日常のお話 狐編
狐編の『狐』は、狐だった彼女がヒトへと至るまでの『狐』です。
―――
彼女はずっと『ヒト』になりたかった。
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彼女が産まれ落ちたのは、名も知れぬ山の一角。
彼女に名はなかった。
多くの兄弟姉妹と共に、狐として。
多くの兄弟姉妹と共に、獣として。
しかし、ただの狐ではなかった。ただの獣ではなかった。
彼女は知性を持っていた。産まれ落ちた当初から。
獣という枠には収まりきらないほどの。
―――どうして私は、狐として産まれたのだろう。
縄張りに入ってくる巨大な生き物。それは人間と呼ばれていると知った。
山に積もる木の葉にも迫るほどの数が、山よりも広い世界に満ちていると。
知りたいと思った。好奇心を持ったのだ。それは獣のモノではなく。
ずっと昔、九尾と成った大妖が祖先にいたからかもしれない。
その『力』が欠片ながらも、彼女の代で芽生えたからか。
彼女は早々に親元を離れた。
兄弟姉妹は乳離れを済ませていない頃の事。
それは逃避だった。同じ姿をしているモノの隣にいれば、自身もそうだと嫌が応にも理解してしまうから。
孤独な旅は長く。育ての親となる一人の人間と出会うまで続いた。
そして旅の途中、尾が二股となった。身体には何か『力』が満ち溢れた。
―――君は、頭が良いんだね。
頭を撫でられ抱き締められた。
暖かい。涙が流れた。
誰かの温もりとは、こうも染み入るものなのだと。
まるで母の胎内にいた時を思い出す。
何年かぶりに、警戒することなく熟睡することができた。
目が覚めると、柔らかい布切れに包まれている。
落ち着くにおいが感じられた。
―――昔、教師をしていたんだ。
膝に座り『絵本』を読み聞かせられた。
童話。昔話。民話。寓話。
本当に色々な話を。
本を咥えて読んでとねだると、優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
―――勤勉な生徒だね、君は。
そう言って、まるで一人の人間と接するように。
だから、彼女は悲しかった。自身が獣であることに。
だから憧れた。人間を。
そして妬んだ。人間を。
しかし羨んだ。人間を。
『ヒト』として産まれ落ちたかった。
人間に、なりたかった。
―――
―――久しぶりね、ご老公。
人間と共に暮らして、数年。
一人の人間が訪ねてきた。
共に暮らす人間よりもずっと若い、女の声。
寝床から耳だけ向けて会話を聞く。
どちらも互いを敬って、その間に敵意は感じられない。
―――ええ、お久しぶりです店主。何年ぶりでしょうか。
―――貴方が教師を辞して以来ですから、十年は経つかしら。
―――変わりませんね、店主は。私などもう、節々が痛くて。
―――ただ変われないのよ、私は。貴方が羨ましいわ。
―――ご謙遜を。奥へどうぞ。お茶を用意します。
そんな会話の後、襖を開いて入ってきたのは、一人の女。
不吉な黒いドレス様の衣服に身を包んだ、妙齢の女。
その姿を見た瞬間、彼女の全身の毛が逆立った。
この女は危険だ、と。
『力』を行使した。
数か月前にようやく形にする事ができた、唯一の『力』
彼女の口に青い炎が灯った。漏れ出る炎塵は大きさを増し、球状を成した炎は女へ向けて放たれた。
『狐火』と呼ばれる、妖狐が行使する『力』の一つ。
熟練の妖狐ならば刹那の間で行使できるそれに、彼女は数秒を要した。
―――あら珍しい。
女はまるで羽虫を払うが如く、手を軽く振るうだけで『狐火』を霧散させた。
だが彼女の眼は、未だ女への敵意を宿したまま。
それを見て何を思ったのか、女は薄く微笑み彼女に近づく。
―――産まれて三年…いえ、四年ってトコね。それなりよ、アナタ。
自身の全力を。全霊をかけて放った『力』をそれなりと言ってのけた。
カッと頭に血が上る。しかし女に跳びかかる寸前、襖の向こうから落ち着くにおいが近づいてきた。
迷惑はかけられない。そう思うと頭も冷えた。
―――どうかされましたか?
お盆には二客の湯呑。お茶菓子には羊羹が。
机へお盆を置くと、手慣れた様子で用意を進める。
数分後には、湯呑へと若草色が注がれた。
このにおいは、彼女が好きなにおいの一つだった。
人間が座布団に座ると彼女はトテトテと近づき、その膝の上で丸くなる。
丸くなった彼女の背を優しく撫ぜる手。この瞬間が、堪らなく好きだった。
―――珍しいわね、狐なんてここいらで。
―――数年前、庭で倒れている所を。不思議でした。忽然と現れたんですから。
―――たまにあるわよ。私も、この眼で見たのは数回だけれど。随分と懐いているのね。
―――ええ、自慢の生徒ですよ。
―――生徒? この狐が?
―――何かを学ぶのに老若男女、人獣貴賤は問われませんよ。意志さえあれば、何時でも誰でも。門戸は常に開いていますから。
―――そう。ならばいいけど。
そう言って女はお茶を啜る。
そして一息吐き、言う。
―――それじゃ、本題に入りましょうか。私を呼びつけた理由、教えて頂戴。
―――戸籍を一人分。ご都合頂きたいのです。
―――それくらいなら容易いけれど。性別と年齢は?
―――そう、ですね…高等学校を卒業した女性の物を。
そう言い人間は、狐の頭を撫でた。
―――名前は? 好きに決められるけれど。
―――奏、と。
名前を呼ばれた彼女は顔を上げた。
それまでなかった、共に暮らすまで呼ばれる事のなかった自分だけの名前。
―――ふぅん…一週間したら抄本を郵送するわ。心配ならそちらで謄本を取って頂戴。
―――感謝します。これで、憂いもなくなりました。
―――それじゃ、私はこれでお邪魔するわ。精々、長生きしなさいな。
―――ええ、できる限り。大事な生徒もおりますから。
―――
人間が亡くなったのは、それから数か月後の事。
目が覚めると身体が『ヒト』になっていた。
数分経つと、声も自由に出せるように。
ようやく、念願叶って『ヒト』に成れた。
共に暮らす人間と一緒の『ヒト』に。
寝床から出て人間の元に行くと、息をしていなかった。
揺すっても、叩いても。身じろぎ一つしなかった。
温かかった手が、冷たくなっていた。
ポッカリと心に穴が開いた感覚。
気が付くと、人間は骨だけになっていた。
生前の姿を写すものは写真だけ。一匹の獣と共に映った一枚のみ。
そして数日経つ頃、とある万屋の店主をしているという女が訪ねてきた。
以前やってきた女だ。
―――あら、ヒトに成ったの。それは重畳。面倒ごとが減ったわ。
そう言った女は封筒を取り出す。
そこには彼女の名前が書かれていた。
―――これ、アナタの分の入学願書。普通の大学よりは融通が利くわ。似たような輩もいる事だし。
何度か、人間に連れていってもらった事がある。
多くの人間が学びを受けている場所。
そこは彼女の憧れだった。
未知の知識を学ぶ事のできる場所。好奇心が満たされる場所。
―――学力は問題ないでしょうし。後見になったのだからこれくらいは。ご老公の頼みでもあるし。
ご老公、つまり共に暮らしていた人間が最期に願った事。
撫でてくれた、叱ってくれた、愛してくれた。そして何より、命を救ってくれた。
ならば、彼女がする事は決まっていた。
「入学します。けど、融通は必要ありません」
―――そう?
「あの人が教えてくれた事は、忘れません。それが私の恩返しですから」
生きた証を残す事。それは亡くなった者を忘れない事と同義。
人間が教えてくれた多くの事を忘れない事が、彼女ができる最大限の恩返し。
―――へえ、面白いじゃない。見せてもらおうかしら、その意志を。
店主の眼中にすらなかった、火を吹いたあの時とは違う。
自分の意志を言葉に出し、対等に『ヒト』として立ち会う。
ニタニタと笑いながら店主は去っていった。
彼女は拳を握り締めた。そして、決意の言葉を口にする。
「忘れません、絶対に」
今は亡き一人の人間を、絶対に忘れない。
それがたとえ茨の道だとしても、違えないよう。
心に刻みつけるように。
涙を流しながら。
・奏
設定:
かつて、狐だった少女。外見年齢は18歳ほど。
産まれた直後より、獣という括りには収まらない高い知性を持ち、狐ではありえないほどの『好奇心』を持っていた。
その為か、乳離れを待たない内に出奔。しかし初めての冬に身体が凍え死にかけていた所を、一人の人間に救われた。
その後は人間の家で数年を共に過ごし、愛され叱られ『喜』『怒』『楽』を知った。多くの経験を経てか、尾が二つに割れた。
尾が二つに割れた影響か、口から青い火を吐く事も出来るように。妖狐の初歩的な業。
しかし『ヒト』と成った朝、恩人である人間を亡くす。最後に『哀』を教えられた。
人間への恩返しは『忘れない事』
その遺志を自身が伝え続ける為に胡散臭い『店主』の勧める大学へと入学を決めた。
智恵を得た狐。好奇心を持った獣。感情を得た妖怪。
彼女は間違いなく『ヒト』である。
・穂高
設定:
孤独だった初老の男。かつては教師だった。
定年後、田舎へと戻り孤独な余生を過ごしていた。
しかし雪の積もった一際寒いある日、庭に倒れている一匹の狐を見つける。
周りに足跡はなく、忽然と現れたようだと述懐した。
狐が目覚めた際、その眼に獣らしからぬ光を見て直観し、最後の生徒として迎え入れた。
『孤独だった終生に色が付いた』と感じる程に充実した彼女との生活は、とても楽しい毎日だったとか。
また、万屋の店主を務める女性とも面識があり、戸籍の入手を依頼した。
彼女と共に過ごした数年後、突然に息を引き取る。
その最期は、きっと満足だった。
・店主
設定:
どこかで万屋の店主をしている。穂高とは古い友人の女性。
数年ぶりに連絡が取れた友人の家へ訪れ、そこで今は珍しい二尾狐を見つける。
敵意むき出しながらも理性ある狐の行動はある意味、店主の眼鏡にかなったようだ。
どうやら、狐が突然に現れた現象に心当たりがある様子。しかし、たまにと言う割に永い生の間で見たのは数回程度。極めて稀な現象。
穂高の死後、奏の後見人となった。その意地をどこまで張れるか。それを見届ける事を楽しみにしているとか。
・大学
設定:
県内に設立されている教育機関。私立大学。偏差値は中の上。
複数の学部、幾つかの学科が設置されており、県外からも学生も多い。
多くの支援も充実しており社会的な評価は極めて高い。
『業界』と極めて深い繋がりを持ち、関わりを持つ者のみが入学を許される学科が存在している。
また、創設者の意向により『妖』と称される者たちにも門戸を開いている。そちらは主に、創設者が直々に勧誘するらしい。




