新たな挑戦
美しく装飾の施された金属の扉を前に、リーンは決意を込めてぐっと手を握りしめた。
今日から自分はこの館で働く、最初が肝心だと言い聞かせながら。
由緒正しきレッドフォード男爵家。それがリーンの新しい職場だった。
アントニオからメイドの仕事を聞き、リーンは英語の特訓を始めた。
イタリアにいる間は基礎知識を、イギリスに来てからアントニオの親戚の家に居候をして、現地の英語を肌で勉強しつつ、さらに敬語や上品な言葉遣いについてみっちり勉強した。
それでもまだ不安は大きい。
自分の育ちが良いとは決して言えないし、貴族のお屋敷で働くのにふさわしいと思えなかった。
裏口から入って用件を告げると、従業員用の一室に案内され、銀縁眼鏡の初老の紳士がやってきた。
「リーンですね。私はレイモンド・エヴァンス。当家の執事を勤めています。当家の従業員のとりまとめをしています。わからない事があったら聞くように」
「は、はい。ありがとうございます。ミスター」
緊張と慣れない英語に冷や汗をかきつつ、懸命に返事をする。
時々難しい言い回しがあって聞き取れないが、何とか意思疎通は可能な範囲だ。
「貴方の仕事は掃除や洗濯がメインです。詳しくはメイド長に説明させますので、ついてきてください。」
「はい」
「それと決められた所以外は立ち入らないように」
「はい」
レイモンドの表情は冷静沈着でありつつ、どこかリーンを探る用な目をしていた。
品定めをされているようで、余計な事が何も言えない。
レイモンドの後をついて廊下を歩いていると、向こうから身なりの良い中年の男性が歩いてきた。
「レイモンド。ここにいたのか。探していたのだ」
「旦那様。御用があればお呼び頂ければ、いつでも参りますのに」
「いやいや、散歩がてらにちょうどいい。……ところでそちらの可愛らしいレディは誰かね?」
旦那様……そう呼ばれるのは、この方がこの館の主である事の証だ。リーンの身が引き締まり、レイモンドの時以上に緊張する。
「今日から入りました新しいメイドです。リーン、旦那様にご挨拶しなさい」
私はこの時の為に一生懸命練習した、丁寧な礼と挨拶の言葉を口にした。
「初めまして。お目にかかれて光栄です。旦那様。リーンと申します」
緊張に少しだけ声が震えてしまったが、ミスは無かったと思う。恐る恐る顔を上げると旦那様は穏やかな笑みを浮かべていた。
「確かイタリアから来たんだったね。英語はまだ慣れないだろう。無理せず少しづつ慣れれば良い。頑張りなさい」
そう言いながら旦那様は優しくリーンの頭を撫でた。その優しくて温かな手に気が緩んで涙がこぼれそうだった。
「レイモンド。こんな小さなレディをいじめるなよ」
「旦那様……ご冗談を。召使いに寛容なのは旦那様の魅力ですが、あまり気安く付き合うのはよろしくないと……」
「ああ……お前の小言は聞き飽きた。レディの相手が終わったら、この資料を揃えて私の書斎まで持ってきてくれ」
レイモンドにメモを渡すと旦那様は去って行った。その姿をリーンはぼんやりと眺めつつ、撫でられた温もりを思い出していた。
それからしばらくは、息をつく暇もない程に大変だった。
大きなお屋敷の為従業員も多く、顔と名前を覚えるのも一苦労だし、自分の仕事も、細かく決められた礼法も覚えなければ行けなかった。
それにやはりお屋敷でかわされる英語は、一般的な英国の英語より上品で、その言い回しを覚えるのに必死だった。
それでもやるべき事があると言うのはリーンにとって良い事だった。忙しくしていれば悲しい事は忘れられる。
旦那様は初日のあの時以来、顔を見る機会さえなかったが、あの優しい主人の為に働けると思うとやりがいがあった。
そして数ヶ月が過ぎ、やっと仕事にも、環境にも慣れ始めた頃だった。同僚との関係もそれほど悪い物ではなかった。
最年少という事もあって可愛がってくれる人もいるし、メイド長も厳しかったが、丁寧な仕事をすれば褒めてくれた。
それでもまだリーンは他の仕事仲間との間に壁を感じていた。何かもっと親しくなれる事はないか……。そんな事を考えていた時によい事を思いついた。
さっそく休みの日に貯めておいたお金を持って、市場に向かった。リストランテで勉強したお菓子を作ってみんなにあげよう。
そうしたらもっと仲良くなれるかもしれない。
召使い用のキッチンを借りて作った菓子は大好評で、皆喜んでくれた。イタリアの菓子というのも珍しかったようだ。
これで少しは皆の仲間になれるかもしれない。そう喜んでいたある日の事だった。
「リーン。話があります」
滅多に話しかけないレイモンドからの突然の呼び出し。凛は緊張しながらついていった。
「そんなに緊張しなくてもよいのですよ。とても良い話ですから」
レイモンドにそう言われて少しだけ緊張がほぐれた。何か知らないうちにミスをしていたのかと怖かったからだ。
「リーン。貴方は菓子作りが得意なのですね。他の従業員達の噂になっていますよ。プロ並みの味だと」
「プロなんて……そんな。確かに以前レストランで働いてた時に、お菓子を作って提供した事はありますが……」
レイモンドは苦笑しながら言った。
「お金を頂いて客に菓子を提供してたなら、それはプロフェッショナルと言えるでしょう。なるほど……それならば大丈夫かもしれませんね」
「大丈夫?」
レイモンドの答えに引っかかって、リーンは首を傾げた。
「リーンの菓子が美味しい。その評判が旦那様の耳にも届いて、是非一度食べてみたいとおっしゃっているのだよ」
「旦那様が? そんな……恐れ多い……」
旦那様に喜んでいただけたら嬉しいが、貴族で舌が肥えているあろう主人を、満足させられるか自信はなかった。
「もちろんいきなり旦那様にお出しはしません。確か……イタリアのレストランで働いてたのですよね? あちらは珈琲の国。我が英国は紅茶の国。飲み物によって相性の良い菓子も違います。だから紅茶の事も深く知る必要があります」
リーンはそれを聞いて、不安になった。紅茶を入れた事もないし、飲んだ事もあまりなかった。紅茶に合う菓子というのがどういう物なのかわからない。
「だからまず、私が紅茶の入れ方や種類を教えるから、それにあわせて菓子を作ってみなさい。試食を繰り返し、旦那様にお出ししても問題ないレベルになってから、旦那様に召し上がっていただきましょう」
リーンはそれを聞いてほっとした。それと同時に嬉しくなった。菓子を作るのは好きだし、紅茶に合う菓子と言う、新しい菓子の研究が出来るのは嬉しかった。それに紅茶の勉強というのも面白いかもしれない。
リーンは新しい事を学ぶ事は楽しい事だと思っていた。
「リーン。私の指導は厳しいですからね。頑張りなさい」
「はい。よろしくお願いします」
その後、レイモンドの仕事の合間に紅茶の勉強をし、英国の菓子についても独学で勉強をして、相性の良い菓子を一生懸命考えた。
紅茶の事を教えてもらえばもらう程、奥が深く素晴らしいものだと思えてきた。それに試飲させて貰ったのだが、一流の紅茶というのは本当に美味しくて、リーンは紅茶が大好きになった。
「ふむ……紅茶の入れ方は及第点ですね。リーン。貴方は筋がよい。菓子の味も良いですし、後は菓子を紅茶の味を妨げない程度にアレンジすれば、旦那様にお出ししても問題ないでしょう」
厳しいレイモンドに褒められてリーンは嬉しかった。
そしてついに旦那様に菓子をお出しする機会がやって来た。リーンは緊張しつつ、旦那様の部屋に菓子とお茶の用意を持って行った。
ドアをノックし、返事を確認してから入る。すると旦那様が優しい笑顔で迎えてくれた。
「お茶のご用意が出来ました」
「ああ……待っていたよ。リーン。君の菓子を前から食べてみたいと思っていたからね。楽しみだ」
旦那様に嬉しそうにそう言われて緊張した。レイモンドともに特訓し、合格点は貰っているが、それでも旦那様に喜んでもらえるか心配だったのだ。
粗相のないように慎重に紅茶を入れて、旦那様の前にそっとおく。旦那様はそれを優雅に持って香りを楽しみ一口飲んだ。
「ふむ……今日の紅茶はウヴァだね。しっかりとした味で美味しいよ。リーンは紅茶を入れるのも上手いのだね」
旦那様の嬉しそうな様子に少しだけほっとする。これなら菓子も大丈夫かもしれない。
「今日の菓子は、ベリーソースを効かせた、チーズタルトです。どうぞお召し上がりください」
旦那様は興味深く菓子を見つめ、ゆっくりとフォークで切って口にした。その瞬間少しだけ目を見開いて、驚いた表情をした。
「美味い。チーズのコクと上品な甘み。そこにベリーの爽やかな酸味がアクセントに効いてて、とても美味しい。英国にもタルトはあるが、こんな豊かな味の菓子を食べるのは、初めてだよ」
旦那様の笑顔と褒め言葉にリーンはとても嬉しくなった。今までの努力が実った喜び、そして優しい旦那様に喜んでもらえた事。それがなにより嬉しかった。
「チーズのコクにウヴァはあうね。なるほど……。繊細なダージリンだときっと菓子の味が邪魔してしまうだろうし。レイモンドめ……入れ知恵をしたな」
「は、はい。レイモンド様に色々と教えていただきました。紅茶の事はまだまだ勉強中ですが」
旦那様は嬉しそうに目を細め言った。
「勉強する事はとても良い事だ。これからも美味しいお菓子を期待してるよ」
こうしてリーンは旦那様の菓子係になった。




