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悪小箱のお話 前編

「さ~かえっ!」


 次の講義の為に棟を移動していると、背中をポンと叩かれた。

 この声には聞き覚えがある。


「諏訪? 久しぶり」

「久しぶり榮~ 寂しかったんだよ~? 一緒の講義なのに~ どこにもいなくて~」


 語尾を伸ばす口調と、おっとりとした言葉遣いの女性。

 髪は伸ばされ綺麗な鴉の濡れ羽色。そして、時代にそぐわぬ若葉色の着物を着ている。

 マイペースでのほほんほんわかとしている日本的な美人。大和撫子とは彼女の為の言葉なのだろう。

 

 彼女は諏訪。出身はこの大学のある県である。いわゆる地元民だ。

 付き合いは入学式辺りから今まで続いている。


 彼女との出会いは衝撃的だった。

 講義の初回、講義内容の説明を受けていると、隣に着物の女性が座ったのだ。

 着物だけでも珍しいのに、傍らに置いた巾着からは筆と硯を取り出し、シャリシャリと墨を摺り始めた。

 教授の言う注意を筆でメモを取るその姿は物珍しいらしく、周囲の視線が集まっているのが分かった。

 その時は教授も、チラチラと視界の端で諏訪の姿を捉えていたとかいなかったとか。


 しかし、そこは榮クオリティ。特に気にする事もなく、黙々とメモを取っていた。

 そして講義が終わる。今思えば、初めての邂逅にしては味気ない物だった。

 その後も何度か講義で会う事があり、隣同士の席に座るようになった。

 二人とも、自分から喋る方ではない。しかし、彼女といるとなんだか落ち着くのだ。

 諏訪も榮と同じらしく、自然と喋るようになった。

 何というか、彼女のゆったりとした雰囲気が、榮とウマが合ったのだ。


 話を聞くと、諏訪は有名な私立小学校、中学校を卒業。

 そして榮でも名前を知っている有名な女子高校を卒業し、地元のこの大学へと入学した。

 この大学に進学した理由は、曰く『丁度良かったから』らしい。

 榮も似たような理由だったので、そこは同意した。


 そして諏訪は、どうも地元では有名なお家の御令嬢らしい。

 もう一人の、オカルトとSFが好きな地元出身の友人がそう言っていた。

 榮は微塵も知らないが。


「あはは。ちょっとバイトが入っちゃってね。出張してたの」

「ば、バイト~!?」


 驚いたように言う諏訪。

 そんなに驚く事なのだろうか、と不思議に思う榮。


「バイトって~ コンビニとかスーパーで働いている人で~ よく怒られてる~?」


 キラキラとした目で言う諏訪。


 そういえば、自分がバイトをしている事を言っていなかったか。

 バイトは基本的に講義が終わってからにしているし、そもそも諏訪と会う機会も少ない。

 学部も学科も違うのだ。


 それよりも、諏訪はバイトに何か変な印象を持っているようだ。

 余程の事が無ければ怒られる事など無いだろう。現に榮は、矢尾から怒られた事は無い。

 呆れられた事は多々あるが。


「怒られなんてしないよ。店長さんは優しいし、仕事は楽しいから」

「へえ~ どこでバイトしてるの~? 今度遊びに行くよ~」


 教えて困る程の事でもない。

 しかし、あの店に遊びに来ても面白くもなんともないだろう。

 

「万屋で働いてるの。ここからはちょっと遠いんだけどね。自転車で二十分くらいかな?」

「よろずやさん~? もしかして矢尾ってお店~?」


 おや、どうやら諏訪は『万屋 矢尾』を知っているようだ。


「うん、そうだよ。知ってるの?」

「ずっと前にお建様に連れて行って貰ったの~ 店長さんはお元気~?」


 なるほど。

 諏訪の家は有名らしいし、骨董品の一つや二つはあるのだろう。


 『万屋 矢尾』はかなりの老舗らしい。

 依頼でお客様の家に行った時の事。

 雑草刈りが終わり一息吐き、麦茶を出して頂いた時の事だ。

 世帯主の七十を過ぎたくらいのお婆さんが言ったのだ。


『万屋さんの所に店員さんが入ったって聞いたけど、めんこい子だねえ。店長さん以外を見るのは初めてだよ』


 お婆さんは、小さい時からこの地域で暮らしていると聞いた。

 詳しく聞くと、その時から『万屋 矢尾』のお世話になっているらしい。弟の子守りや家庭教師、遊び相手などをしてもらったと言う。 

 つまり、六十年程度は『万屋 矢尾』が存在しているということだ。

 まあ、他の店員が居たのだろう。それならば、矢尾で何代目の店長なのだろうか。


「矢尾さんは元気だよ。カップラーメンばっかり食べてるけど」

「かっぷらーめん~?」


 まさか、カップラーメンを知らない?

 いや、お嬢様ならば知らない、のか。


「…まさか、カップラーメンを知らない、とか?」

「え、ええ~っ!? し、しし知ってるよ~! cupに入った拉麺だよね~! 知ってるよ~!」


 『cup』と『拉麺』の発音が無駄に良かった。本場の人に負けないくらいに。

 なんだか焦っているが、追及はしないでおこう。


「まあいいよ。それより、向こうに止まってる車、お迎えじゃないの?」

「くるま~?」


 後ろを振り向く諏訪。

 その視線の先には、黒い車が停まっていた。

 助手席からは黒服を来てサングラスを掛けた偉丈夫が出てきた。


「あ~ みのわ~」


 ふるふると手を振る諏訪。

 みのわと呼ばれた男性は会釈をした。


 諏訪は毎日、車で通学をしている。

 それも、高級そうなリムジンに乗って。

 本人も免許証は持っていると言っていたが、家に仕える従者が運転しているらしい。


「諏訪は講義はないの?」

「今日は終わりだよ~ それじゃ~ まったね~」


 手を振りながら、パタパタと車の元に駆けていく諏訪。

 みのわと呼ばれた男性と何か言葉を交わして車に乗り、エンジン音を響かせ去って行った。


 うむ、相変わらずマイペースだ。

 大分話し込んでいたが、はて、自分は何をしようとしていたのだったか?


「あ! 講義が!」


 時計を見上げると、始まるギリギリの時間だった。

 これはマズイ。

 次の講義の担当は、どのような理由があろうと遅刻者を絶対に欠席扱いにすると豪語している教授だ。

 そして尚且つ、一度の欠席で評定が一つ下がると専らの評判だ。


 榮は急ぎ、棟の階段を駆け上がって教室に入り、席に着く。

 なんとか間に合った。講義が始まって数分すると教授が入室してきた。

 配布されたピンク色の出席カードに名前を書き込み、提出をした。

 回収して確認をすると、教授が話し始めた。


「あー…それでは講義を始める。近現代の美術史とはかくも…」


 それから一時間と三十分。教授の講義が延々と続いた。

 周囲の生徒の中には、机に突っ伏して寝ている者やコソコソと電子機器を弄っている者もいる。

 しかし、榮は黙々とメモを取っていた。




―――




 その講義で、その日の講義は終わりだ。

 駐輪場に停めて置いた自転車に乗り、榮は『万屋 矢尾』へと向かう。

 梅雨はしばらく前に明けている。夏に入りかけている為か日差しが強い。

 もう少しで本格的な夏になるだろう。


 色々と寄り道をし、数十分ほどで『万屋 矢尾』に到着した。

 裏口近くに自転車を停め、玄関の引き戸をカラリと開けて中へ入る。


「あら榮、丁度良かったわ」


 室内は冷房も効いていないのにヒンヤリとしていた。

 そして相変わらず、矢尾は黒いドレスのような衣服に身を包んでいる。これから夏も本番になるのに、暑くはないのだろうか?


 矢尾は、近くの帽子掛けにあった麦わら帽子を榮に被せ、草刈鎌とバケツを持たせる。

 バケツにはビニール袋と軍手が入っていた。


「あの、矢尾さん。これは…?」

「茅野さんから依頼があってね。『庭の草刈りを頼みたい』だって」

「茅野さんのお宅ですか? 確かこの前も…」


 この前も似たような依頼をしていたと、榮は記憶していた。

 確かカメラを渡された時だったか。


「梅雨後は特に草が伸びるのよ。二、三日店を空けていたじゃない? その間にググッてね」


 そうして榮が提げていた鞄に手を入れ、漫画を取り出した。

 舞台は鎌倉。妖怪が騒動を起こし、作家の先生が解決する漫画だ。

 枕を手繰り寄せてゴロリと寝っ転がり、漫画を読みだした。


 行って来いということだろう。

 特に異論はないので、鞄を置いて再び玄関をくぐる。

 自転車のカゴにバケツを入れ、三丁目に向けてこぎ出した。




―――




「ありがとうねぇ店員さん。お陰様でスッキリしましたよ」


 貸して頂いた手ぬぐいで顔の汗を拭い、縁側に座って麦茶を飲む。

 動いて火照った体を冷えた麦茶が通り、気持ち良い。


 茅野さん宅は木造の平屋。庭は十五平米ほどの広さだろうか。

 庭には三本の木が生えている。柿、桃、柘榴の木だと聞いた。

 そしてたくさんの花が咲いている。向日葵や朝顔といった花は分かるが、その他は分からない。

 世帯主は七十過ぎ程のお婆さん。榮は茅野さんと呼んでいる。下の名前は知らない。


「いえ、私も楽しく出来ましたから。障子も黄ばんじゃってますけど、貼り替えますか?」

「あらホント? いつか貼り替えようと思ってたんだけれど、どうにも先延ばしにしちゃってねぇ。このままだとみさいし、どうせならやって貰おうかしら」

「お盆も近いですし替えちゃいましょうよ。矢尾さんほど上手には出来ないでしょうけど。道具、ありますか? 」

「ぶきっちょの私よりもずっといいわ。ちょっと待っててね。持って来るから」


 麦茶をもう一口。障子戸を確認する。

 自分の背丈よりも少し高い障子戸が四枚。


 カタリと上に持ち上げ、こちらへ持って来て外した。

 同じ要領で四枚とも外しておく。少し待つと、茅野さんが障子紙とバケツを持ってきてくれた。

 障子紙とバケツを受け取る。

 バケツの中にはカッターと糊、刷毛に霧吹きが入っていた。


「すみません。小皿も頂けますか? 要らないタオルも出来れば」

「あらやだ! ごめんなさいねぇ」


 オホホと笑いながら、再び取りに行く茅野さん。

 榮はバケツから道具を取り出し、庭先にある蛇口を捻って水を貯める。

 水が貯まりきった辺りに、茅野さんが小皿と雑巾を持ってきてくれた。


 さて、と。

 榮は袖を捲り、障子紙を剥がしていく。剥がしにくい所は水に濡らした雑巾で端を湿らし、ペリペリと剥がす。

 僅かに残った切れ端は雑巾でゴシゴシと拭き取った。

 障子戸全てを同様に処理した。


 丸められている障子紙を障子戸に当て寸法を確認する。

 この障子戸の幅と高さだと、障子紙を切って二枚が必要だろう。

 障子紙が障子戸の桟で貼り付けられるように、カッターで調整した。


 次は糊の出番だ。

 ビニール袋から糊を絞り出し、バケツの水で僅かに薄めた。

 刷毛に付け、障子戸の下半分へ塗り付けていく。

 その後あらかじめ調整しておいた障子紙を貼り付けた。

 斜めにもならず、綺麗に貼れたと自負できる。

 それを残りの障子戸にも施す。糊が乾いた頃に、霧吹きで軽く水を吹きかけた。

 こうする事で、細かい皺が無くなるのだ。


 黙々と作業を進め、全ての工程にかかった時間は二時間ほど。

 少し時間がかかりすぎてしまっただろうか。


「あらまあ早いわねぇ! それにきちんとしていて。息子夫婦が来ても恥ずかしくないわ」


 どうやら、茅野さんから見ても十分な出来のようだ。

 初めてだったが安心した。


「ところで茅野さん。こんな鍵を見つけたんですけど…」


 バケツの中の道具に紛れて入っていたのだ。

 差し込む部分はギザギザの板状の鍵。南京錠か何かの鍵だろうと、榮は見当をつけた。


「あらあら! 蔵の鍵よ。随分昔に無くなったと思っていたけれど、こんな所にあったのねえ」

「蔵、ですか?」

「そう、蔵。向こうにあるでしょう?」


 茅野さんが指差す方を榮が見る。

 確かに。平屋の裏。建物よりも少し高い建物があった。

 所々黒ずんだ白い壁、瓦で覆われた古めかしい蔵。


 菫の屋敷にあった蔵よりも、大きさも綺麗さもこちらの方が下である。

 しかし、手入れがされていないのならば納得だろう。


「そういえば…万屋さんって、古物買取もしていたんじゃないかしら?」

「ええ、していますよ。お客様も来ているようですし」

「そう? それなら店員さんが見繕ってくれない? 私はどうにも、骨董品には疎くって」

「え。私、価値には詳しくなくて…」

「私よりはずっといいわよ。ほらほら遠慮しないで、若いんだから」


 茅野さんにグイグイと背中を押され、家の裏に回る。

 蔵には大きな扉がある。閂に大きな錠前が掛かっていた。

 茅野さんは鍵を差し込み、ガチャリと錠を外した。


「あの、中には何が?」

「さあ? 小さい頃に入ったきりだから。木箱がたくさん有ったとは思うけど…」


 小さい頃。

 つまり、六十年くらいは開かずの蔵だったというわけか。


 ギ、ギィ…と金属が軋む音を鳴らしながら、扉が開かれた。

 蔵の中は薄暗い。かびの臭いが鼻をつく。


「あ、店員さん。確かあなた、大学生だったわよね?」

「はい、そうですよ」

「それなら独り暮らしよね? 昨日、卯の花を作りすぎちゃって、持っていく?」

「本当ですか!? 是非とも!」

「あらあら、目の色変えちゃって。タッパーに詰めてくるから、適当に見繕っておいてね」


 以前、茅野さん宅へ依頼で来たとき、同じくおでんを店長の矢尾に持って行ってほしいと言われた。

 一人では食べきれないと言う矢尾の晩酌に付き合い、一緒におでんを食べた。


 そのおでんの美味しい事美味しい事。

 ダイコンは芯まで味が染み柔らかく甘辛い。

 ニンジンはほろ苦いながらも味深い。

 凍り豆腐とコンニャクには具材から出た出汁が染み込み、結ばれたコンブはコリコリと歯触りが良い。

 鶏肉も柔らかく煮えており、噛むと出汁が溢れてきた。


 全ての具材が調和し引き立てあい、正に小宇宙。

 気が付くと、食卓を挟んだ向こうに座っていた矢尾が酔い潰れ、鍋が空になっていた。

 

 その茅野さんが作った卯の花。期待せざるを得ない。

 ならば、自分でできる範囲で蔵の中を見て置こう。

 そう思い、榮は蔵の中へ入っていった。


「やっぱり、暗いなぁ…」


 蔵の中は案の定薄暗い。それになんだかジメジメしている。

 そして茅野さんが言っていた通り、大きな木箱が幾つも重ねられていた。

 試しに一つ、蓋を開けてみる。


 瓶や缶。それに紙切れや皺だらけの雑誌。

 雑誌の発刊日はどれも昭和の日付。中には大正時代の雑誌もあった。

 しかし、破れていたりカビていたりで、とても価値があるようには思えない。


 箱を次々と開けていく。空の木箱やガラクタの入った木箱。

 価値のありそうな骨董品は見受けられなかった。


 そして、最後の箱。地面に下ろすがやけに軽い。

 きっと空だろうとがっかりしつつも、蓋を開けた。


「箱?」


 木箱の中に正方形の箱が鎮座していた。

 細い木が互い違いに組み合わされており、寄木細工のような風体だ。

 試しに手に取り振ってみた。何かカサカサと音がする。

 中に何か入っているようだが、開けられるような切れ目は見受けられない。

 何かで接着されているようだ。


 箱の鎮座していた下に和紙が敷いてあった。

 文字が墨で綴られている。


 『七封』


「なな、ふう?」


 この箱の名前だろうか。

 しかし榮の知っている限り、そんな名前の工芸品は存在しない。

 箱根細工の亜種かなにかだろうか?


「店員さーん! 卯の花持って来たわよー!」

「はーい! 今行きまーす!」


 蓋を戻し、蔵の外へ出る。


「はい、これ。日持ちしないから、早めに食べてね?」


 茅野さんがビニール袋を榮に手渡した。

 中を覗くと、手の平より少し大きいタッパーに、みっちりと卯の花が詰められていた。


「ありがとうございます! 美味しく頂きますね!」


 この量だと、明日までは持つだろう。

 それにしても、良い物を貰った。


 ホクホクと笑顔を浮かべると、茅野さんも同じく笑顔を浮かべた。


「それでどう? 目ぼしい物は見つかった?」

「あ、そうでした。木箱の中にこんな箱が」


 木箱から取り出した、寄木箱を茅野さんに見せる。

 しかし、その顔は困惑していた。


「なにかしら? この箱」

「それと、ななふうって読むんですかね? 紙が入っていましたけど。ご存知ですか?」

「ななふう…? 聞いた事ないわね…何かの暗号かしら?」


 榮から寄木箱を受け取った茅野さんは、光に透かしたり叩いたりしている。


「それに何か入っているみたいでして。開けられます?」

「いやあねえ。若い店員さんに開けられないのに、私に開けられるわけないじゃないの」


 そう言って、茅野さんは寄木箱を榮に渡した。


「どうします? 元に戻しておきましょうか」

「うーん…そうね、もしよければ貰ってくれる?」

「いいんですか? なんだか古そうな物ですけど」

「折角見つけた物だし、戻すのも手がかかるでしょう。それに、ただの木箱みたいだから。要らなかったら捨てちゃって」


 茅野さんは榮に譲ると言う。

 今は少し汚れているが、少し拭けば良い色合いになるだろう。

 部屋の調度品に丁度良いだろうか。


「それじゃ貰っちゃいますね?」

「ええ、ええ。蔵の中に入ってるよりは外にいる方が喜ぶだろうから」


 確かに、妖包丁も冷蔵庫にしまうと出せと言う。

 物は使われて、日の光を浴びてこそなのだろう。


 刈った草を詰め込んだビニール袋を自転車の荷台へ縛り、前のカゴへはバケツを入れる。

 バケツの中には草刈鎌と軍手。それに茅野さんから貰った卯の花に寄木箱が入っていた。


「それでは。またのご利用をお待ちしております。お体に気を付けてくださいね」

「はいはい。ナスのお浸しを作って待ってるからね」

「本当ですか! 約束ですよ!」


 ウキウキしながら自転車をこぎ出す榮。

 その姿が見えなくなるまで手を振っていた茅野さん。

 バケツの中ではガタガタと、寄木箱が激しく振動していた。




―――




 手を洗い、夕飯の支度をする。


 茅野さんのお宅から『万屋 矢尾』へと戻ると、出て行った時のまま矢尾が漫画を頭に被せて眠っていた。

 起こすのも悪いし、その日の依頼はもう無かったし閉店時間も過ぎていたので、古物買取の入り口へ閉店と札を下げておいた。

 漫画は後で返してもらえばいいので、戻ってきた旨をメモに残し、そのまま借家へと戻った。


 今日の夕飯はおでんを考えていた。

 ニンジンにダイコンにコンニャク、凍り豆腐にコンブに鶏肉。

 具材を似たように切り、

 茅野さんのおでんの味を思い出しながら、調味料を入れて煮込む。

 ある程度煮えたら火を消し、蓋をしておく。煮物は冷める時に味が染み込むと言われているのだ。


 少し冷えるのを待つ間に、茅野さんから頂いたタッパーから卯の花を半分ほど皿に盛った。

 箸で少し摘まみ、口へと運ぶ。

 ねっとりとした触感に柔らかいチクワ、シイタケ、ニンジン。

 それらが主役であるおからと絶妙に絡み合い、素晴らしい味わいになっている。

 うむ、美味だ。素晴らしい。流石は茅野さんだ。


 思わずもっと食べようとしてしまうが、理性で押し留める。

 おでんもあるのだ。どうせなら一緒に食べたほうがいい。

 深皿におでんを盛り付け、食卓へと置く。同様に卯の花も。


 まずはおでんからだ。

 

 ダイコンを小皿に取り、齧る。

 少し硬い。それに芯まで味が染み込んでいない。

 ニンジンも同じく、柔らかみが足りない。

 コンニャクと凍り豆腐には味が染みているものの、その味が全然違う。

 鶏肉もこれはこれで美味しいが、茅野さんの物とは別物だ。


 出汁の味が違う。

 深みと言うか広がりというか。

 やはり経験が浅いのか。

 今度コツを聞きに行こうか。


 卯の花をチマチマと食べながら悩む。

 気が付くと卯の花を盛った皿が空っぽになっていた。

 はぁ、と溜め息を吐き、おでんを食べ進める。


 深皿に盛った分は食べ終わった。鍋には蓋をし、置いておく。

 おでんを始めとした煮物は味が染み込む二日目からの方が美味しい事もある。

 明日も食べる為にとっておくのだ。


 食器を片づけ、寄木箱を机に置く。

 乾いたタオルで拭いてみると光沢が出てきた。

 白と茶の木材が交互に組み合わさっている。

 これはこれは良い色合いではないか。


『お、中々いい箱だな。俺好みだ』

「へえ、芸術とか分かるんだ?」

『おいおい舐めんなよ? これでも物を見る目はあるんだぜ』


 確か、千年くらい前の太刀が原型になっているんだったか。

 それならば、様々な骨董品を見ていてもおかしくない。

 試しに聞いてみよう。


「なら、どこがどう良いの?」

『そうだなぁ…俺にとっちゃあ全部が好みなんだが、敢えて言うんなら雰囲気だな』


 雰囲気。

 これまた抽象的な事を言う。

 

『俺くらいになれば雰囲気で善し悪しが分かるんだよ。こいつは悪しだな』

「悪し? 悪いって事だよね? それなのに好みなんだ」

『おいおい人間よぉ。善い物ばかりを愛でるんじゃあ大成しないぜ。悪い物も愛でてこそ、物の良し悪しが分かるってもんだ』


 うむ、一理ある。無機物のくせに。

 榮に物の価値は分からないが、どのような物が価値を持つか位は分かるつもりだ。

 万人にそれなりに受け入れられるか、極一部に熱狂的に受けるか。

 どちらかを達成する事が出来れば、それは価値を持つ。

 この箱はきっと後者だろう。


「どれ位に造られた物か分かる?」

『そうだな…安政の終り頃じゃねえの? そんな匂いがするぜ』

「西暦で言ってよ。和暦じゃ分からないよ」

『西暦ってなんだよ?』


 色々と難しい事は知っているくせに、西暦は知らないという。

 まあ、年号など無機物は興味がなさそうだから、仕方ない。


「とにかく昔って事だね。ありがと」

『感謝するんなら野菜切らせろ!』

「今日はもう切ったでしょ。また明日ね」


 まだ騒いでいる包丁を水きりに置き、布団を敷く。

 明日も講義があるのだ。

 カメラと包丁にお休みと言い、榮は眠りに就いたのだった。

・名前:(さかえ)

 性別:女

 職業:大学生

 好物:卯の花・おでん

 設定:

 至って普通の大学生。

 矢尾には及ばないものの、万屋の依頼に関しては滞りなく行える。

 本人の明るい性格もあり、昔馴染みの依頼主の間ではまるで孫のように可愛がられている。

 お年寄りに好まれる性格。


・名前:茅野(ちの)さん

 性別:女

 職業:専業主婦

 好物:ミカン

 設定:

 三丁目に住むお婆さん。

 昔から『万屋 矢尾』にはお世話になっているようで、小さい頃は遊び相手になってもらっていたとか。

 自宅の裏には蔵が建っている。鍵は無くしたようで、長らく立ち入ったことはなかった。

 彼女の料理は絶品である。

 息子夫婦がいる模様。


・名前:諏訪(すわ)

 性別:女

 職業:大学生

 好物:御御御付け

 設定:

 大和撫子な大学生。

 烏の濡れ羽の長髪で前髪ぱっつん。常に着物を着こんでいる。

 通学は車で送り迎えをされている。聞いた話では『地元では有名な家のお嬢様なのさ』だそうだ。

 カップラーメンの存在を知らないようだ。


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