真紅の炎と漆黒の水
真紅の髪の女が、その髪と同じ色の瞳で、俺をまっすぐに見つめている。俺も、漆黒の瞳で彼女を見ていた。ゆっくり、ゆっくりと、歩み寄って行く。
許されない、想いのはずなのに。
俺が彼女に出会ったのは、ちょうど一週間前のことだ。いつものように、城をこっそりと抜け出し、この国で最も大きく、また美しいとされている湖へと、ぼんやりと足を運ぶ。
いつもと違っていたのは、そこに彼女がいたことだ。俺の秘かな安らぎの場に、これまで見たことない、真っ赤な女の後ろ姿があった。彼女は俺の気配に気づいたのか、こちらへと振り返る。…あまりの美しさに、声を失った。
「…お前は?」
女が静かに問う。俺ははっとして、ようやく言葉を発した。
「…お前こそ、誰だ…」
「我が名はヴェルミス。炎神・”朱雀”なり」
女はそう言って微笑む。俺は眉をひそめた。…”朱雀”だと…?
”朱雀”といえば、我が国の対極にある、南の国の主ではないか。炎に護られしその国の者は、皆赤い髪と瞳をもち、火に触れても平気と聞く。
俺は、この国の者を目にしたことがなかった。…炎の民である彼らは、水の民である我らを怖れ、忌み嫌っていたから。
「”朱雀”だと…?なぜ、南の国の主がこんなところにいる」
「従者たちを引き連れ、東の国の主…雷神・”青龍”に会いに行っていたのだがな。帰る途中、こっそり抜け出してきたのだ。…どうしても一度、北の国を訪れてみたくてな」
「なぜだ…?お前たちにとって、水は猛毒ではないのか?」
何が何やら、訳が分からずにいる俺に対して、彼女はおかしそうに笑った。
「私達も人間だ!多少の水はないと生きていけぬ。…それとも、お前は蛇のように毒でも持っておるのか?水神・”玄武”よ」
「?!…なぜ、それが…」
「さっきから『なぜ』ばかりだな。お前の思考は亀の歩みのようにのろいのか?…その装束に胸の玄武の紋章。幼子でも一瞬で分かるであろう」
「…ああ、そうか…」
言われてみればその通り、簡単なことなのだが、この紅の美女を前に、俺はまともにものを考えられずにいたのだ。「亀の歩みのよう」とは上手く表現したものだ。
「…それで…”朱雀”よ。なぜお前は、我が国を訪れたいと思ったのだ…?」
「そうだな…。…我が国の者は、皆北の国を敵とみなしている。お前の言ったように、『猛毒の民の地』とか言ってな。だが、私はそうは思えぬのだ。さっきも言ったように、私達も水がないと生きてはいけぬ。そのような水を司る民が、本当はどのようなものなのか…確かめて、みたかったのだ」
「…そう、か…」
真剣に語る炎神の言葉が、俺はとても嬉しかった。東西の国には訪れたことがあり、それなりに交流もあったが、南の国は禁断の世界と言ってもよいほどだった。…こちらから何かした覚えもないのに疎まれ続けているのは、正直、辛かった。
「…しかし、よいのか…?連れの者達は、お前を必死に探しているのでは…」
すると、彼女はまた笑う。悪戯っ子のような、無邪気な笑顔だった。
「私は”朱雀”だ!いつも城をこっそり抜け出しては、国を鳥のように、自由に翔け回っている。もう皆も慣れているだろう」
「そう、か…」
「『なぜ』の次は『そうか』か。…まあ、よいがな。それに、呆れたような表情をしておるが、お前も大して変わらぬであろう?」
「え…」
「水神がこのような国境近くに一人でいるなど、おかしいではないか。お前も、こっそり出てきたのだろう?」
「…ああ…まあ、そうだが…」
「やはり、自分の国は自分で見たいよのう!城の中にいるばかりではつまらぬ。主たる者、国をきちんと知らねばな。ここへ来たのだってそうだ。真実は、この目で確かめなければ分からぬ、な?」
同意を求めるかのように、彼女がこちらに首をかしげる。しかし俺は、つい顔を背けてしまった。
「…俺には、そんな強い意志なんてない…。俺はただ、ここに逃げてきているだけだ。確かに俺は水神としての生を受け、誰よりも厚い水の加護を受けている。…だけど、俺はそんな器の人間じゃない。俺には、主なんか無理だ…」
「…そうか」
…ああ、この身も心も美しい女は、俺を軽蔑しただろう。彼女の言葉を聞いて、俺はさらに表情を暗くしたが、彼女は少し間を置いて再び話し始めた。
「…確かに、お前がここへ逃げてきたのは事実かもしれぬ。だが、お前はそんな自らを恥じ、変わりたいと思っているのだろう?私はたった今お前に出会ったばかりだが、お前のことを、いきなり現れた異国の女の話に真剣に耳を傾けてくれる、優しい男だと感じたぞ。水の民に対して我が国の者達が語っていたような残忍さなど、少しも感じられぬ。…お前はきっと、よい主になる」
「…”朱雀”…」
不意に、彼女の真紅の髪に触れようと、右手を伸ばす。しかし、彼女は一歩後ずさった。はっとして俺は手を止める。…恐らく、本能的なものだったのだろう。
「…すまぬ、”玄武”…」
「…いや、俺こそすまなかった…。…お前、いつ南の国へ帰るのだ…?」
ついそんなことを聞いてしまう。すると、彼女は遠慮がちに答えた。
「…もうしばらく、ここにいたい…。国も、大丈夫であろう…」
「…そう、か…」
そうして、彼女は湖沿いにある小さな無人の小屋で暮らすようになった。俺は毎日食料を持って城を抜け出し、彼女に会いに来た。
俺達が惹かれあうのに、時間はかからなかった。いや、そもそも出会った瞬間から、お互いに惹かれあっていたのかもしれない。
俺達が、初めて出会った場所。そこで俺達は、向かい合ってお互いに一歩ずつ近づいていっている。
これまでにも、何度も触れ合おうとした。しかし、伸ばした手と手が重なる寸前に、引っ込めてしまっていた。…だけどもう、ためらわない。許されない、想いのはずなのに。
異なるものに守護されている者同士が交わることは禁じられている。しかも、俺達は炎と水。相反する関係だ。
それに、お互い一国の主。彼女の言葉で、いい主になろうと決意したはずなのに、掟を破ろうとしているだなんて…。
…だが、俺は思うのだ。国は違えど、俺達は同じ人間。愛し合って何が悪い?…それに…誰かを愛せること、それが国民を愛せることにも繋がるんじゃないか、って。民を、国を愛することで、よりよくしていけるんじゃないか、って…。
「…私は炎だ。お前を焼き尽くしてしまうかもしれない…」
「大丈夫だ。…それよりも、俺だって水だ。お前の命の灯を、消してしまうかもしれないぞ…?」
「…心配は、無用だ」
「……ヴェルミス…」
「……ブレイトル」
何が起こるか分からない。それでも俺は、お前に触れたい。
真紅の炎と漆黒の水が、今、溶け合った。