街灯 願ったり
5月15日
ぼくらのライヴは22時過ぎまで続き、元々の持ち時間を大幅にオーバーした。
あれから、アンコールの『Catch The Rainbow』でも茉莉さんと日衣は暴走し続け、起承転結なソロを何度もループし、いつまで経っても締めようとはしなかった。ぼくはもうほとんど弾いていなかった。……弾けるわけがない。悔しいけれど、二人の演奏でのいがみ合いにぼくが入れる隙なんてないのだ。
途中、それに感化されたかのように奏也さんがひょっこりとステージに上がってきた。止めてくれるんだと思いきや……その手にはギター。奏也さんに続いて酔っ払い対バンたちも乱入して来て、ステージ上は瞬く間に押し合いへし合いのディスコ状態となってしまった。
とにかくめちゃくちゃだった。日衣の正確に刻み続けるリズムに、みんなが好き勝手に音を乗せて並べていく。観客の勢いも最骨頂だった。
ドラムセットなんて日衣の叩いている一台しかないから、その日衣の上から下から割り込んで叩く輩がたくさんいた。
明らかに助けを求める目で見つめられていたけれど、ぼくは知らないふりをしておいた。だってどうしろっていうんだよ、ぼくだって自分の足場を確保するだけで精一杯だった。ベースを胸に抱えて足と腹をめちゃくちゃ踏ん張っていなければ押し出されてステージから転げ落ちてしまいそうだった。
むしろもうそれでもよかった。茉莉さんなんか観客のど真ん中で弾いてたし……。
いくらなんでも多すぎたアンコール奏者の数だったが、あとで奏也さんに聞いたところによると、ここのライヴハウスに入り浸っているバンドたちに、今日のライヴがトラブっている(ぼくらのことだ)と話が回って急遽駆けつけてきたらしい。助太刀にでも来たのだろう(その必要はなかったと言っておこう)。中にはオーディション落ちをしたために参加できなかったバンドもいたらしい。裏口にたむろしていた怪しい人たちがそれだった。
他にも、茉莉さんのソロライヴだと聞きつけて来た熱狂的なファンもいたみたいだった。……ますます茉莉さんの人脈がわからない。
*
ライヴハウスを出る頃には、もう日付が変わっていた。
日衣の熱は一層上がっていて、でもその顔の火照りはライヴの熱さの余韻もきっと混じっているんだろう。歩くのも精一杯なその背を押しながら外に出ると、涼しい夜風が肌にじんわりと触れた。まだ興奮している身体や頭にひやっこくて気持ちが良い。
続いて出てきた対バンの人たちが、お疲れ!とか、お前ら最高だったぜ!とか、しまいには、女の扱いがまだまだだな!とか言いながらぼくの肩を叩いていく。
会釈をする程度にとどめておいたが、またライヴをする機会があれば対面する羽目になるのだろう。ただでさえ異様なライヴで注目を集めたぼくらだったから、もしかしたら顔を覚えられてしまっているかもしれない。……もしそうだとしたら最悪だ、こんなパツキンリーゼントに街で出くわして話しかけられでもしたら漏らす自信がある。どうか出くわしませんようにとロックの神様に祈っておかなければ……。
最後に出てきた茉莉さんが、んーっと気持ち良さそうに伸びをし、辺りにほんのりと香るペトリコールの匂いを吸った。
「最高に幸せだったよ」
やりきったような澄んだ表情で空を見上げた。そこには、去っていく雨雲に月がちらちらと見え隠れしていた。
「もうこのまま死んでもいいくらいだ」
「そういうこと言うのやめてください」
茉莉さんは髪を翻してぼくを嘲笑した。
「冗談に決まっている。幸せを得たから死ぬだなんて勿体無いね、死ぬのはその幸せを誰かに託してからだ」
そして、その嘲笑を周りのバンドマンたちにも向けた。
「みんなもやればできるじゃないか。最初からあんな演奏をすればいいものを」
「それ喧嘩売ってんのか!?」「あとに控えるお前らのために手抜いたんだよおれは!」「てめえ手抜いてたのかよ!?」
みんなが口々に喚き出し、笑いに包まれた。
これも茉莉さんの魔法なんだろう。この人と一緒に時を過ごすだけで自然と笑顔になる。楽しかった記憶になる。そういう魔法。
「おい」
ざわざわと盛り上がる中、静かに声をかけてきたのは奏也さんだった。目が合う前に咄嗟に頭を下げる。
「す、すみません!だいぶ迷惑をおかけしてしまって!」
この人と顔を合わせる度に、謝らなければと脳が誤作動をする。でもそんなぼくの謝罪を奏也さんはスルーした。
「俺が話してえのはお前じゃねえよ。あんただ」
「え?」
顔を上げると、奏也さんの目は隣の日衣に向いていた。日衣がかすかに眉を寄せて強張った。
「どんな神経してんだあんた。手は動くのか」
「……え」
手?なんのことだ?
日衣は自分の左手首をさすりながら小さく頷いていた。奏也さんはその様子をじっと見たあとで舌打ちをした。
「俺がメンバーだったら確実に止めてたぞ。あいつもなに考えてんだか……」
そう言って向こうで笑っている茉莉さんを見やった。日衣は、茉莉のせいじゃないと小さい声で訴えたけれど、奏也さんの耳には届いていないみたいだった。
「あの、もしかして二曲続けてやったことですか?」
端的に訊くと、奏也さんの鋭い目がぎろりと向いてきたので思わず頭を抱える。
「……なにやってんだ」
「い、いえ、咄嗟の防御と言いますか」
「お前、知ってたんならどうして止めなかった」
「え……?ああ、いやその、どうしようもなかったっていうか……」
ぼくがあやむやに言葉を濁すと、奏也さんは見る見るうちに呆れ顔になり、それを隠すように額を押さえた。
「メンバーの体調管理が最優先だろ。やりてえことはその次だ。無理してぶっ壊れたら元も子もねえぞ、頭大丈夫かお前ら」
「……大丈夫じゃないです、たぶん」
それを言われたのは今日二回目だったので、正直に答えておく。周りから見てぼくの頭は相当大丈夫ではないらしい。けれど今はぼく単体を指して言われたわけではないから、少しだけ安心しておこう。
隣で、触った手首を胸の前でもじもじとさせていた日衣がようやく口を開いた。
「ど、どうしてもやりたかったから……。やらなかったらきっと後悔してた」
……そう、たぶんこれが一番大事だ。本人がやりたいこと。それでもし手が痛くなったり動かなくなったりそういう結果が残ったとしても、やりたいことをやりきれたあとならば後悔はしない。
奏也さんみたいにプロに半身浸かってるような業界人はそうはいかないだろうけれど、ぼくらはつい数時間前まで解散の危機に瀕していた、まるで虹みたいなバンドなんだから。やっぱり想いを大事にしたい。
そんなぼくらの意図を察したのか、聞かせるため息をつく奏也さん。茉莉さんに続いて日衣にまでも納得させられてしまっていた。意外と押しに弱い人なのかもしれない。
なんだか最初に思っていたようなイメージとは全然かけ離れていて個性的な人だ。……こりゃ茉莉さんとよくお似合いだよ。にたにた浮いてくる口元をなんとか堪える。
「異常を感じたら知らせろ。知り合いの医者を紹介してやる」
「あ、ありがとうございます!」
また咄嗟に頭を下げ、日衣よりも先に礼を言っていた。自覚はないけれど、たぶん心のどこかで日衣の好きにやらせて負担をかけさせたことに罪悪感を抱いているのかもしれない。やりたいことをやらせるほうが大事だって思ったばかりなのに、本当に責任の欠片もないなぼくの心は……。
「可純のせいじゃない」
そんなくだらない思考がぶった切られた。
「……たぶん、止められてもやってた。腕が動かなくなっても、頭を打ち付けたり歯でスティック持ったりしてでもドラム鳴らしてた。そうしなきゃいけなかったし、そうしたかった。だから可純も茉莉もなにも悪くない」
はっきりとそう言った日衣の真っ直ぐな瞳に見つめられた。
「日衣は満足してる?」
「満足してない顔に見える?」
少しだけ眉を寄せていたけれど、茉莉さんと同じく澄んだ表情をしていた。
……それが全てを語っていた。いつもむすっとしている代表の日衣がこんな表情をしているのをぼくは初めて見た。初めてなはずなのに、なぜかこんな表情が当たり前な気がするんだ。日衣はいつもこんな表情をしている子だって……そんな気がする。だからなにも気にすることなく首を横に振っておく。
「その顔気持ち悪いからやめて」
「ええ?」
またぶった切られた。表情はすっかりいつも通りのむっとした顔に戻っていた。……ああやっぱこっちのほうが当たり前だし日衣らしいのかもしれない。乾いた笑いが口から零れる。
「どんな顔してた?」
「鼻から脳みそ出てるみたいに脱力した顔」
「だらしねえな。鼻かんでおけ」
「奏也さんまで言わないでください!ていうかかんだら脳みそ出ていっちゃうんだけどいいの?」
「それでいい。かんだ物はごみ箱に捨てないでちゃんと本体と一緒に葬っておくから安心して」
「それわざわざ別離する意味ある……?」
「なに誤ってカタツムリでも食べてしまったような顔をしているんだい?」
……ああ、厄介者が増えた。にやにやしながら近づいてくる茉莉さん。
「ちなみにカタツムリは食べても体に害はないから安心するといい。ああでも寄生虫が伝染るといけないから、数日絶食をさせてあげてから食べるんだよ?」
「食べてないですしそもそも食べたくもないですから余計な知識吹き込んでこないでください」
茉莉さんは愉快げに笑った。日衣も釣られて微笑んだ……気がした。
「これから近くの居酒屋を貸し切って打ち上げなのだけど、ヨリもスミももちろん来るよね?主役無しでは盛り上がらないからね」
もう既に出来上がっているのにこれから更に暴れるらしい。大人は元気だこと。子供はさっさと帰っておねんねだ。
「行きません」
「わ、わたしも、お酒は呑んだことないからっ」
「大丈夫。酔わない酒も、未成年が呑んでもいい酒もある。ヨリにぴったりなのを見つけてあげよう」
「でたらめ言って誘うのやめてください!」
日衣の肩に腕を回して無理矢理打ち上げチームに入れようとする茉莉さんを全力で止める。そんな格闘がしばらく続いたが、最終的には日衣の体調を見かねて観念してくれた。
「どうだった?ライヴ」
なんとなしに訊いてみる。
明るい歩道を日衣のペースに合わせて並んで歩く。忙しなくすれ違って行くたくさんの乗用車。その音に紛れながらも、はっきりと聞こえた。
「……楽しかった」
真顔のままだけれど、素直にそう言ってくれたことにその場に崩れ落ちそうなほどほっとした。そうだよなあ、ある意味茉莉さんよりも暴走してたもんなあ。
「あなたはどう思う?」
「え?なにが?」
「前に進むこと」
率直ですね。
「いいことだと思うよ。前に進めるって状況にあるんだから頑張ってる証拠だし」
「そう。でも前に進めない状況にあっても、頑張ってる人はいる」
「いやまあ、それはそうだけど……ごめん」
本人を前にしてひどいことを言ってしまった。申し訳ない。
でもこれが当たり前に生きてる人の感性なのかもしれない。
「たぶん客観的に見たら、前に進んでる人だけが頑張ってるようにしか見えないんだよ。世の中結果が全てだから」
「そう……うん。きっとそう」
寂しそうな表情で相槌をうつ日衣。
「良い結果も悪い結果も、最終的にはそれだけが手元に残って、その結果に至るまでの苦悩だったり努力だったり……そんな過程は誰も知ったこっちゃないんだ」
「そういう人、みんな死んじゃえばいいのに」
「いや言い過ぎ。ごめん」
そう言いたいのもわかるけれど。少なくともこいつは、頑張ってきたこの二年間の苦悩を誰からも認められたことがないんだろう。“空白の二年間”という結果しか残らなかった。こんなに頑張ったんだって、そう訴える気力も今ではもう失せてしまっていることだろう。
でもほんのちょっぴりだけれどそれに気づけたぼくは当たり前の世界から少し脱線したんだろうか?彼女と心を通わせられたんだろうか?
「でもわたしは、前に進むってことは死ぬってことだと思う」
「死ぬ……?」
「前に進めない人にとっては、前に進んで行く人たちがやけに多く感じるの。世間で一人ぼっちだったのが、気づいたらこの世に一人ぼっち」
日衣は眩しくもない暗い空を目を細めて見上げた。
「リッチーもそう。ロニーとコージーはもうこの世にいなくなってしまって、一人取り残されてる。あんなに好き勝手振り回してきたのに、けっきょくは置いていかれるの」
どうしようもなく物理的なこと。自然の摂理。
それは、自分に例えてるんだろうか?置いていったりなんてしないって断言はできない。だからこそ言いたいことは今のうちに言って、聴きたいことは今のうちに聴いておくべきだってそう……この数日間のうちに学んだ。ぼくも、日衣も。
「二人は虹になったのかな」
日衣はゆっくり首を振った。
「ロニーとコージーは虹になったんじゃない。三人で『Rising』を出したときも、虹になりきれてなんかなかったの」
「翔けてたんじゃないの?」
「虹を翔けることはできたけど、虹そのものになることはできなかった」
そして、日衣は続けた。
「リッチーとロニーとコージーの三人がまた再結成したとき。そのときが本当に虹になる瞬間」
全世界が三人の再結成を待ち望んでいたのかもしれない。でもそれは永遠に叶わぬ夢となった。これからも。──いつか遠くの未来、どこか別の世界で、その本当の虹を見られるんだろうか。また三頭政治の時代がやってくるんだろうか。そんなことをどうしても期待してしまう。この目で見て、この耳で聴きたい。でも……。
「本当に虹になったとして、その先にはなにがあるんだろう?」
「きっと悲しいことしかない」
「そう、かな」
悲しいのか。それは、夢が達成されたから?それとも、自分たちが虹になってしまったことでずっと憧れていた虹をもう見ることができなくなったから?
わからない。不思議なものだ。夢ってのはけっきょく、掴んだ瞬間にパッと消えてしまう脆く儚いものなんだ。儚くない夢なんて存在しない。
それなのに人は夢を追い続けることを止めない。たぶんそれは、夢を掴んだときよりも、夢を追ってるときのほうが楽しくて大事だからなのかもしれない。
「……でもね」
日衣は、そっと口を開いた。
「悲しいって思うのは、ずっと昔に楽しかったことを知ってるからなの。だから……きっと大丈夫」
「そっか。それが……」
日衣の出した答え、で合ってるのかな?日衣は頬を赤らめて、歩くつま先を見ていた。
楽しいこともいつかは必ず変わってしまう。今が悲しくて逃げ出したくなったのは、ずっと昔にその楽しさがあったのを知ってる証拠。それを忘れなければ、どんなに変わっていってしまうとしても、また楽しいと思える日が来る。ぼくもそう願う。
「ねえ」
日衣が立ち止まり、クルッとぼくに向き直った。
「ん?」
「茉莉呼んで」
「え……?今?」
こくこくと頷くと──
「早く」
「わっ、ちょっ」
ぼくのズボンのポケットから携帯電話を抜き取ろうとしてきた。
「だって、打ち上げ中だし、もうきっとでろんでろんに酔っ払って……」
「誰がでろんでろんだって?」
背後から突然凛とした声が響いてきて、思わず自分の足に足を引っ掛けて転びそうになった。
「茉莉さん!?」
その声の主は、全然でろんでろんじゃない様子で仁王立ちしていた。
「あたしはこれでも酒には強いほうだよ」
「いっ、いつからいたのっ……」
なぜか日衣は、ぱたぱたと手を宙で泳がせて慌てていた。その様子を見て茉莉さんは優しく微笑んだ。
「大丈夫。ヨリがあたしの名前を出したところからだよ」
そう言って、真っ赤になっている日衣の頭を撫でる。
「打ち上げはいいんですか?」
「うん、ライヴの打ち上げは十分楽しんだ。あんな酔っ払い共と朝まで付き合ってたら、さすがのあたしでも堪えるよ。あたしが本当にやりたいのは、Risingのライヴの打ち上げだ」