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薔薇のつぼみ  作者: 斉凛
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新たな居場所

 マフィアのアジトを去り、ふらふらと歩いているとリーンは見知らぬ町へたどり着いた。

 パリより暖かく、町の様子もどこか陽気だった。しかし歩く人々の言葉がわからない。フランスより遠いどこかの国まで連れてこられたのだと、リーンは知った。

 言葉が通じないこの場所で、どうやって生きればいいのだろうか?

 物乞いをするにも、言葉が通じないのは困った物だ。途方にくれて道ばたで涙をこらえながら座り込んでいると、見知らぬおじいさんが話しかけて来た。

 言葉がよくわからないが、笑顔の優しいおじいさんだった。


「あの……ここどこですの?って言葉は通じませんわね」

「おや?君はフランスから来たのかな?」


 老人は訛りが強いがフランス語で言葉を返してくれた。驚いてリーンが顔を上げると、老人は笑顔で話しかけた。


「ワシはアントニオ。昔フランスの店で料理修行をした事があってね。少しだけフランス語ができるんじゃ。お嬢さん名前は?」

「リーンです」


「リーンか良い名前じゃ。そういえばここはどこかだったね。ここはローマじゃよ」


 ローマ……。それはずいぶんと遠くまで連れてこられたものだ。とても暖かくて良い町だが、どうしていいのかわからずぼろぼろと泣いてしまった。


「おやおやお嬢ちゃん、涙を拭いて……。お腹がすいてるのかい? ついておいで」


 常に栄養失調でがりがりに痩せたリーンの姿に、見かねたのかもしれない。アントニオは小さなリストランテにリーンを連れて行った。


「ここはわしの店じゃ。まだ開店前だから誰もこない。安心してゆっくり食べなさい」


 そういって出してくれたのは、シンプルなペペロンチーノのパスタだった。パスタを食べるのは初めてのリーンは、フォークと格闘しつつ一口食べた。


「美味しい……」


 初めて食べる物だが、あまりの美味しさに無言ですべてを平らげてしまった。


「おお……いい食べっぷりじゃ。食後のカフェ……はちょっとお嬢ちゃんには早いかのう。ジュースでも飲むかい?」


 リーンは小さく頷いて、大人しくジュースを飲んだ。その後今までの自分の身の上話をゆっくりと話した。マフィアにさらわれた時の記憶は曖昧な所もあったから、多少ごまかしたが、それ以外の所は本当の事をすべて話した。


「小さいのにずいぶん苦労したんじゃなぁ。いく宛がないなら、この店で働いてみないかい?」


 驚いてリーンは目を見開いてアントニオの目を見つめた。


「いいん……ですか?」

「ああ。ここはわしと息子夫婦だけの小さな店じゃが、その分人手もいる。あまり給料はだせないが、寝る場所と食べる物には困らせんぞ。どうじゃ?」


 リーンは反射的に立ち上がって大きくお辞儀をした。


「よろしくお願いします」


 それからリーンのイタリアでの暮らしが始まった。清潔な服と、暖かく安心できる寝場所。そして美味しい食事が保証されている。リーンは天国にいるような気がした。

 だからこの恩に報いるために、必死で仕事をした。

 初めは皿洗いや野菜の下ごしらえの仕事を教わりつつ、イタリア語を学んだ。日常会話程度を覚えたら、今度は料理を運んだり、開いた皿をさげたりも手伝った。

 アントニオの店は小さく、それほど高級な店ではなかったが、町のみんなに愛された暖かい店だった。


「ルビーノおつかいかい? よく働くね。おまけしておくよ」

「ありがとうございます」


 丁寧にお辞儀して、買った野菜を抱えて店に向かった。

 最近は食材の買い出しも手伝うようになり、色んな所で顔見知りが増えた。ルビーノというのはリーンのあだ名だった。イタリア語でルビーを意味する言葉らしい。

 ルビーのように赤いこの瞳からつけられた。初めはくすぐったかったが、しだいにこの愛称をリーンは好きになっていった。


 少しでもアントニオの役に立ちたい。そう思ったら、すべてが勉強の毎日だった。最近空いた時間に料理を教えてくれるようになったので、休みの日は自分の給料で材料を揃えて、練習する事が多かった。


「ルビーノは真面目でがんばり屋さんだね。もう少しゆっくり休んでいいんだよ」


 アントニオの息子カルロはよく笑ってそうからかった物だ。そういいながらも、休みの日に一緒になって料理を教えてくれる優しい人だ。

 リーンはとりわけお菓子が大好きだった。甘い物をこれまでほとんど食べてこなかったリーンにとって最高のごちそうだ。

 基本の料理を一通り作れるようになったら、リーンは市販のレシピ本を見つつデザートの作り方を一つ一つ勉強し、試行錯誤しながら作って行った。

 休みの日に自由に料理が出来る事は、リーンにとって最高の幸せだった。



 アントニオはティラミスをスプーンですくって口に含んだ。その様子を真剣に見つめるリーン。アントニオはしばらく無言でよく味わった後、ニヤリと笑った。


「リーン、腕をあげたのぉ」


 その褒め言葉にリーンは安堵しつつとびきりの笑顔を浮かべた。アントニオは親切で優しい人だが、料理に関しては厳しく、お世辞は絶対に言わない。

 そのアントニオが褒めたのは、お墨付きをもらったような物だった。

 アントニオに続いてカルロやその妻ビアンカもティラミスを食べ始めた。


「本当に美味しいよリーン」

「ねえ、これ店に出して売れるんじゃ無いかしら」


 ビアンカの思いがけない提案に、リーンは慌てて手を振った。


「そんな……まさか。趣味で作ったお菓子ですから、お店に出すなんて……」

「いや、悪くない。リーンはこれを店にだしたくないのかい?」


 アントニオが真剣に話しかける。その瞳に答えるように、リーンは心の中で考えた。趣味でお菓子を作れる事、それを美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。

 もし店で出したら、もっと多くのお客さんに美味しいと言ってもらえるかもしれない。それはリーンにとってもっと幸福な事だった。


「店にだしたいです」

「なら明日からだそう。頑張って沢山作ってくれ」


 アントニオの言葉にリーンは飛び跳ねる勢いで喜んだ。

 その後リーンはイタリアのお菓子だけでなく、フランスを中心に色んな国の菓子を研究し、店に出し続けた。

 アントニオのリストランテが繁盛したのは、アントニオ家族の腕だけでなく、リーンのドルチェ(デザート)もあってこその物だった。

 パティシェ・リーンとして働き、今まで以上に充実した日々であった。


 イタリアに来て3年。もはや物乞いだった頃の記憶を忘れつつあったリーンにはこの幸せが永遠に続くかと思われた。

 弓のように細い月を見上げながら、のんびりと明日はどんなお菓子を作ろうかと考えていた。

 リストランテは今バカンス休暇中で、カルロとビアンカの夫婦はギリシャ旅行に行っていた

 アントニオもついて行けば良かったのに、「リーンのためにワシは残る」と言ってローマにいた。

 たぶん夫婦水入らずで旅行をさせてあげたかったんだと思う。

 もはやリーンは保護者がいなくても、立派に自活できるほどになった。バカンス休暇に保護者は必要ない。


 アントニオは退屈そうにのんびりと休暇を過ごし、リーンはいつものようにお菓子研究に没頭していた。

 そうぼんやりしていたら月に雲がかかってきた。


「明日は雨かしら?」


 リーンはそんな事を口にして、たいして気にも止めなかった。


 翌日。リーンはいつものように厨房でお菓子を作っていると、二階の居住スペースで大きな物音がした。

 調理の手を止めて二階にあがってみると、椅子が倒れ、その前でアントニオが立ち尽くしていた。

 アントニオの視線の先はテレビのニュースに向かっている。


「遊覧船の沈没事故による、死者・行方不明者の数は……」


 アナウンサーは繰り返し同じ事を言い続けた。それはギリシャで起こった沈没事故についてのニュースであり、その犠牲者の名前にカルロとビアンカの名があった。


「嘘じゃ……こんな事あるわけない。きっと同じ名前の別人だ」


 アントニオはうわごとのように呟いたが、カルロ達は二度と帰ってこなかった。長い時間をかけて、アントニオは息子達を失った事実を受け止めた。


 二人が事故で死んでから数ヶ月。その間ずっとリストランテは休業状態だった。

 リーンはアントニオを慰めようと、美味しいお菓子を作ったり、町の楽しい話題や、流行りの歌を歌ってみせたり努力していた。

 しかしそんな努力も空回りするだけで、アントニオの気分を回復する事は出来なかった。


 そんなある日アントニオは真面目な顔をして言った。


「リストランテは廃業する。カルロ達がいなければ跡を継ぐ物もなし。こんな老いぼれが店をやっても仕方が無い」


 リーンはアントニオがそういうのを恐れていた。店がなくなったら自分の居場所はどこにあると言うのだろう。


「ミラノにわしの娘の嫁ぎ先がある。わしはそこに行って隠居しようと思っている。すまないリーンそこにお前を連れて行けないのじゃ」


 リーンは呆然とその話を聞いた。パリでの貧しいけれど楽しい人々の語らい、ローマでの平和な日々、二回も穏やかな日々が続いたのに、それは予期せぬ形で奪われて行く。

 怖かった。自分は疫病神ではないか。なぜ自分ばかりが無慈悲な運命に見舞われるのか。


「リーン代わりにお前の働き場所を紹介する。英国に住む親戚が住み込みのメイドの仕事を斡旋してくれるというのだ。行ってみないかい?」


 リーンに選択肢は他に無い。リーンは無言で頷いた。

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