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廊下 伝えたり

 


 5月12日


「……辞める?」

 唐突な発言に頭の中が真っ白になった。

 そのまんまなのに、何度も何度も頭の中で反芻してもその意味がしばらく理解できなかった。

「辞めるって、どういう……」

 縋るように手を伸ばそうとした途端、日衣ひよりは踵を返して教室を出て行った。ひるがえる後ろ髪を見て急に頭が冷める。

「ちょっ……!ちょっと待って!」

 廊下で追いつきその細い腕を捕まえる。振り払おうともがいてきたが、逃げられないように手に力を入れて怒鳴りつけてやる。

「辞めるってなんだよ!今日まで三人で頑張ってきただろ?それなのに」

「あなたにはなにもわからない!」

 日衣も大きい声を出した。その鋭い目には涙がじんわりと溜まっている。

「わからないって、そりゃなにも話してくれなきゃわかるものもわからないだろ」

「離して!」

 腕を思い切り振り下ろしてぼくの手を落とすと、その捕まれていた手首のあたりを胸の前で握った。伏せた前髪の下でどんな表情をしているのか、それを知るのは恐いと思った。

 すれ違って行く生徒が、何事かとぼくらを見向いていく。

「こんな、大事なライヴの前で……明後日だぞ?ドラムスはどうするんだよ。それにお前リーダーなんだから」

 もう少し責任持てよ……。そう思ったけれど、日衣は頑なだった。

「リーダーはあなたがやればいいしドラムスはサポーターでも新しいメンバーでも募ればいい。わたしより上手い人なんてそこらへんにごろごろいる。……あなたなら余裕で見つけられるでしょ」

 体がカチンと凍りつき、代わりに頭の奥で火が点いたのがわかった。

「……なにが気に食わないんだよ」

 自分でも驚くほどに低い声が出た。日衣の肩がびくりと跳ねた。

「言ってくれなきゃわからないだろ。ぼくだけじゃなく茉莉まつりさんだってそうだ」

 日衣は下唇を噛んだ。涙が流れるのを堪えているのか、本心を隠しているのか、なにかに怯えているのか、その体はかすかに震えている。

「……わたしだってわからない。わからないものを言えるわけがない」

「なんだよっ、それ……」

 ぼくの吐き捨てたつぶやきが宙に漂う。

 紅潮した顔が向けられ一瞬だけ目が合うと、またすぐに背けられた。そして──

「忘れて、わたしがいたこと。……全部、忘れて……」

 目も顔も合わせずにそう言い放つと、ぱたぱたと危うい足取りで駆けて行った。

 追いかけもせず、その姿が廊下を曲がっていくのを黙って見届けてしまっていた。消え入りそうな“忘れて”が頭にこびりついて仕方が無かった。


 *


「このまま戻ってこないなら辞退するしかないね。リーダーがいないんじゃあたしたちはなにもできないよ。ライヴだけじゃなく、これからの活動もね」

 まるで昨夜家が全焼したかのような、それとも多額の振り込み詐欺にでもあったかのような、そんな不格好な鬱々しい様で茉莉さんの話を聞いていた。

 あのあと茉莉さんからのしつこい着信に五回目で出て、学校近くのファミレスに呼び出された。ぼくがなにも言わずとも茉莉さんは全てわかっていたらしく、いつもの冷静な口調で淡々と告げられた。

 ──それはおそらく、解散を意味しているのだろう。

 だらりと腕を投げ出したテーブルの感触がやけに冷たい。

「あたしたちは三人でRisingだ。頭と手と心臓はきみと二人で分担できるとしても、肝心の足がない。たとえあたしらに手足が四本あったとしてもヨリの居た溝は補えないだろう。足がなければ、あたしたちは前へ進めないからね」

 日衣の……Risingの、足。

 茉莉さんは窓の外に遠い目を向けてずっと微笑んでいた。まるでこうなることを予言していたかのような、心の準備をしていたかのような、やっぱりかと言ったような……そんな表情で。

 この人はどこまで知っているんだろうか……。

 なんだか見ていられなくなって、烏龍茶に浮いている氷に目を移す。

 ついこないだまであんなに楽しかったのに、幸せな時間は音も立てずにあっという間に溶けていく。日衣がいなくなったことで、このままRisingの心臓も溶けてしまいそうだ。そうしたら茉莉さんは別のバンドへ移るだろう。

 ……でも、ぼくはどうだ。やることもなくぶらぶらと過ごし、時期が来たら惰性のように社会の渦に融合して行く。……なんて情けない。なにか一つでも大事なものがなければ、ぼくはきっとぼくとして成り立たない。

 グラスの隣に、スッとなにかが置かれた。

 茉莉さんの綺麗に手入れされた指先、その下には白い封筒。見たところなにも書かれてはいない。

「なに、これ」

 自然と背筋が伸びる。

「開けてみて」

 おそるおそる手に取って慎重に開く。

 中には紙が数枚……いや、元々一枚だったものが数枚入っていた。手のひらに出すときに何枚かがひらひらとテーブルと膝の上にこぼれ落ちる。それらを見て、ぼくの思考はぴたりと止まった。

 ──途切れた言葉。繋がらない線。霞む想い。

「彼女が書いた詩だ。どうしても明後日のライブで歌いたくてね、曲をつける許可も貰った。でも昨日急に取り上げられてしまって……そうしたらこの有り様だ」

 茉莉さんの目の前でやったのか……?

 ……なんだこれは。なんなんだよ、なにがしたいんだよあいつは。愕然とし、体が張り詰め、目の前が真っ暗になる。

 もしもそうだとしたら、それはぼくらへの当てつけなんだろうか?

 その報復を目の当たりにした茉莉さんはどんな反応をしたんだろう。日衣の心が日衣の手で破られる光景を、この人はそんな悲しそうな表情で黙って見ていたんだろうか。そんなことしてなんになるんだよ、バカみたいにすれ違ってるだけじゃないか……。

 手の中の欠片を封筒に戻す。萎えた手が思うように動かず、また何枚かが膝の上に散る。

 これをもう一度一枚にする勇気はぼくにはない。おそらく茉莉さんにも……。できるのは、世界中で日衣ただ一人だけだ。日衣が紡いだものだから日衣じゃないと元には戻せない。当たり前のことなのに、その当たり前がやけに遠く感じる。

 茉莉さんは、ズズッとレモンティーを最後まで飲み干すと一息ついた。ストローと氷が乾いた音を鳴らす。そのグラスの隣で手を組んだ。

「あたしはひととおり目を通してしまっていたから、なんていうか、彼女の心が少しわかってるつもりだ。どうしてあんな詩にしたのかも、どうして消えたのかも……ね。でもどうしようもできないんだ。待ってることしかできない」

「なんて……」

 書いてたの?

 なんて、それは訊けない。それこそ本人から訊くべきことだ。でもこれだけは訊きたい。

「待ってるだけで、いいんですか?」

 茉莉さんは目を細め、淋しげに微笑んだ。

「彼女が決めることだからね。仮に、もうあたしらのことがどうでもよくなったのなら、きっとリーダー命令でさっさと解散させているはずだ。でもそうしないのは、なにも言わないで消えたのは……たぶん、本当は元に戻りたいと思っている。いや、期待している」

「……どうして茉莉さんはそこまでわかるんですか」

 少しだけ嫉妬した。この人はすごく頭がいいから、ぼくなんかが敵わないのも無理はないけれど。

 でも茉莉さんは苦い笑みを浮かべて首を振った。

「わからないよ、わかるわけがない。全部推測だ。スミがそう思うならそうだね……。女の勘とでも言っておこうか」

 顎に指を当てると、ふふっと笑った。

 そうか、女の勘か。それならわかるわけがないや。こういうとき男の勘は残念ながら働いてはくれないものだ。

 ……なんて役立たずなんだろう。

 結成してからまだ一ヶ月。そのたった短い間にも日衣は何度もぼくらの前から消えた。それは一時的な感情のすれ違いで、単なる家出みたいなものだった。練習に来なかったり、一言も口を聞かなかったり。それこそ少し遅い子供の反抗期みたいなものだ。何度もあの手を引っ張っては、茉莉さんの元へ連れ戻ってきた。

 ──でも今は違う。もう家出なんて生温いものじゃない。無理矢理に連れ戻しても、それは誰のためにもならないしまた繰り返すに決まっている。

 ……Risingの、正念場だ。

「ぼくはどうしたら……」いいのだろう。

 日衣の望みはなんだったっけ。どうしてRisingを作ったんだっけ。そういえばなにも知らない。なにも知らないで、よくここまで続いたものだ。誰か褒めてくれよ。

「スミ」

 ふいに呼ばれて顔を上げると、茉莉さんの大きな瞳には動揺しているぼくが映っていた。

「スミは、言いたいことをちゃんと言ったのかい?」

「言いたい……こと?」

「うん。辞めると言い、リーダーはきみがやればいいと言い、ドラムスは別の人にさせればいいと言った。そのヨリの存在意義のどれかに、きみはちゃんと答えを言ってあげたのかい?」

 ……いや、言っていない。なに一つ。日衣の想いに不満を言っただけで、否定はなに一つしていない。存在意義に不満を言ったくせに否定はしない。そりゃ怒って当然だ。ただの最低な野郎じゃないか。

 ──言ってくれなきゃわからないだろ。

 それはぼくではなく日衣が言いたかった言葉だ。そうだとしたら……。

「言うべきだよ」

 こくりと唾を飲み込む。……そうだ。言わなきゃなにも伝わらないし、訊かなきゃなにもわからない。

 いつの間にか烏龍茶の中の氷は溶けきっていた。でも──ぼくは自分の胸に手を当てた。そう、Risingの心臓はまだ溶けてはいない。

「あたしは今までみたいに待ってるよ、どんな状況であれね。でもきみは違う。彼女を連れ戻せるのはきみしかいないし、彼女だってきみ以外には連れ戻されたくないだろう。そう思うけど、違うかい?」

 茉莉さんが笑顔で訊いてきた。

 ──待つ人と、帰りたい人と……それを繋ぐ人。

「たぶん、違わないです」

 繋ぐのは、ぼくだ。

「なら早く連れ戻してくるといい。あたしは“おかえり”を言うのがすごく好きなんだ」

 べつにあいつは、“いってきます”を言ったわけではないんだが……まあいいか。代わりに“ただいま”を言わせればいいだけだ。


 *


癒埜ゆの!」

 一度学校に戻り、まだ教室で女友達数人と談笑をしていた知り合いの名を呼ぶ。

 その顔が振り向きぼくの姿を捉えると、一気に驚いた表情へと変わった。友達に断るとわたわたとこちらへ駆け寄ってくる。

可純かすみさんっ?どうしたんですか?」

 心配そうに手を宙で泳がせ、ぼくの顔を覗き込んできた。

 すぐに状況を説明しなければと思った。でも走ってきたせいか、声が喉の奥で潰れて音にならなかった。ヒュッと乾いた空気の音だけが開いた口から出てくる。……なにをやってるんだぼくは。

 膝に手をつき息を整えていると、癒埜は「ひーちゃんのことですか?」と真剣な表情で訊いてきた。さすが察しがいい。いや、僕がわかりやすいだけなのか。



 中庭に場所を移し、花壇の隣のベンチに並んで腰を下ろす。

 花壇には色とりどりのポピーが咲き誇っていて、優しい風と共に心地良さそうに揺れていた。

 癒埜と日衣は中学校の頃から親しかったと聞いていたから、日衣についてなにか訊くにはまず癒埜に訊くのが賢明だとぼくは考えた。もしかしたら、ぼくらの元から逃げ出した理由も知っているかもしれない。

 ひととおり話すと、癒埜は淋しそうに俯いた。

「ごめんなさい、そんなことになってたなんて……」

「いやべつに癒埜が謝ることでもないから、大丈夫」

「それでも、ちゃんと気に止めておくべきでした」

 余程日衣のことを大事に思ってるんだろうな……。

 それから癒埜は指を組んで、祈るような姿勢をして言った。

「きっとひーちゃんは自分からは戻らないと思います。人一倍頑固で意地っ張りだから」

 それは身を持って知っている。素直に謝って戻ってくるようなタイプではない。

「可純さん、ひーちゃんの時間が二年前で止まってることは知ってますか?」

「……え?」止まってる……?

 癒埜は目を伏せたまま続けた。

「ひーちゃん、元々あまり丈夫じゃないんです。すぐ熱出しちゃって……。お医者様が言うには心因によるものだそうですけど」

「心因?」

「辛いことや悲しいこと、そういう悩み事は体に大きな負担がかかりやすいんだそうで……。だからすぐにわかるんです。具合が悪そうなときは、きっとなにか思い悩んでるんだろうなって」

 そういえばさっきも顔が真っ赤だった。あれは怒ってるせいだと思っていたが、もしも熱があったのだとすれば……。

 日衣の今までのそれっぽい行動や姿が鮮明に思い出された。──どうして気づかなかったんだ。どうして誰も気づいてやらなかったんだ。あんなにヒントがあったというのに、どうして誰も日衣のことを考えてやらなかったんだ。

「もしかして……その心因を作ってるのがぼくらなのか……」

「ちっ、違います違います!むしろひーちゃんがバンドを始めてからはずっとよくなってて、毎日楽しそうでっ」

 癒埜は手を大袈裟にぶんぶん振って否定をした。

 楽しそう?癒埜が言うなら間違いないのかもしれない。だったら、じゃあどうして逃げたんだよ?楽しいだけじゃ駄目なのかよ?膝の上で握った拳が震えた。

 癒埜はそっと付け加えた。

「ただ、ひーちゃんはいろいろ考え込む癖もありますし、いろんな逃げ場となっていたバンドからも逃げたとなると、相当心にも体にも限界がきてるんだと思います」

 今までがそうじゃなくても、今はぼくたちが確実に日衣の心因となっている。……それはいつからだったのだろう?なにか日衣のかんに障るものがぼくらにあったんだろうか?自覚がないどころか、ちっとも目星のつかない自分に腹が立つ。

 癒埜は立ち上がると、律儀にぼくの前に立った。

「これはバンドの……Risingさんの問題ですから、私は干渉できません。可純さんにお願いします、ひーちゃんのこと」

 そう言って深々と頭を下げた。髪の毛が肩の上でふわりとそよぐ。

 ……なんだか無性にいらいらしてきた。どうしてどいつもこいつもみんなぼく任せなんだよ、ぼくになにができるっていうんだ。ぼくがRisingにいるから逃げた可能性だって考えられるのに。

 過去に戻ってぼくがRisingに入らない未来を作ればいいのか?そうすれば日衣と茉莉さんと他の誰かとで今は仲良くバンドやってんのか?時間は巻き戻せないんだぞふざけるな。時間はもう──

 時間……?

 ハッとさっき聞いた言葉を思い出した。目の前の頭を凝視する。

「その……日衣の時間が二年前で止まってるってのはなに?」

 癒埜は顔を上げると明らかに狼狽えた。

「え、ええと……それは……」

 しばらく手を右往左往させたあとで、申し訳なさそうに目を伏せた。

「ごめんなさい。本人から聞いたほうが……いいと思います。大事なことですから……」

 言葉を詰まらせ、癒埜は手をぎゅっと握って俯いた。

 本人の口から聞く。それはどんなに難易度が高い壁なのだろう。ましてやあの日衣だから尚更だ。

 でもここでぼくが立ち止まるわけにはいかない。癒埜の想いの分までしっかりしなければいけない。

 ……迎えに行こう。あの意地っ張りなうちの迷子リーダーを。

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