の底から楽しめるだろうし」
つまらなく演ってる人を見て楽しくないように、暗い人と一緒にいるよりは明るい人と一緒にいたほうが楽しいのは当たり前なはずだろう?
「うん、そうかもしれない。でもあたしはきっと楽しめない」
茉莉さんはきっぱりと、その“当たり前”を否定し切った。
「もう見て見ぬふりはできないんだ。どうしても惹かれてしまうんだ……人間らしい人に」
そして目を落とし表情を曇らせた。
──その瞼の上に、なにか記憶が浮かんだのだろうか?
茉莉さんは、自分の肩の上で気持ち良さそうに寝息を立てている日衣の頬から髪の毛をはらってやった。
どこか愛おしそうな切なそうな瞳でその寝顔を見つめたあと、その記憶を語り出した。
「……あたしが五つ目に入ったバンドで事故があった」
ぼくが気になっていたところだった。背筋を伸ばし、耳を傾ける。ぼくら三人の息遣いだけが鼓動していた。
「彼は奏也の古くからの友人で、そして余命わずかだということをあたしだけが知らなかった。……とにかくバカ丸出しな人だった。なにをするにもふざけていて、周りの目と心を奪い自分の世界へと引きずり込むのがすごく上手い、お調子者もいいところだった。……それがあたしの癇にひどく障った」
ふっと、茉莉さんは口の端を釣り上げて苦笑した。
「真面目に演らない彼にあたしはいつも腹が立った。彼の突然乱れるリズムのせいで毎回練習ではストップがかかり、いつまで経っても先へは進まない。彼はへらへらしながら謝り、また同じことを繰り返した。しまいには曲の途中でふらふらと出て行ったりもした。まるで絵に書いたように自己中心的な人だった」
一度深呼吸をし、間を置いてから続けた。
「ある冬の日のライヴだった。彼は来なかった。連絡もとれなかった。彼に代わって奏也がドラムスを演りなんとかそのステージは凌いだ。奏也もベーシストもなにも言わなかったが、あたしはもう我慢の限界だった。──次に彼があたしたちの前にふらっと姿を現したのは、ライヴから一週間後。あたしは彼を追い詰めた。ひどい言葉を浴びせ、ずっと溜めていた苛立ちを一気にぶつけた。……その間、彼はずっと黙って優しい笑顔をしていた。それがまたあたしの癇に障った」
茉莉さんは腿の上に置いた自分の手のひらに目を落とした。
「そのあとは……よく覚えていない。気づいたらあたしは、痣だらけの彼の上に馬乗りになっていた。そして、彼の身体に付いているたくさんの心電図と注射の痕を見て唖然としていた。──そこでようやく気づいたんだ。彼がへらへらしてふざけていたのにも理由があったんだと。あれが彼なりの精一杯の人間らしい生き方だったんだと。それをわかってあげられず、気づくこともできず、ましてや自分の価値観だけで卑下し罵倒するなんて……あたしはなんて愚かで最低な人間だったことだろう」
声がかすかに震えているのがわかった。
「でも、茉莉さんは知らなかったんですよね?その人が病気だったってこと……。それって仕方の無いことなんじゃ……」
そう思ったけれど、茉莉さんはふるふると首を振った。
「たしかに知らなかった。奏也もベーシストもなにも教えてはくれなかった。でも、ヒントはいくらでもあったんだ。彼がやけに厚着をしていること。やけに化粧が濃いこと。やけに水分を多く摂ること。やけに荷物が多いこと。やけに寝そべること。……いくらでも気づくタイミングはあった。気づかなかったのは……気づこうとしなかったのは、あたしの過失だ」
……ああ、似ている。どこかが似ている。今回のぼくらに。
茉莉さんもそうして、たった小さなすれ違いに苦しんだんだ。なにも言わずに消える仲間に振り回されたんだ。
一度すれ違ってみなければ、たくさん散りばめられていたヒントに気づくことも衝突することもない。
「……その人は、どうなったんですか?」
「さあ、知らない。最後に一回だけセッションをしたあと、またふらふらといなくなって、そしてあたしたちの前に二度と姿を現さなかった。……もうこの世にいないのは確かだろうね」
そうして茉莉さんは空を見上げて微笑んだ。
そんな辛く悲しいことがあってそれでもやはり、その記憶も楽しかったとこの人は言い張れるんだろう。
「音楽を演る人には、どうしてもそういう人たちが集まるのかもしれないね。自分意思で自由に生きている人たちが……。でも彼が隠してくれていたおかげで、あたしは信念から彼にぶつかることができたんだ。知っていたら、きっと距離感を上手く掴めずに彼のおふざけを見過ごす結果になってしまっていたかもしれない。だから、そうならなくてよかった」
身近に余命わずかな人がいれば、きっとぼくも大袈裟に気を使ってしまうことだろう。だから知らなくてよかったと言う茉莉さんの気持ちはよくわかる。知らなかったからこそ、彼らしい生き方を尊重できたのだろう。
……やっぱりすごい、この人は。
そんな茉莉さんの生き方を、ぼくは心の底から尊敬する。
茉莉さんはにっこりと微笑んで続けた。
「それからあたしは決めたんだ。次にバンドをやるときは、精一杯人間らしく生きている人の邪魔は決してしないと。そして、もう二度と同じ過ちは繰り返さないと」
それが──茉莉さんが待つだけに徹した理由と、ぼくらにこだわる理由。
「ロックの神様は裏切らないよ、きっと見ていてくれてる。だから、どんな選択をしようが、どんな生き方をしようが、自信を持っても大丈夫だよ」
最後にそう励ましをくれた。
少なくとも茉莉さんは、ぼくと日衣の生き方も尊重してくれているのだろう。どんなに情けない生き方だとしても。
……それはなんて贅沢なことだろう。尊敬してる人から自分の人生を尊重される。……こんな幸せってあるのかな、こんなにも恵まれてしまっていいのかな。
これだけ幸せを得てしまうと、逆に恐くなってなにもかも棄てて逃げ去ってしまいたくなる。たとえそうなったとしても、変わらず待っててくれる人なんだって、茉莉さんはそういう人なんだってわかってるから、だからこそそうしてみたくもなる。
──そういうことか。
考えついた終焉の果てが“全て”と繋がり、ぼくは日衣の寝顔を見つめた。
日衣がぼくらの前から逃げ出した理由って、もしかしたら……。
「ヨリ、風邪ひくよ」
茉莉さんは日衣の肩を揺すった。唸りながら起きた日衣は、眠そうな目を擦り、ふわっとあくびをした。
今度はライヴの余韻ではなく、お酒の余韻がその頬に現れていた。
「なんの話してたの……?」
重そうな瞼の下でぼーっと虚ろんでいる瞳がぼくと茉莉さんを交互に見る。
「夏休みの予定の話だよ」
「……なつやすみ?」
目をぱちくりとさせ、不思議そうに聞き返す日衣。
「ああ、ヨリは年中夏休みだったね」
茉莉さんの冗談に、寝起きの日衣でもさすがにそれには反応した。むすっと唇を尖らせて拗ねる。
「昨日学校行ったもん……」
「HRだけだろうが」
「校門くぐって校門出たら、それで学校行ったことになるの」
「ならねえよ!なにしに来てんだよ」
「あなたに言われたくない」
はいそうですね、すいません。
なにも言えなくなって黙りこくったぼくを見て、茉莉さんは大口を開けて笑った。
「そうだよ、スミ。この夏をエンジョイするためにもスミはちゃんと授業に出ること。補習や追試で夏休みを潰されては話にならないからね」
「いや三年だし、成績に関係なく夏休みは補習があると思うんですけど」
めいっぱいのぼくの言い訳を、茉莉さんは首を振って否定した。
「あのね、授業はさぼらないで補習をさぼるものなんだよ。きみは逆なんだ。もしかしてきみの頭の中では脳みそが左右逆にセットされてたりする?」
さぼること自体が間違ってるって誰かツッコんでやってくれ……。
「ヨリもだよ。明日はヨリ学校休めないね」
突然自分に話を振られた日衣は、眉を潜めて小首を傾げる。
「……どうして」
「昨日のライブを見に来ていた人がいるかもしれない。ヨリの机の周りにはファンがたくさん集まることだろう」
日衣はあからさまに嫌そうな顔をした。
「やだ気持ち悪い」
「ファンの扱いひどいな」
その光景を想像したのか、見る見るうちに顔を青ざめさせていた。
「ファンなんていらない。そんなもののためにバンド始めたわけじゃない」
きっぱりと言い切っていた。
たしかにそうだけれど、でもこのままバンド続けていくのならファンの一人や二人は必要になってくると思うよ……?
顔をしかめる日衣の隣で、茉莉さんは愉快気に笑っていた。
「そういうツンなところもまたヨリの魅力の一つだ。今のうちにサインを貰っておこうか」
「そんなの書いたことない」
「好きな絵か単語を書くだけでいいんだ。なんなら似顔絵でもいいよ」
「そこは自分の名前書いてもらえよ!」
「スミはいちいち注文が多いね」
「あんたがボケすぎるからだ!」
「可純うるさい」
はあ……ぼくが悪いのか。
二人のマイペースさがこれほどまでに深刻なものだとは、さすがに想定外だった。一番“おしゃべり”というものをして初めて知った真実。今更だが、ついていけるのかなあ……ぼく。
しばらく額を押さえて落ち着いていると、茉莉さんが思い出したように大事な話を持ち出し始めた。
「ヨリ、Risingの当面の予定はどうなっているんだい?」
「え……?えっ、あ」
日衣はぴくりと肩を飛び上がらせ、大袈裟な戸惑いを見せた。
「よかったらまたライヴの話を持ってくるけど、もし演るとしたら次は花火の時期かな。どうせなら浴衣を着て出ようか」
浴衣着てドラムはさすがにきついだろ。顎に指を当てて楽しそうに思い巡らす茉莉さんに、日衣は焦った様子でぱくぱくと口を開けていた。それから──
「そっ、そのことだけどっ……!」
目を瞑って大きな声を張り上げた。
驚いたけれど、でもぼくは心のどこかでこのときをずっと待っていたような気がする。おそらく、茉莉さんも。
日衣がちゃんとぼくらに言いたいことがあるんだってこと。それをちゃんと話してくれるんだってこと。それを心待ちにしていた。
だからそれを聞くために、ぼくらは黙って日衣の次の言葉を待つ。
日衣はもう言い淀むことはしなかった。ぼくらの顔をちらちらと伺ったあと、膝の上でぎゅっと手を握って言った。
「Risingは、解散……しようと思う」
消え入りそうな声は、最初なにを言ったのか理解できなかった。
もしくは、頭では理解していても心がそれを理解したがらなかった。
だから訊き返そうとしたのだけれど、日衣の向こうの茉莉さんと目が合い思いとどまった。その目はまだ日衣の次の言葉を待っていたからだ。
だからぼくもちゃんと最後まで聞くことにする。
日衣は潤んだ瞳を伏せ、たどたどしく話し始めた。
「ずっと、考えてて……。こんなわたしでも、二人はずっと傍にいてくれて、わたしそれに甘えてて……逃げたくなって……」
泣きそうに表情を歪め、目を瞑った。
「でもそれじゃ駄目だって思って……。それでっ……」
「それが、ヨリの出した答えだね?」
こくりと頷いた。
「Risingは……茉莉と可純は……わたしの中ではもう、すごく大事なものになってしまってるの。こんなに大事なもの、わたしなんかが持ってていいのかって、どうせいつかみんな変わってしまうのにって、そう思ってたけど……そうじゃないってわかった。だから……」
目を開け、膝の上の握り拳を見つめてはっきりと告げた。
「前に進む」
茉莉さんがなにも言わず日衣を抱きしめた。驚いた日衣は一瞬突き放そうとしたけれど、けっきょくは茉莉さんの背中に手を回した。
「大丈夫だよ。解散したからといってなにもかもが終わるわけではない。ヨリが大事だと思い続けるかぎり、あたしたちはヨリの大事なものであり続けることを約束するよ」
静かな優しい声がその耳に届き、その目からは涙が零れた。
「どんなに時間が流れても、どんなに変わってしまっても、今よりも大人になってしまってもだ」
日衣はその言葉に頷き、縋るように茉莉さんの肩に頬をすり寄せてから離れた。
ぼくと茉莉さんの顔を交互に見て、そして涙をぼろぼろと零しながらふわりと微笑んだ。
──それは、ライヴで見せたときと同じ笑顔だった。
そうだ。こいつはそうして笑ってたほうがずっといい。Risingにとって、この笑顔はとても大事なものなんだから。この笑顔のためにRisingは存在していたのだから。
どんなに時間が流れても、どんなに変わってしまっても、今よりも大人になってしまっても……ぼくらは三人で見たこの夜空を一生忘れないと思う。
まだ所々が雨雲に覆われていてお世辞にも綺麗な空だとは言えないけれど……でも三人で一緒に見た初めての空だったから、今まで見てきたどんな空よりも一番綺麗だとぼくは感じた。
「もうすぐ、夜明けがくる……」
日衣のつぶやきを合図に、ブルーアワーを報せる遠くの空からかすかに鳥の鳴き声が聴こえてきた。