封印された過去
小説本編の始まりです
「イレーヌ。今日もおつかいかな?」
「うん。ママがオムレツを作ってくれるの。だから卵ください」
下ったらずな少女の言葉に、老人は目を細めて頷いた。
「ありがとうございます」
少女は愛らしい笑顔で丁寧にお辞儀した。
まだ5~6歳ほどの少女は美しい金髪と澄んだ青い瞳をした人形のように愛らしい容姿だった。無垢という言葉にふさわしいほど、世の中の汚れを何も知らない純粋な笑顔は見る者の心を和ませる。
老人に卵をもらった少女は卵を割らないように大切に籠を持って家へ向かった。途中何度も呼び止められた。
「イレーヌ。とれたての野菜があるから、お母さんに持って行って上げな」
「イレーヌ。あとで小麦粉届けてあげるからお母さんに伝えておいてね」
少女は呼び止められる度に、丁寧に立ち止まって笑顔でお辞儀した。礼儀作法をきちんとしなさいと、母にしつけられたからだ。
少女の腕では支えきれないほどの、色々な食材を持って、額に汗を浮かべながら家へとたどり着いた。
「ただいま。ママ」
「お帰りなさい。リーン。お使いありがとう」
少女とよく似たまだ若い女性が出迎えて、荷物を受け取った。少女は母にリーンと呼ばれる度に、不思議な気分になった。
皆はイレーヌと呼ぶのに、なぜ母だけがリーンと呼ぶのかと。以前聞いた時はこう言われた。
「ママの産まれた国の言葉ではイレーヌという名はアイリーンというのよ。『平和』を意味する言葉なの。貴方の生涯が平和で幸福な物でありますようにと願ってパパとママでつけたのよ」
「平和」という言葉の意味を理解するには、少女はまだ幼過ぎた。そして今日この時まではまさしく少女は平和な生活を送っていたのだ。
母がオムレツを作るのを待つ間、少女は窓から空を眺めていた。澄み渡る青空に流れる雲は色々な形をしていて、いつまで見ていても飽きないほど面白かった。
そのときふと鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。窓から身を乗り出して少女が空を眺めると、空に天使が飛んでいた。
日曜日に通う教会で神父様がお話ししてくれる天使様そのものだ。白い長いローブに身を包み、背に白い翼を生やし、この世の物とは思えない美しい顔をしていた。
「ママ! 天使様がいるよ!」
大声でそう言ったのに、少女の母は料理に忙しく返事もしてくれなかった。少女はあの天使がどこに向かうのか気になって、玄関から飛び出した。
「リーン! もうじきご飯だから家の中にいなさい!」
母の呼ぶ声に耳も貸さずに少女は天使の行方を探した。すると村の中心にある教会の屋根の上に天使は立っていた。
天使が教会に舞い降りた。それは聖書の物語のように素敵な事だと少女には思えた。だから天使が何をするのかワクワクしながら見ていた。
天使が片手を空高く掲げるとそれまで青かった空が、禍々しい紫色へと変化して行く。周りの空気までも重苦しく息苦しい物へと変わって行くようだった。
まるで時が止まったようにあたりが静まり返り、慣れ親しんだ村とは思えない風景に様変わりした。
少女は村中を走った。村の様子を熱心に観察しながら。先ほどまで笑顔だった皆が、なぜか虚ろでぼんやりとした表情に様変わりしていた。
「おじさん! おばさん!」
少女の声に耳を傾ける物は居ない。皆人形のように棒立ちになったり座りこんでいた。さすがに少女も何か大変な事が起こったのだと悟り家へと舞い戻った。
すると家の前で母がうずくまっていた。
「ママ!」
「リーン……」
母もまた他の人々と同じように虚ろな目をしていた。ただ必死に唇をわななかせて愛する娘の名を口にした。
「リーン……逃げ……なさい……」
「ママ!」
母に逃げろと言われても、少女は泣いてすがる事しか出来なかった。
「リーン……お願い……逃げて……」
どんどんか細くなる母の声。それとともに美しい母の身に異変が産まれた。むくむくと体が大きくなり、肌が毛むくじゃらになり、鋭く長い爪まで生えて来た。
「ママ……?」
母親の変貌を呆然と見続ける少女。母であったはずの人が目の前で2mを超す化け物へと変化した。
「リーン……」
野太い化け物の声が少女の名を呼ぶ。その時やっと少女は泣くのを辞め、立ち上がって駆け出した。それは本能だった。生きるためこの場に居てはいけない。逃げなくてはいけない。
化け物に背を向けて走り出す。しかしすぐに少女の左の太ももを大きな手が掴み引き止めた。振り返るとあの化け物が少女の左太ももを掴んでいた。
「嫌ぁぁ!!」
恐怖に我を忘れ、母であった事も忘れ、夢中で少女は化け物の手を振り払った。その時初めて少女の手が赤い光に包まれた。
華奢な少女の手がまるで鋭利な刃物のように化け物の手を切り裂き、切り落とした。
少女の左太ももからぼとりと化け物の腕が落ちる。少女の太ももには生々しい手形がくっきりと残っていた。
「ぎゃぁぁ!!!」
化け物は悲鳴を上げて倒れた。体がすぐに縮まり、爪も毛もなくなり、後には腕を失った母が現れた。腕を押さえて苦しげにもがく母の姿を見て、少女は自分のした行為に恐れおののいた。
「ママ! ごめんなさい、ママ!」
少女が慌てて駆け寄ると母はうっすらと微笑んで言った。
「リーン……逃げて……生きのびなさい……」
その言葉を最後に母は呼吸を止めた。少女の頭の中は恐慌状態におちいった。村の変貌、化け物の恐怖、そして自分が母を殺した事。全てがとても受け入れられない物であった。
真っ白な頭の中でただ最後の母の言葉だけが鳴り響く。
「リーン……逃げて……生きのびなさい……」
少女はその言葉だけを頼りに、無心に村の外へと駆け出した。赤い光に包まれた少女は恐ろしく早く駆け、障害も軽々と飛び越し、あり得ないほどの早さで村の外へと向かって行った。
その途中には母と同じような化け物も居たが、少女の早さについて来られる物はいなかった。
ただ走って、走って、走り続けて、村はずれの森の入り口までたどり着いた時、空の色と同じ禍々しい紫色の透明な壁が少女の前に立ちふさがった。
「逃げなくちゃ……逃げなくちゃ……逃げなくちゃ……ママが言ったもん」
少女はぶつぶつと呟きながら、渾身の力を込めて壁を殴った。透明な壁に風穴が開いて、少女一人通れそうなぐらいの大きさになった。
少女はするりとその穴から抜け出して、また全力で走り続けた。
それからどれくらい走り続けただろう。天使を見かけたのが昼だったのに、気づいた時にはとっくに日が暮れて月は空高くにあった。
少女の体は限界まできていた。走るうちに靴は底が抜けおち、裸足になっていた。森の中を駆け抜けるうちに服が破けぼろぼろになっていた。
なにより猛烈に喉が渇いた。限界だった。少女は走る事を辞め、水を求めてゆっくりと川に近づいた。
夢中で水をすくって飲み一息ついた所で少女は違和感を覚えた。
月の光に照らされて川に映る自分の姿がまるで他人のように思えたのだ。
金髪だった髪は純白に近い銀色となり、空色の瞳は血のように真っ赤な色をしていた。
少女は思った。自分はバケモノになったのだ。ママを殺した悪い子だから自分もバケモノになったのだ。
こんなバケモノが生きてどうしたらいいのだろう。もう優しいママも村の人も居ない。たった一人きり。
ママの所へ行きたい……。一瞬そう考えたがすぐに首を振って振り払った。ママは逃げろ、生き延びろと言った。
自分はどんな事をしても絶対生き延びなければ行けないのだ。それが母親を殺した自分の罪滅ぼしなのだ。
ぎゅっと握りしめた手はまだ温かかった。少女はふいに睡魔に襲われた。
「少しだけ……休ませて……ママ」
川の側の木陰にうずくまり少女は一晩眠り続けた。
目覚めた時少女はほとんどの記憶を失っていた。優しい両親や村の人々や、穏やかで幸せだった過去もすべて記憶になかった。
それは少女が自分の心を守るために、封印した思い出。すべてを捨てて少女は一から生き直すのだ。
たった一つだけ覚えている。記憶。
「リーン……逃げて……生きのびなさい……」
その言葉だけは少女の中に残った。誰の言葉かもわからないが、自分はリーンで生きなければいけない。どんな事をしてでも。
消える事のない左太ももの痣を抱えて、何一つ持たずに少女は彷徨い歩いた。
両親がリーンの名にこめた『平和』というメッセージがリーンの元に訪れるのはずっと先の話。




