底辺からの始まり
花の都パリ。
その噂は田舎の小さな村にいた頃から聞いた事のある話だった。そこにいけば何かが変わるかもしれない。
まだ幼く、浅はかな少女は、夢だけを抱えて列車の荷台に潜り込んでいた。
山の中の村から飛び出し、麓の村までたどり着いたものの、少女を待っていたのは過酷な現実だった。
身寄りのない身の上、他所者への偏見、赤い瞳という珍しい容姿への差別、ぼろぼろになった衣服を身にまとった少女に誰も手を差し伸べようとはしなかった。
ここでは生きて行けない。そう諦めて、少女はこっそり列車に忍び込んでパリへと向かった。
都会にでればどうにかなる。それは田舎者の発想だったのだが、生まれて初めて乗る列車に心躍り、胸をときめかせている間、少女は確かに幸せだった。
「ここがパリ……」
高い建物が建ち並ぶその姿にただただ、少女は圧倒されていた。歩く人々のおしゃれな姿と、近代的なビルと伝統のある古風な建物が同居した不思議な町並み。
レストランからは美味しそうな臭いが漂い、雑貨屋には美しく可愛らしい品が並んでいる。
何もかもが幼い少女には物珍しく、魅力的だった。だから初めは大はしゃぎで町中を見て回っていた。しかしすぐに少女は現実の厳しさに気づくのだった。
誰も少女の事をおかしな目でみたりしない。偏見や差別もなかったが、誰も見向きもしなかった。
無関心という現実。身寄りも金もない自分に何もこの街は与えてくれないのだ。
すり切れた少女の心はそれでも生きる事を諦めなかった。
肩を落としとぼとぼと歩く少女の目にそれはとまった。
見ず知らずの旅行客相手に大胆に金をせびる幼い子供。身にまとう衣装もぼろぼろで、靴も履いてない。それでもその子供は顔に愛想笑いを張り付かせて強引に金をくれと迫っていた。
断られてもしつこくつきまとい根負けした人間から小銭をもらう。罵倒されて終わってもくじけない。何度でも何度でも繰り返し、ただ身一つで稼いでいた。
自分にもあれなら出来るのではないだろうか?
お金さえあれば食べ物も買えるし生きて行ける。それがどれほど卑しい生き方でも、自分は生き延びなきゃ行けないのだ。
勇気を奮って声を張り上げる。
「どうかお恵みを……」
少女の戦いはここからはじまった。
教会の鐘の音が時間を告げる。少女は慌てて教会へと走った。
今日は教会で炊き出しのボランティアがあって、無料でパンを恵んでもらえる日だ。
しかし数に限りがあり、これを狙っている人間は多い。すでに少女はいつ、どこでこういったボランティアが行われるか熟知していた。
すでにパリについてから4つの季節が流れている。まだ住処という所もない。夏は路上で寝る事もある。冬は暖を求めて建物の下に潜り込みもした。
パリでは自分と同じような、身寄りも居場所もない貧しい子供などたくさんいる事はわかった。だから自分が特別不幸だと思いもしなかった。
嘆く暇があったらその日の食を求めて彷徨う。それが当たり前になりつつある。
炊き出しを待つ列に並んでいるとすぐ後ろに見慣れた少年が立った。
「ジャン。生きてたの」
「リーンそっちもな」
顔にそばかすを浮かべた少年は、にかっと笑って少女の軽口に返事した。彼もまた少女と同じような路上生活をする子供だ。
少女より少し年上で色々知っていて、何度か顔を合わせるうちにこうやって親しく話すようになった。
ふっとジャンはリーンの耳元に近づいてささやいた。
それは最近できたレストランの料理長がお人好しで、余り物の残飯を子供に恵んでくれるらしいという情報だった。
リーンが目を見開いて驚き聞いていると、ジャンはにっと笑って人差し指を立てた。
「誰にも言うなよ」
リーンはこくりと頷く。そして不思議な物をみたように首を傾げた。
「どうして?」
リーンやジャンのような子供達に取って、毎日が生きる事との戦いだ。彼らは決して仲間ではない、むしろライバルである。
少ない恵みを奪い合い、負けた物は惨めに道ばたにのたれ死ぬ。いつ自分が負けるかわからない状況で、他人を助けるような事をしている余裕などないはずだった。
「ど、どうしてって……別に……」
聞かれて慌てたような様子のジャンの顔が少し赤い気がした。さらに質問を重ねようとした所でリーンは自分の番が回って来た事に気がついた。
「教えてくれてありがとう」
そう言ってリーンは微笑んだ。物乞いをするための媚びた笑いではない。久しぶりに心の底から浮かべた笑顔だった。ジャンの顔が更に赤くなった気がしたが、リーンはすぐに炊き出しをもらいに神父の元へと向かった。
リーン7歳。まだ恋という言葉さえ知らない頃の話。
リーンは上機嫌で夕暮れ時の街を歩いていた。
ジャンが教えてくれたレストランの料理長は気のいい人で、美味しい食べ物をたっぷり恵んでくれた。こんなにお腹も心も満たされたのは久しぶりだ。
またおいでと言ってくれたから、困った時にはまたあそこを頼れる。本当にジャンに感謝したいと思った。
自然と鼻歌を歌いながら歩いていると見慣れた女性が路地を歩いていた。黒髪に黒い瞳のエキゾチックな容姿。化粧は濃いが美人であり、アフリカ系移民らしいグラマラスなその肢体をぴったりとしたドレスが包んでいる。
「やあリーン。ごきげんじゃないか」
「アンナさん。こんにちわ。これからお仕事ですか?」
「まあね」
大人の匂いがする笑みを浮かべて軽くリーンの頭を撫でた。
アンナは不思議な人だった。赤い瞳の自分を不気味に思うどころかなぜか可愛がってくれた。時々客からもらったという菓子を分けてくれたりする。
アンナの仕事というのは正直よくわからない。一晩男性の相手をする仕事だという。前に自分にもできるかと聞いたら?
「あんたにはまだ早すぎるよ。バカな事考えるのはおやめ」
と言われて怒られた。なんとなく姉がいたらこんな感じだろうか? と思わずにはいられない。
「リーンは何か良い事でもあったのかい」
そう問われて少しだけ迷った。ジャンが秘密だと言ったのに話してよい物かと。
しかしアンナは自分たち乞食とはまた違う。同じ底辺の世界を生きる物とはいえ、働いて金を稼いでる人間だ。お恵みのカモネタをしゃべったからといって、困る事はないだろう。
そう思いすべてを正直に話した。ジャンの不可解な態度も含めて。するとアンナは上機嫌で大笑いした。
「その年で男を手玉に取るなんて、やっぱあんたは私が思った通り上玉だよ。将来が楽しみだね」
アンナの言葉が理解できずリーンは首を傾げた。
「リーンは顔がいいってだけじゃなくて、品がいいからね。乞食をしてる他の奴らは荒んで、はすっぱになっていくっていうのにさ。いいかいリーン。本当にいい男を見つけるまで自分を安売りするんじゃないよ」
そう言うアンナの表情は真剣なものだった。リーンは意味が分からなくても、いずれわかる時来ると思い、アンナの言葉を胸に刻み付けた。
それから時々アンナは暇な時に男の上手いあしらい方や、男女の機微について教えてくれた。恋愛という物はよくわからないが、世の中を渡って行くのに、それはとても有益な情報に思えたので、しっかり頭に叩き込んだ。
それからまた4つの季節が流れた。パリにきて2年。相変わらずの家なしだったがリーンは様々な事を学び、交友は広がっていった。以前よりひもじい思いをする事もなくなったし、古着を買って身なりを整える余裕も出来てきた。
もう少し大人になったら何か職を見つけ、いずれまともな生活が出来るかもしれない。そういう希望を胸につかの間の平和を味わっていた。
「リーン。無事か!」
真っ青な顔でジャンが駆け寄って来た。
「どうしたのジャン。顔色が悪いわ」
「街で嫌な噂が流れてる。浮浪児の女子ばかりを狙って攫って行く奴らがいるって。先週からソフィアの姿も見当たらない。たぶんやつらだ」
ソフィアと言われて蜂蜜色の髪をした、ひまわりのような少女の顔を思い出した。元気で明るくて、大人にも物怖じせずに立ち向かう気の強い女の子だった。
彼女がそう簡単に飢え死にするとは思えないし、先週会った時はまだまだ元気だった。そんな彼女が消えた。その事実に思わず身が震えた。
「リーンも気をつけろよ。なんなら俺が一緒にいてやっても……」
「ありがとう。ジャン。気をつけるわ」
リーンはそう言うとその場を駆け出していた。気づくとリーンはセーヌ川の畔で川面を眺めていた。
辛い事があるといつもリーンはここを訪れていた。そしてそんな時気まぐれにソフィアはリーンの前に現れた。
「何辛気くさい顔してんのよ。落ち込んでたってパンのひとかけらも降ってきやしないんだから、上を向いて生きるしかないやろ」
背中を叩きながら笑ってなぐさめてくれる彼女が好きだった。将来は職人になりたい。住み込みで働かせてくれる修行場を探すんだって言ってた。
そんな彼女が得体のしれない輩に攫われた。彼女は今どこでどうしているのだろう。
もはやここで佇んでいても彼女は来ないのだ。
涙で視界がぼやけてぼんやりしていたら、急に背後から車のブレーキ音が聴こえた。振り返る間もなく突然後ろから誰かが抱きついてくる。
叫ぶ前に口を塞がれ、車に引きずり込まれる。状況を理解する前に、変な匂いのするハンカチを口にあてがわれ、そのままリーンは意識を失った。




