日常のお話 邪編
邪編の『邪』は、彼の天邪鬼はきっと狂っていたの『邪』です。
―――
彼女が初めて吐いた『嘘』は、とても悲しいものだった。
―――
―――お父さん、戻ってきたよ。
それが初めての『嘘』だった。
気が付いた時には、母と二人で暮らしていた。
広くない部屋で暖かく。笑い合いながら。
母が遅い日はご飯を炊いて帰りを待ち、一緒に夕飯を食べた。
寒い冬の日は一つの布団に入り、暖かく朝まで眠った。
そして『嘘』を吐かないことを、口を酸っぱくして言われた。
今思い出すと、母にはきっとわかっていたのだろう。
十を数える頃だっただろうか。学校から帰ると、母が倒れていた。
久しぶりの休みで、午後から一緒に出かける予定だった。
その後のことはあまり覚えていない。気が付いた時には、母の姿は病床にあった。
日に日に弱る母の姿は、あまりにも痛々しかった。
意識がなく横たわるだけ。手を握っても反応がない。
毎日を諦めて、母の見舞いをしていたある日。ベッドの傍で椅子に腰かける人影があった。
黒い人。
真夏だというのに、上から下までを黒い衣裳に身を包んだ女性だった。
何やら優しげな視線で意識のない母を見つめていたその女性は、彼女に気づくとその視線を向けた。
『娘さんね。それも…先祖返り』
何を言っているのかわからなかった。
しかし何故か『嘘』を言ってはいないと直感できた。
『天邪鬼、ね。それも祖の。なんの因果かしら』
『天邪鬼』と。女性はそういった。とても愉快そうに微笑みながら。
『誰かに嘘を吐くのはやめなさい。騙られても謗られても。人間のままでいたいのならばね』
そう言い彼女の頭を撫で、女性は病室を出て行った。
その女性の名前は知らないままだ。
しばらくして、母の容体が急変した。
その日が峠と言われ、母に付きっ切りでいた。
深夜、甲高い音で目が覚め、母の体に縋りついた。
その意味を知っていたからだ。
そして、初めての『嘘』を吐いた。
その時の母の表情は今でも鮮明に憶えている。
困ったような微笑むような。涙を流すような。
数日後、自分の父という男性に引き取られた。
どこからか母の訃報を聞いたのだという。
父は優しかった。どうして母の元を去ったのか不思議なほどに。
数年ほど経ち、彼女も大学へ進学する時が来た。
県内では中堅どころに位置し、同時に『業界』と呼ばれる裏の世界と関わりのある大学へ進学することに決めた。
当初はそのつもりはなかったが、ある学部へ進学すれば、学費授業料免除の特待生扱いを受けるとなれば話は別だった。
彼女が入学した年、同じ学部生は十人ほど。
八人が『業界』に関わりのある人間。残りが彼女ともう一人。二人は『妖』だった。
同輩は『妖狐』なのだという。
その割には尻尾も獣耳も見えないので触ってみると殴られた。何故だ。
しかし自分がどんな『妖』なのか明かす段階になって戸惑った。
幼い頃に言われた『天邪鬼』と伝えておいたが、彼女の生き方が変わるわけではない。敵意の籠った視線を向けられたところで痛くも痒くもないのだ。
それからは『妖狐』の同輩とつるむ様になった。
おもにハチャメチャ騒ぎを起こすのは彼女のほうで、それを宥め苦労するのは同輩のほう。
真夏に桜並木を満開にして『業界』の人間に拘束された時は肝が冷えたが、なんとか逃げおおせた。
『日本全国特産研究会』という『妖』のみが入ることが許される研究会に入ると、何故だか『妖狐』の同輩もついてきた。
見聞を広めるのも必要なことだというのが同輩の持論だが、どうにも人慣れしていない同輩なのだ。
『鬼』である先輩ほどではないが、そういう『嘘』には敏感なのだ。
『日本全国特産研究会』での活動はそれなりに楽しむ事ができた。
『嘘』が嫌いな先輩の一人には煙たがられてはいるが、休日を利用して地方へ旅行に行くのは大変興味深い。
主に陶磁器について調査をしている。完全に趣味の領域だが。
寂れた村落で崇められていた大皿だったり、鮮血が溢れる丼だったり、汲んだ泥水が真水になるカップだったりと。
そんな尋常ではない物が主だ。危うい事になった事もあるが、自分の『力』の使いようで脱出することができた。
今までの人生からは考えられない、楽しい日々だった。
そうして一年が過ぎ、四月も半ばの事だっただろうか。
いつも通り授業を終わらせ研究会が入っている部屋へ行くと、扉の前にぼうっと突っ立っている人間がいた。
その姿を見た途端、自分の中の『天邪鬼』としての本能が疼いた。
―――騙したい。滅茶苦茶に騙して失望されたい。
『天邪鬼』として真逆の事を感じたのかもしれないが、そんな破滅的な思考が駆け巡った。
そうして人間に話しかける。気に入られたかったからか、それともやはり『天邪鬼』としての性質ゆえか。
極めて平常に、まともに。普段からは考えられないほど真面目に。
「どうかしましたか?」
自分でも信じられない程に落ち着いた声。
その声でようやく気付いたのか、振り返ったのは女性だった。
―――なんか普通な。けど人間にしては綺麗な…
先輩の様な『傾国』でもなく、後輩みたいな『深窓』でもなく。
人間として逸脱しない程度の、いわば『普遍』
しかしどうしてか惹かれる。彼女以上の美貌など『業界』の者ならば腐るほどいるのに。
―――あれ? けど人間ってこの場所分かったっけ?
彼女が所属する『日本全国特産研究会』は、一言でいえば『妖怪』の吹き溜まりだ。
古来、人間を脅かしてきた『妖怪』は、現代では人間社会と共に生きる事も多い。
『人』と『妖怪』の中でも、互いに愛し愛す者が増えたのだ。そして生まれるのは、要するにハーフだ。お互いの。
そして時たま『妖怪』としての血が格段に濃い、先祖返りとも呼ばれる現象が発生する。そしてハーフよりも強い『力』を持つのが常だ。
彼女もそうだ。そして先輩も同じく。
この大学には『業界』に身を置く者が数多く在籍している。少し前『諏訪』の一人娘が入学すると、所属する学部が賑わったのは記憶に新しい。
『業界』の者は一般人には持ちえない『力』を持つ。そんな事に優越感でも持っているのか『業界』の人間は横柄な態度を取る者も多い。
しかしこの大学では大人しいものだ。
大学の設立には『逸者』と名高い化物が関わっていると聞く。そんな場所で騒ぎでも起こそうものならば、この『業界』では生きていけないからだろう。
とにかく、一般人と『業界』の者は相性が悪い事が多い。だから、一般人には入る事のできない『結界』で囲われた場所も幾つか存在している。
この『日本全国特産研究会』の部屋もその一つ。しかし時たま迷い込む者もいるのだ。
偶然だったり、奇跡だったり。
「あ、いえ。面白そうな研究会もあるんだなって」
「新入生でしたか。どうです? 大学生活は」
「面白いです、間違いなく。自由に講義を決められて、けれど責任も求められて。それに学食も美味しいですし」
新入生としては当たり前の返答だろう。
しかし大学には四年ほど通う事になる。その過程で感想が変わる事などままある事だ。
「そうでしょう。けれど油断だけはしないでくださいね? 気が緩みすぎて講義をサボって留年した同級生もいましたから」
「あはは…気を付けます」
そう言い、困ったように笑う…そういえば名前を聞いていなかった。
「そう言えばお名前は? 多分初対面だと思いますけれど。私は麻績と言います」
「あ、申し遅れました。榮と申します。旧字の方で」
―――さかえ、榮…というと、山上の?
麻績と名乗った彼女は、その苗字に聞き覚えがあった。
確か、諏訪と連なる五つの家の、二番目に大きい家だったか。
とはいえ、他の三つの家は廃れたか融和されたか。その栄光も既に過去のものだ。
まさか『業界』の関係者かと勘繰る麻績。
しかし今年度『榮』の所の娘が入学するなど、小指の先ほども話題になっていない。
ここ十数年、緩やかに衰退していくと噂されている家でもあるのだから。
―――うーん…なら関係ない、かな?
「ところで麻績さん。こちらではどういう事をされているんですか?」
「えっと…そうですね。口で説明するよりも実際に聴いてみた方が早いと思いますよ。この後お時間はありますか?」
「お昼を食べた足で来ましたので、特には。講義もありません」
「そうでしたか。実は今日、ちょうど発表会があるんです」
「発表会、ですか?」
「発表会とは言っても堅苦しい物ではありませんよ。それぞれが好きな事を調べて好きな様に纏めて発表するだけです。十分もあれば終わりますよ」
「へぇー…どういう事を調べたりするんですか?」
「そうですね、本当に色々ですよ。先輩は色んな場所の祭事を調べたりしてましたね。同級生が一人いますけど、それは食べ物についてだったり」
「ちなみに麻績さんは何についてをお調べになったんですか?」
「私ですか? 私は焼き物についてですよ。陶磁器、といった方が分かりやすいですね」
「陶磁器というと、白磁とか青磁とかですか?」
「はい、そうですよ。他にも地方に根付く独特の焼き物もありますね。松代焼とか備前焼も。中々お詳しいですね。興味のない人の方が多い分野なんですけど」
「アルバイトをしているお店で扱っていまして。価値は分かりませんけど、良し悪しだけでも分かるように教えて頂いているんです」
「なるほど、アルバイトで。ちなみにどちらで?」
「えっと、この近くの―――」
栄と名乗った女性が答えようとした時、麻績たちの後ろ。
それも胸元よりも下の方から声が聞こえた。少女にも似た、幼い声だった。
「邪魔だ退け。ぶち殺すぞ」
幼い声に似合わず、苛烈な言葉遣い。
麻績にとっては聞き慣れた声。しかし女性は首を傾げ視線を向けた。
「小学生、ですか?」
「いいえ、先輩です。四年生の」
果たして彼女の『小学生』という言葉は言われ慣れているのか、気にも留めずに続けた。
「なんだ新入りか。冷やかしだったらぶち殺すぞ」
「あ、いえ、私は―――」
「まあまあ、決めるのは発表を聞いた後でも遅くありませんよ」
そういい麻績は女性の手を引いて扉を開ける。
扉を開けると二つの人影が。
『鬼』の先輩と『妖狐』の同輩だ。
麻績の心は踊っていた。
久しぶりに実感した『天邪鬼』としての本能。
それにどうして一人の人間を見ただけで本能が擽られたのか、果たして何に惹かれたのか。
それを解き明かすのが至上の命題なのだと、感じ取った。
・深桜
設定:
人間として生きていた天邪鬼。幼い頃は何も知らなかった。
母の死に際しその『力』を初めて発現させ、その精神性は徐々に『妖』へ近づいていった。
彼女の『力』は、周りの誰かを裏切りそして叶える事。
母親は夫ともう会えないと思っていた。だから裏切り叶え、彼女は父と再会できた。
夏に桜は咲かないと誰もが思っていた。だから裏切り叶え、桜並木が満開となった。
その『天邪鬼』としての本能からか、常に誰かに嘘を吐き失望されたいと思っている。だから『鬼』の先輩とは一生分かり合えない。
どうしてか『日本全国特産研究会』の前で佇んでいた女性を見て、騙して失望されたいと『天邪鬼』としての本能が刺激された。懇切丁寧な口調で応対したのも、その後の本性を見せて失望される為。
苗字は麻績。彼女の母は、間違いなく人間である。
どうして彼女が『天邪鬼』として生まれたのか。気の遠くなるほど遠い祖先の一人が『天邪鬼』だった為。そして彼女は先祖返りを起こし『天邪鬼』として生を受けた。
だが本人も知らないが、彼女は『天邪鬼』の祖の『天逆毎』である。強力な『法則』を捻じ曲げる『力』もその為。
・女性
設定:
『日本全国特産研究会』の前で佇んでいた学生。一年生。
『天邪鬼』の本能を疼かせる、偶然か奇跡か『結界』で隠された研究会を看破するなど、その異常性は留まることを知らない。
古物を取り扱っている店でバイトをしているらしく、皿や壺に興味がある。しかし『価値』は分からない。これからも、ずっと。
深桜の見立てでは『普遍』で人間にしては綺麗だという。しかしだからこそ惹かれるのかもしれない。
友人には『深窓』と呼ばれる『業界』での有名人がいる。彼女はその事を知らないが。
深桜とは案外、気が合っていた。
気が狂っている者同士、なにか感じ取ったのだろう。




