彫刻のお話
山に建つ屋敷へ来て、二日目。
生憎、天気は雨。こうなっては虫干しは出来ない。
今日一日は、部屋で待機することになった。
与えられた部屋は、二人で一部屋。
だが、二十畳はあろうかという広さの部屋だ。
真ん中には座卓が置かれている。まるで旅館の一室のようだ。
座卓の両脇に置かれた座布団に座る榮。
そして、その向かいには何かの書類を書いている矢尾が。
「矢尾さん、すっっっごく暇です」
「うるさいわね。雨なんだからジッとしてなさい」
とは言え、テレビもラジオも置いていない部屋なのだ。
矢尾はする仕事があるから良いのだが、ただのバイトである自分に出来る事など限られている。
暇つぶしに持ってきた漫画も読み終えてしまったし、昼はついさっき食べたばかりだ。
実に美味であった。
開けられた障子戸からは縁側、そして庭が見えた。
柳の木から雨垂れが池に落ちている。風流とはこういう事を言うのだろうか。
その奥には深い緑に包まれた山々が見える。
霧のように降る雨は自然の恵み。緑の木々は自然の宝庫。
ボーっと見つめていると、雄大な自然に呑み込まれるような錯覚に陥ってしまう。
何百年もかけて育まれてきた山々は、きっと全てを受け入れるのだろう。
「そんなに暇なら散歩に出たら? 浅葱に言えば、傘の一つでも貸してくれるわよ」
なるほど、散歩か。幸い雨は小降り。傘さえ差せば、それほど濡れる事もないだろう。
それに、雨の中を歩くというのも風流なのだろう。
「いいですね。それじゃ、少し出てきます」
「はいはい。足元には気を付けなさいよ」
廊下へ続く襖を開け、浅葱を探す。
きっと昼食の片づけをしているのだろう。厨房までの道順は覚えている。食器を下げに行ったのだ。
一分ほどで『厨房』と札の書かれた扉が見えた。
カチャリと開ける。
中を覗くと、ポニーテールのように結ばれた黒髪が見えた。
白の小袖は襷で肩の辺りに結ばれている。ふむ、間違いない。
カチャカチャと瀬戸物がぶつかる音がする。洗い物をしているのだろう。
「浅葱さん」
「少々お待ちを。直ぐに終わりますので」
そう言われる。
扉を閉めて外でしばし待つ。
厨房は聖域とされるのだ。
招かれてもいないのに居座るのは失礼だろう。
数分待つと、扉を開けて浅葱が出てきた。
襷は解かれ、白い小袖が腕元を隠していた。
そこで榮は事情を説明した。
雨降りだが散歩をしたいので、傘を貸してもらえないか、と。
「傘、で御座いますか」
「はい。お貸し頂けませんか?」
「此方へ御越しください」
そう言い、浅葱はさっさと歩いて行ってしまう。
この広い屋敷だ。迷ってしまうと事だ。
遅れないように後に続く。前を歩く浅葱は姿勢を崩さず、シャナリシャナリと綺麗に歩いている。
きっと厳しい躾を受けてきたのだろう。
着いたのは玄関だった。
来た時は気付かなかったが、壁に一本の傘が立てかけられていた。
榮が見た限り、埃が積もっている。長らく使われていないようだ。
「番傘、ですか?」
「傘はこの一張しか御座いませんが」
「いえ、問題ないです」
使い方は分かる。
祖母は、ビニール傘よりも番傘を気に入っていたのだ。
自分の為に作ったと言う、祖母とお揃いの小さい傘を差してよく散歩をしたものだ。
ろくろを持ち、ゆっくりと押し上げる。
見た限り、穴などは空いていない。
綺麗な藍色の番傘だった。
ふむ、番傘で雨降る山道を歩く。風流である。
どうせならカメラを持って来ればよかった。
しかし、日帰りのつもりだったから置いてきてしまった。
残念な事をした。
「此方をお持ちください」
浅葱は懐から取り出した金色の鈴を、榮の手に握らせた。
「これは?」
「獣避けの鈴で御座います。手元に結んでおきますね」
そう言われ、浅葱が手ずから榮の手元に鈴の紐を結んだ。
動くと、チリンチリンと澄んだ音が響く。
靴を履き、玄関の引き戸をガラリと開ける。
スニーカーで来てよかった。
「地面が抜かるんでおります。お気を付け下さいませ」
「あ、はい。行ってきます」
後ろを振り向くと、浅葱が頭を下げている。
榮もペコリと頭を下げた。
昨日のような、険しい視線は感じなかった。
―――
雨垂れ滴る深緑の木々。
ああ、美しきかな、大自然。
すぅ、はぁ、と深呼吸。
心なしか、体の中が清浄になった気がする。
「うん、気持ちいい」
山に入って一時間ほどが経っただろうか。
辺鄙な山だと矢尾が言っていたのだから、荒れ果てた藪だらけの山だと思っていた。
しかし、登山道のように道は整備されていた。
もちろん木々に囲まれている事に変わりはなく、大自然の中にいることを嫌と言うほど満喫できる。
親指と人差し指を『く』の字に曲げ、両手で四角を作る。
まるでカメラを覗き込むように、景色を収めた。
カメラも持ってくれば良かったと、再び後悔した。
新芽を頬張る角の生えた鹿。沢山のウリ坊を連れた猪。我が物顔でノシノシと歩く熊。
住んでいる町ではまず見る事の出来ない、物珍しい動物を見る事が出来た。熊は視界に入った瞬間に、静かに全力で逃げたが。
「ふぅ、はぁ…危なかった」
冬眠から明けてしばらく経つだろうが、熊は流石に危険である。
脇目も振らず一目散に逃げた為、更に山奥に来てしまったようだ。
野原のような場所。先ほど生い茂っていた木々はなく、一面に芝が茂っている。
奥には、更に山上へ続く道が見える。何かの為に切り開かれたのだろうか?
折角なので散策してみることにした。
青色に鮮やかな紫陽花。白い花弁の純潔な百合。近くに立てられた棒に蔓を巻き付けた朝顔。
今の季節に咲く花が取り取りと植えられていた。
祖母の家のようで、非常に壮観である。
しかし一番目立つのは、広い芝原にそそり立つ一本の木。
一番近い枝に手を伸ばし、葉の形を見る。
一本の枝から節だって、細長い針のような葉が何本も生えている針葉樹。
葉の先端は鋭く尖り、指で突くと刺さってしまうように硬い。
「樅の木、かな?」
よくクリスマツツリーに使われる木だ。
とはいえ、榮の家ではクリスマスを祝った事は無い。
曽祖父が海外渡来の行事を嫌っていた名残と聞いた事がある。
「…榧の木。よく似てるけど」
後ろから声が掛けられた。
びっくりして後ろを振り向く。
黒い長髪は雨に濡れて顔に張り付き、薄手のワンピースは雨で淡い緑の下着が透けている。
雨で体温が奪われたのだろうか、その肌は不自然なまでに白くなっていた。
雨の中、彼女が傘も差さずに、榮の後ろに立っていたのだ。
「び、びっくりした。いつの間に?」
「…ついさっき。声を掛けたけど無視されたから」
花に夢中で、声を掛けられたことに気付かなかったのだろうか。
悪い事をしてしまった。
それはそうと、この女性は誰なのだろう?
「え、えっと…あなたは?」
「…雨が降って来たから。雨は好き」
そう言い、女性は空を仰ぐ。
あなたは誰なのか、という意図で聞いたつもりだったのだが。
日本語とはかくも難しい。
「そうじゃなくって、お名前は?」
「…鹿屋野。彫刻家」
どうやら、鹿屋野と言う名前で彫刻家をしているらしい。
ふむ、彫刻家。
榮はどうにも芸術家とは、一般人とはかけ離れた感性をしていると思っている。
ただ思っているだけで、差別も区別もしていない。
傘も差さずに外に出てくるのも、その感性が関係しているのだろうか。
「鹿屋野さん、こんな所で雨に打たれていたら風邪ひいちゃいますよ?」
「…大丈夫。気にしない」
そう言って親指を立てる鹿屋野。
心なしか、ドヤ顔をしているようだ。
「けど…傘に入ってください。私が気にするんです」
グイと腕を引っ張り、傘の下へと入れる。
やはりその肌は、雨に濡れて冷たくなっている。
「…暖かい」
「ほえ?」
そう言って、鹿屋野は榮に抱き着いた。抱き着いてきた。
榮よりも幾分か背が高いくせに、その豊満な胸元は榮を凌駕していた。
ふにょりとした感触。
「ななな、何をするんですか!?」
「…家は近く。寄って行って」
耳元でそう囁かれた。
何故だが顔が熱くなる。
「い、イヤです! 離れてください!」
「…そう? 残念」
無理矢理に鹿屋野を引き離す榮。
鹿屋野は首を傾げ、不思議そうな表情で言う。
対して、はあはあと息つく榮。
何を考えて抱き着いてきたのだろうか。
訳が分からない。
顔を上げると、鹿屋野の姿は無い。
はて、と思う榮。
足元を見ると、鹿屋野はパタリと倒れている。
雨で濡れた芝も気にせずに。
「…あー、足挫いたー、歩けないー」
如何にもな棒読みで言う鹿屋野。
「そ、それじゃあ、私はこれで…」
「…雨冷たいなー、このままじゃ風邪ひいちゃうかもー」
「…」
「…誰かおぶってくれないかなー」
「…」
「…冷たいなー、早くしないとなー」
「…分かりました! 家まで連れて行きます!」
「…本当?」
「全くもう! 背中に乗ってください!」
そう言うと鹿屋野は、素直に立ち上がって榮におぶられた。
頭を抱える榮だが、こうなっては仕方ない。
ジンワリと背中が湿るが、我慢だ。
「…家はあっち」
鹿屋野が指差す方向。
そちらを見ると、確かに家が見える。
芝が生えたこの原っぱよりも幾分か高い位置にある。
鹿屋野はそんなに重くは無いがこれは重労働だと、榮はウンザリした。
―――
十分ほどで鹿屋野の家へ到着した。
玄関の前に到着すると鹿屋野は健やかに歩き、鍵を開けて家へ招いてくれた。
もう怒る気力も失せていた。
「…お茶。飲んで」
「はあ…ありがとうございます」
お茶を出された。雨で冷えた体には丁度良い。
ズズズ…とすすり、ほうと息を吐いた。
冷えた体が内から温まる。
一緒に出されたお漬物。茶色身を帯びた菜っ葉のようだった。
僅かな酸味とザクザクとした感触。塩味が強いが、僅かな甘みもある。
お茶とよく合う。うむ、病み付きになりそうだ。
パクパクと食べ進める。
あっと言う間に小皿に盛られた漬物がなくなった。
「…お代わり。いる?」
「是非とも!」
先ほどまでの猜疑心はどこへやら。
榮は鹿屋野に対して心を開いたようだ。
「…いっぱい食べてる。嬉しい」
「このお漬物美味しいですね! 何のお漬物なんです?」
「…野沢菜。裏の畑で獲れるから、漬けてる」
なるほど、自家製のお漬物か。
通りで、市販の物に比べて優しい味がするわけだ。
それに野沢菜。
話しには聞いた事があったが、食べるのはこれが初めてだ。
「冬に出るお漬物だと聞いていましたけど、この季節でも大丈夫なんですね」
「…地下は夏前でも涼しいから。年中食べられる」
なるほど、地下があるのか。それなら納得である。
茎のザクザクとした触感と違い、葉の部分はシャキシャキとして甘みが強い。
「そういえば鹿屋野さん、彫刻家とおっしゃっていましたけど」
「…うん。これでも有名。聞いた事、ない?」
首を傾げて言う鹿屋野だったが、生憎と榮はそういった事には疎い。
骨董品ならば少しくらいは語ることが出来るが、現代の工芸家については全く興味が無いのだ。
「すみません、あんまり詳しくなくて」
「…残念。なら、覚えて行って」
そう言い、鹿屋野は立ち上がり棚を探る。
着替えたのだろう、これまた白いワンピースは彼女にピッタリだ。
そして、サラサラと流れる黒髪と日に焼けていない白い肌は、まるで女神のような印象を榮に与えた。
思わず見惚れていると、鹿屋野は一抱えもある彫刻を床に置いた。
「これは?」
「…私が彫った。どう?」
大きな猪と三匹のウリ坊。
大きな猪は牙を剥き出しに何かに対して威嚇をしている。傷つきながらも必死な様子、死にもの狂いな表情がありありと表現されている。
対してウリ坊は、三匹纏まって呑気に眠っている。見ているとこちらまで眠ってしまいそうな、安らかな眠り。
静と動、親と子。その対比。
「まるで生きているみたい。眠っている姿と威嚇している姿が、本物みたいです」
「…うん。凄いでしょ」
凄い。無生物の木を彫っただけで、ここまで生き物に近づけられるなんて。
まだ若年だろうに。どれだけの努力をすればここまで練り上げられるのだろう。天才、なのだろうか。
「けれど…」
「…けれど?」
「なんだか可哀相。子どもを守ったのに、報われないなんて」
榮はそう感じたのだ。
子を守った親猪が殺され、そして眠っているウリ坊が無残にも喰い尽くされる未来を予感した。
自然なのだ。ここまで傷ついたら助かる見込みは無い。
「…そう。残酷だけどそれが当たり前。この猪は死ぬ。子どもも喰われる。自然だから」
そう言い、榮の手を引く鹿屋野。
されるがままに立ち上がり、連れられて別室へ入った。
「うわぁ…凄い」
壮観だった。
今まさに飛び立とうとする鷹。獲物を狩ろうとしている熊。辺りを窺う鹿。
その全てが躍動感に溢れ、生き生きとしていた。
入った瞬間、それらが自分を見ていると錯覚したほどだ。
「これ全部、鹿屋野さんが彫ったんですか?」
「…私は彫っていない。自然の中にある風景を彫り出してるだけ」
卓越した技能を持つ人間は、そういった感覚を持つ事があるという。
ある有名な彫刻家も『石の中に存在するイメージを彫りだしているだけ』と言ったと聞いた事がある。
きっと鹿屋野も、そういった天才の一人なのだろう。
榮の手に何かが握らされた。
先ほどの冷たい腕とは対照的に、温かく柔らかい手だった。
「これは?」
「…あげる。私が彫った物」
手を開く。
何かの葉っぱを模した物だろう。
葉脈まで細やかに再現された、木彫りのネックレスだ。
光を反射するような光沢。僅かな芳香も漂ってくる。
「なんだか、貴重そうですけど…」
「…さっきの木から削り出したの。大切にしてね」
つまり、榧の木のネックレスらしい。
派手ではなく、日常的に付けていてもよさそうだ。
「いいんですか? 本当に」
「…うん。私だと思って」
流石に、昨日今日で会った人の代わりには出来ないが、折角の好意だ。ありがたく受け取ろう。
首に手を回し、うなじのあたりで留める。丁度良い長さだ。
「…うん。似合う」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
そしてその後何時間か話をし、手を振りながら鹿屋野の家を後にした榮だった。
―――
「へえ、鹿屋野に会ったの?」
屋敷へと戻り、傘を玄関先に広げて置く。
料理の準備をしていた浅葱へと挨拶をし、矢尾の待つ部屋へと戻った。
そして、事務作業が終わったのか横になっていた矢尾にネックレスが見つかり、詳しい話を聞かれた。
どうやら矢尾は、鹿屋野と知り合いのようだ。
「お知り合いなんですか?」
「ええ、たまに万屋に来るのよ。彫像とかを持ってね。けれど…」
矢尾はジッと、榮の胸元のネックレスを見つめている。
なるほど、彼女は『万屋 矢尾』のお客様だったのか。
しかし、榮は彼女の顔に見覚えはない。バイトを始める前に来たのだろう。
「人嫌いって言ってたくせに。珍しい事もあるのね」
矢尾はそう言うが、榮にはそんな風には思えなかった。
少しエキセントリックな言動をしていたが、至って普通の女性だった。
むしろ好感を持った程だ。
「それで、何をしたの? あの人嫌いに襲われでもした?」
「襲われてません! 何を言うんですか全く…」
襲われてはいない。
突然に抱きつかれただけだ。やましいことはない。
「ふぅん、そう?」
矢尾はニヤニヤと笑みを浮かべている。
まったく意地の悪い。
「鹿屋野の彫刻、展覧会にも出して賞を取ってるんだけどね。人嫌いだしあんな辺鄙な場所だしで、中々出張ってこないのよ」
へえ、なるほど。
あんなに生き生きとした彫刻だ。
素人目に見ても素晴らしいとわかる。
しかし、賞を取っているのか。まさか有名な方だったとは。
「メディアにも全然顔を出さないみたいで、仙人だとか勝手に呼ばれてるのよ。ホント、馬鹿みたい」
肩を竦める矢尾。
確かに。榮も、仙人と言えばアカザの杖を持って髭を生やす姿を思い浮かべる。
しかし、当の本人は白いワンピースが良く似合う、美麗な女性だった。
「失礼致します」
襖の向こうから声が届く。浅葱の声だ。
音もなく襖が開けられた。
「矢尾様、榮様。夕餉の御用意が整いました」
そう言えば。
いつのまにか日はすっかり暮れていた。
日中歩き回ったせいか、お腹がぐうと鳴る。
さて、今日の夕飯はなんだろう。
矢尾が立ち上がり、榮も続く。浅葱が先導する形だ。
はて、どこに行くのだろうかと思う榮。
昨日の昼食と夕食、今日の朝食と昼食は先ほどの部屋で食べたのだが。
「あの、浅葱さん。どこへ行くんですか?」
「夕餉には菫様も御同席されます。食堂の方へと御案内させて頂いております」
菫。
この大屋敷の主であり、どうやら政財界の大物相手に占いを行っている人物。
顔を見たのは昨日の昼食後の時だけ。榮はどうにも彼女が苦手だった。
「あら珍しい。何のつもりかしら?」
「申し訳無いのですが解りかねます。菫様の御考えを私如きが推し測る等」
「そう?」
何度もこの屋敷へ来ている矢尾ですらも珍しいと言う。
まさか、何か粗相でもしてしまったのかと戦々恐々とする榮。
浅葱の後に続き、しばらく歩く。
数分程歩いただろうか。浅葱が廊下に座り、襖を開けた。
「矢尾様が御待ちです。御料理を御持ち致しますので、しばし御待ち下さい」
そう言われ、矢尾の後に続き榮も部屋へ入る。
薄暗い部屋だった。
榮と矢尾に宛がわれた部屋とは比べるべくもなく狭い。四畳程度の四角い部屋だ。
中央には丸い卓袱台が置かれていた。
向かいには菫が座っている。
そして言った。
「ようこそぉ。矢尾にぃ、助手さん。久しぶりに一緒に食べたくなっちゃったわぁ」
「珍しいわね、菫。何年ぶりかしら?」
「態々覚えていないわぁ。興味ないものぉ」
矢尾と菫は何言か会話をしつつ、座布団へ座った。
榮も恐る恐ると座る。
薄暗い部屋ながらもそのドレスは妙に映えている。
逆に、彼女らの妖艶な美貌は薄暗闇で引き立っていた。
「鹿屋野から聞いたわよぉ。あの人間嫌いがぁ、プレゼントを渡したってぇ」
右隣に座る菫が榮に問う。
プレゼント。
思い当たるのは、胸元に提げているペンダント。
「菫さん、鹿屋野さんをご存じなんですか?」」
「パトロンよ。鹿屋野の面倒を見てるの。家も器具も何もかも、用意したのは菫」
なるほど。
そう言われると、この山の持ち主は菫だ。
彼女に無断で家を建てたり気を伐ったりはできないだろう。
「うふふぅ。鹿屋野の腕は凄いわぁ。作品を一目見てぇ、気に入っちゃったのぉ」
確かに。彼女の作品は凄かった。
生き物の造形は勿論、その呼吸音や鼓動音までも伝わってきそうなほどだった。
「生き物の『死』を見事に体現していてぇ。私ねぇ、生き物が最も輝くのは死に際だと思ってるのぉ。生きようと護ろうと必死で足掻いてもがいてぇ、結局死んで未練を残した思念。その『死』をありありと表現してぇ。素晴らしいわぁ。榮さんもそう思ったでしょぉ?」
羽ばたく寸前の鷹。獲物に喰らい付こうとする熊。必死で逃げ出す鹿。
生きているような躍動感。死を創り出す瞬間。死を目の当たりにした直前。
それら全てが死に直面した場景を表していた。
それは分かる。
彼女の彫刻には『死』が直面していた。
その全てが、きっとそういう意図だったのだ。
しかし榮は、別の物を感じた。
「…私は、違うと思います」
「違うぅ? 差し支えなければぁ、考えを聞かせて貰ってもいいかしらぁ?」
有無を言わせぬ口調で語る菫。
矢尾も興味津々といった風で耳を傾けている。
どうやら、喋るしかないようだ。
「私も初めはそう思いました。最初に見せられた猪の彫刻で『死』を表してるんだ、って。けど、他の彫刻を見ている時に鹿屋野さん、自然を彫っていると言いました。だから、私はこう思ったんです」
「ふぅん?」
「『死』を彫ったのではなくて『自然』の一部に『死』を見出したんだ、って。『自然』に内包された『死』です。生き物の『死』も『自然』の一部で、その『自然』を彫っているんだって。だから『死』を彫っているのではないのだと。そう思ったんです」
言い切った。言い切ってしまった。
言ってから気付いたのだが、屋敷の主である菫に大口を叩いてしまった。
追い出されるのではないか。今更ながらビクビクしていた。
「ふふぅ、ふふふふぅ、うふふふふぅ、面白いわぁ。そうねぇ、そういう考察もあるのねぇ。年を喰うと頭が固くなって嫌だわぁ」
「あ、あの、大口を叩いてしまって、すみません」
「いいのよぉ、うふふぅ。矢尾の慧眼に狂いは無かったのねぇ。謝罪するわぁ、矢尾。ご免なさいねぇ」
「別に、今更気にしてないわよ」
「失礼致します」
榮の話が一段落した頃、襖の向こうから声が掛けられた。浅葱の声だ。
「御食事を御持ち致しました」
音もなく襖を開けた浅葱。
丸いお盆には茶碗とお椀が乗っていた。
次に持ってきたのはおひつだ。蓋を開けるとホカホカの湯気が立つ。茶碗に盛られたご飯粒はピカピカと輝いていた。
両手鍋にはアツアツの味噌汁。ダイコンやハクサイ、ネギに豆腐と具だくさんだ。
そして長ネギが添えられた冷奴。大根おろしが添えられた鮭の切り身。黄色く染まった沢庵。
質素ながら、とても美味しかった。
特に具だくさんの味噌汁は雑多で濃厚だ。
あっさりとした今風の物も美味しいが、こういった物も好みだ。
「ごちそう様でした。浅葱さん、今日も美味しかったです!」
「有難う御座います。美味しそうに食べて頂き、私も喜ばしいです」
浅葱は三人分の食器を片づけ、部屋を出て行った。
矢尾と菫の二人は徳利を傾け猪口に注ぎ、透明な米酒を呑んでいた。
呑むかと誘われたが榮は未成年である。丁重にお断りした。
「矢尾、これぇ、やるでしょぉ?」
「いいわね。今日は四人揃ってるし」
菫が両の親指をクイと曲げ、何かのジェスチャーをした。
矢尾も分かっているらしく、すぐに返事をした。
「あの、なんの話です?」
「麻雀よ、麻雀。知ってるでしょ?」
麻雀。
牌を揃えて役を作るゲームだったか。
祖母の家で親戚が興じているのを見た事がある。
ロンとかポチとか言っていた気がする。犬の名前でも読んでいるのかと幼心に思ったものだ。
先ほど四人揃っていると言っていたが、まさか自分も勘定に入っているのか。
「私、ルール知りませんよ?」
「あらぁ、知らないのぉ? それならぁ」
一冊の本を渡された。その豊満な胸元から取り出したように見えたが、きっと気のせいだろう。
タイトルは『五分読むだけで妖怪も大満足。麻雀編』とある。出版社は妖華出版。聞いた事がない。
パラパラと捲ると、役の名前を始めとした基本的なルールが記載されていた。
「…あの、これは?」
「覚えなさいってことよ。大学生でしょ? 勉強しなさい」
そう言い、矢尾と菫は連れだって部屋を出て行った。
呆然とする榮。去り際、矢尾はこう言った。
「それじゃあ、後で浅葱を迎えに寄越すから。それまでに覚えておきなさい」
一人残された榮は、十五分後に浅葱が来るまで、泣く泣く本を読みこんでいるのだった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:野沢菜の漬物
設定:
至って普通の大学生。
大自然の中を散歩し、気分は有頂天。しかし熊からは全力で逃げるあたり、判断力は失っていない。
花や木に詳しい事が判明した。祖母の家ではもっと多くの花が植えられていたとか。
どうにも、人外に好まれるきらいがある。
・名前:浅葱
性別:女
職業:召使
好物:甘いもの
設定:
菫に仕える、榮と同年代と思われる召使。
散歩に出たいという榮に番傘を貸し出した。
どういうわけか、榮への視線は和らいでいた。
役割的には巫女が近いか。
・名前:鹿屋野
性別:女
職業:彫刻家
好物:漬物
設定:
まよい山の中腹ほどに居を構える彫刻家。
白いワンピースを着ているが、濡れて透けても気にかけないなど、容姿に無頓着。まだ年若い。
彼女の彫刻が菫の目に留まり山に居を移すことになった。その一切の費用は菫が持った。つまりパトロン。
彼女が彫る彫刻は、展覧会で賞を取ったりなどと社会的な評価はかなり高い。しかし本人が人嫌いを理由に取材は拒否している為、認知度は極めて低い。
『生物を創る彫刻家』『痴女』『彫刻一体数千万』とか呼ばれていたり。
当然の如く神様。




