日常のお話
なんだかんだと、大学へ通えるまでに回復したのは、意識を取り戻してから三日後だった。
合わせて一週間もの間ほとんどを、布団の上で過ごしていた事になる。
足の筋力が弱ってしまったのか、通学には休み休みで一時間はかかってしまった。
休み休みでこれだ。しばらくの間、激しい運動は難しいだろう。
「ふぅ…はぁ…」
這う這うの体で大学の正門にたどり着くと、周りからは何やら視線を感じる。
ちょうどお昼時。棟内からは多くの学生が出てくるところだ。これからお昼ご飯を食べに行くのだろう。
何故だかそれらの視線は一瞬、榮へと向けられる。何か物珍しいような視線だ。
しかし構内へ入ると、目の前を見知った先輩が通る。
榮よりも随分と低い身長。小麦のような明るい茶色の頭髪。そして鞄には尻尾のようなアクセサリー。
「穂高さんじゃあないですか!」
「うぎゃああああ!」
ギュッと抱き着き抱き上げる。ついでにふわふわの髪の毛に顔を突っ込み匂いを堪能した。
随分と軽い。ちゃんとご飯は食べているのかと心配になるほどだ。
そして何やら汗の混じった、しかし嫌ではない匂いが鼻腔を擽る。
しかしどうしたのだろうか、まるで化け物にでも襲われたような絶叫などあげて。
「なっ、ななななな!?」
背後からいきなりに抱き着かれ、なにがなにやら分かっていないようだ。
しかたなしに穂高を抱き降ろす。すると、白黒させていた視線を榮に向け、面白いほどに嫌な表情を作った。
「は、あ!? え、あ、え!? ちょっ! え!?」
「あの、流石にそんな反応されると落ち込みます」
「…えっと、榮、よね?」
「はい、榮です」
「ホントのホントに榮よね?」
「ホントのホントに榮です」
「―――あの、馬鹿で能天気で人の気持ちなんて微塵も考えない、あの榮よね?」
「穂高さん、私の事そんな目で見てたんですね…」
なんというか落ち込んでしまう。
他人からの評価をまともに聞かされると、こんなにキくものだとは思わなかった。
「すみませんでした…もう二度と抱き着いたりしませんので…」
トボトボと肩を落とし去っていく榮。
これに慌てたのは穂高の方だ。
一週間ほど、詳細を言えば学園祭の二日目の午後から榮の姿が見えなくなった。
岡谷に詳しく聞くと、どうやら諏訪の跡取りと榮が喧嘩をしたと言う。
あれだけ仲良くしているのに、人間とは不思議なものだと思ったものだ。
そしてその隙を突くかのように、鬼無里の暗躍が始まった。
詳しく言うのは憚られるが、鬼無里の恐ろしさを垣間見た。敵にはしたくない。
兎にも角にも、榮を見かけたら連絡を入れろと言われている。ここで逃げられてはマズイ。
「ちょぉーっと待った! 今のナシ!」
「けど穂高さん、本気で嫌がってましたし…」
「いいからっ! 少し待ってなさい! 抱き着いてもいいから!」
「え、そう言われると何かやる気をなくすというか…」
「ああもうっ! めんどくさいわねっ!」
穂高に抱き着かれ動きを塞がれ、しばしの間。
人混みを掻き分け一人のお方が姿を現した。
艶がかり僅かにウェーブのかかったブロンドの髪。
自信に満ちた大きな眼。瑞々しい唇。整った鼻筋。
このようなお方などそうはいない。視線を向けて声をかける。
「鬼無里さん、お久しぶりです」
「…榮、か?」
「はい、榮ですよ?」
一週間顔を合わせないだけで、こうも顔を忘れられるものなのか。
穂高さんといい鬼無里さんといい。
しかし榮自身、自分の顔が取り立てて目立つという自負もない。特徴が薄いと、母親に言われたこともあるのだ。
「…ふむ、まあいい。久しぶりじゃないか。元気にしていたか?」
「あー…そうですね。それなりに」
まさか『神様』に殺されかけたなどと言えるわけもない。
「ところで…あれだ。その…髪の毛は、どうしたんだ。遅めの大学デビューか?」
とても言いづらそうに、途切れ途切れ言い放つ鬼無里さん。
そう、榮の髪の毛は真っ白なのだ。
かつての僅かに茶色がかった黒色などどこ吹く風、何にも染まらぬ無垢な色へと変貌していた。
これに気付いたのは、意識を取り戻した次の日。
お風呂に入るため脱衣所で衣服を脱いでいる時、鏡に映った自分の髪の色が真っ白になっている事に気が付いた。
それまで髪をいじった事などなかったのだから、とても驚いた。
毛染めも試してみたが、まるで撥水加工でもされているかの如く弾いてしまう。
だが、髪の色が変わった所でどうということもない。
しかしなるほど。髪の色が変わったせいで、まるで別人かの如くの扱いを受けてしまった。
そして、鬼無里さんの質問。
遅めの大学デビューでは決してない。そもそも原因不明なのだ。
意識を取り戻した時にはこうなっていた。
だが一応の、それっぽい言い訳を考えておいたのだ。
「…貧血です!」
「ひ、貧血?」
「はい! それはもう! 血が足りなくてフラフラでしたよ!」
嘘は言っていない。
矢尾曰く『血溜まりの中で倒れていた』のだから。
「な、なるほど。酷い貧血だったんだな。見舞いにも行けずに申し訳ない」
「いえいえ、鬼無里さんのお手を煩わせるほどの事でもありませんでしたよ」
「ふむ…だが好都合か。放課後でいいんだが、部室に来てもらえないか?」
「部室にですか?」
部室というと『日本全国特産研究会』の事だ。
何度か言ったこともある。
「いいですよ。放課後にお伺いしますね」
「ああ、よろしく頼む。穂高、行こうか。お昼を御馳走しよう」
「は、はいっ! じゃあね榮、待ってるから」
そう言い残し、二人は人混みの中へ消えていった。
一人残された榮は、ぐぅと鳴ったお腹を満たす為に食堂へと歩みを進めたのだった。
―――
ザワザワと賑わう、いつもの食堂。
しかし普段と違うのは、お盆を持つ榮の髪の毛が白色だという事だろう。
なにやら視線を感じるが取って食われるわけでもない。気にするだけ面倒だ。
定位置である食堂のテーブル。
そこには背を向けて茶色い短髪の女性が座っている。そして僅かに見えるうなじは案の定、火に焼けている。
それに加え、ズルズルと麺を啜っている。きっとうどんなのだろう。
回り込んで対面に座りお盆を置く。
「岡谷。久しぶり」
「え、誰で―――あ、榮?」
一瞬、困惑気な表情を浮かべるが、直後にいつもの表情に戻る。
やはり持つべきものは友である。
「なんとまあ、遅めの大学デビュー? はっちゃけたね榮」
「それ鬼無里さんにも言われたよ。あと、これは貧血」
手を合わせスプーンを持ち食事を進める。
今日のお昼はオムライス。かけられたソースはデミグラス。
これが中々合って美味しいのだ。
そうして黙って二人ともに、箸をスプーンを進める。
そして榮が半分ほど食べ終わった時だろうか。
箸を置いた岡谷が話しかけた。
「そういやさ」
「うん?」
「一週間、なんで休んでたのさ」
「あー…それ聞いちゃう?」
「不機嫌な諏訪の近くにいた私の気持ちも汲み取って欲しいね。もう大変でさ。話のタネと、憂さ晴らしも兼ねて」
ニカリと、口元に嫌味たらしい笑みを浮かべて言い切った。
確かに。それならば岡谷に話してもいいだろうと思い、榮はスプーンを置いた。
「んー…色々あって、死にかけてた。いや、あれは死んでたのかな?」
「死にかけてたぁ? 榮ってさ、よくもまあそういう。なんていうかな、変な目に遭うよね」
「あはは、そうかも。けどね、面白い目にもあったよ。並行世界、っていうのかな」
「へ、並行世界っ!?」
岡谷の目の色が変わった。
やはりこちらでも、あるいはどんな並行世界でも、岡谷はオカルトに興味を持つのだろう。
あるいはそんな『法則』でもあるのか。
「ど、どんな感じだった!? 私と会ったり会わなかったりっ!」
「岡谷とも会ったよ。諏訪も近くにいた」
鼻息荒く、岡谷は手帳を開き書き込もうとする態勢に入っている。
これは話を続ければいいのだろうか、と勝手に思い話を続ける。
「私は退魔師、って言うのかな。諏訪と一緒にコンビ組んでてね。それで『白い鞘』って呼ばれて畏怖されてたみたい」
「はー…榮もなんだかんだそういう家系だもんね。並行世界だと順風満帆だったんだ。あ、言っとくけど榮の顔を見たのは大学が初めてだよ。諏訪みたく小さい時に会った事はないから」
二ヒヒと悪戯が成功したかのような笑みを浮かべて、岡谷はとんでもない事を言ってのけた。
思わず白い目で見てしまう榮だが、岡谷はどこ吹く風。
きっと諏訪と榮の関係を知りつつ、面白おかしく傍観していたのだろう。
「それでそれで、私は?」
「はぁーあ…なんだかんだ文句言いつつ、諏訪の近くにいたよ。けれど仲は険悪で。嫌味ったらしくお嬢様、って呼んだりしてた」
「あはは、その私も洒落てるね。私をもっと正直にした感じ。なんだかんだと、私だね。羨ましい」
「羨ましいんなら、変わる方法でも教えよっか?」
向こうの岡谷に教わった、並行世界の移動法。
それを実行すれば、きっと変わる事ができる。
榮がそう言うと、岡谷はキョトンとした表情を浮かべる。
そうしてすぐに、笑みを浮かべた。
「はは、ジョーダン。私は今の私が気に入ってるからね。他の誰かになるなんて真っ平ごめんだよ。絶対に」
「そう? ならいっか」
望まないのならば、教える事もない。
必要のないものは、知らないままがいい。
「さて、と。私はおさらばするよ。邪魔があっちゃ嫌だろうし、面倒ごとはご免だしね」
―――邪魔? 面倒ごと?
しかし言葉にする前に、岡谷はお盆を持って食堂を出て行った。
一人残された榮は、残されたオムライスを食べ進めようとスプーンを持ち―――
「さか、え…?」
何かが落ちた音が聞こえた。そして直後に聞き覚えのある声が。
後ろを振り向く。見慣れた人が立っていた。
しかしその立ち姿は、榮が知っていたものと随分と違う。
腰ほどまで伸ばされていた濡れ烏の黒髪は、バッサリと肩口付近で切り揃えられ。
華やかな和服で彩られていた衣装は、まるで喪服のような黒一色。
のほほんと朗らかな笑顔はなりを潜め、険しい色をした眼の下にはハッキリと隈が見て取れる。寝不足なのだろうか。
「ん、久しぶり諏訪。髪切ったの? 綺麗だったのに」
「え、うん…その、さかえも、髪…」
「脱色じゃないよ、貧血…って言いたいんだけど、たぶん違うかな」
榮がそう言うと、諏訪の悪かった顔色が更に青くなった。
きっと心当たりがあるのだろう。いや、なければおかしいか。
「あのね、健さんに殺されたんだ、私。殺されたってのもおかしいかな、生きてるもん」
「本当、なんだ、ね」
「うん。私も本気で殺そうとしたからお相子だけど。健さん元気?」
「しばらくは、安静にしてないと危ない、かも。けど、元気だよ」
「なら、よかった」
二人の間から会話が消える。
諏訪は榮の隣に座り、巾着の包みを開ける。
出てきたのは、いつものおにぎりではなくブロック状の総合栄養食。
きっと食欲がないのだろう。普段も白い肌だが、今はそれ以上に不健康で青白い。
「諏訪、大丈夫? 顔色も悪いし」
「うん、食欲、なくて」
ボソボソと言う諏訪。声にもあまり力が入っていない。
きっと、自分の信仰する『神様』が友人を殺しにかかって、それを知ってショックを受けたのだろう。
心の体調が崩れ食欲が減退し、それが表に出てきている。
良い友人を持った、と思う。だから。
「ごめんね、諏訪」
だからこそ、謝らなければならない。
喧嘩をしたまま別れてしまう事は、とてもとても悲しい事だから。
榮がそう言うと、諏訪の肩がビクリと震えた。
伏せられていた顔を恐る恐ると上げ、榮の目を見つめる。
まるで幼子が許しを請うかのように怯えた目をしていた。
「つまらない意地はって喧嘩しちゃって。でもね、気づいたんだ」
それまでの『神様』に殺される以前の彼女ならば、とても口にはできなかった言葉を。
ごく自然に。ごく普通に。
「神様はいるよ」
幼い頃つまらない意地をはって酷い事を言ってしまい、それきり逢っていない親友の顔が脳裏を過る。
そして今まで『万屋 矢尾』を訪れたお客様の顔も。
そのすべてが『神様』で、彼ら彼女らはとても身近に存在している。
世界はそんな『法則』に包まれている。そんな荒唐無稽な事を言われても、今なら信じてしまいそうだった。
「わ、わたしも、ごめん、なさい」
そう言う諏訪の瞼からは、涙が溢れていた。
まるで今まで溜め込んだモノを吐き出すように。
「し、知ってたのにっ、わたしっ。さかえが、かみさまをっ、信じて、ないってっ」
しゃくりあげながら流れるそれを手で拭いつつ、なおも続ける。
「なのにっ、ムキになって酷いこと言ってっ、無理やり押し付けてっ。ごめんなさい、ごめんなさいっ」
顔は涙でクシャクシャになり、掠れた声は途切れ途切れ。
しかしそれでも、榮にはハッキリと聞き取ることができた。
「わたしっ、神様なんていなくっても、さかえがいれば、いい」
「うん。ありがとう、諏訪。私なんかに、そう言ってくれて」
それきり、諏訪は涙を流し続けた。
それきり、榮は黙りこくっていた。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:誰かと食べる食事
設定:
至って普通の大学生。
おおよそ一週間ぶりに大学へ。しばらく寝たきりだったせいか、到着した時点でもう体力の限界だった。目に付いた先輩を襲う辺り、やはり本質は変わっていない。
久方ぶりに訪れた食堂では、年上の同輩と一緒に食事をとった。
その後、喧嘩別れをした友人と対面し、その関係は変わらず続けられる事となった。
彼女の身体はもう、人間のものではない。
彼女の精神はまだ、人間のものであった。
しかし彼女の魂は、そのどちらでもない。
・名前:穂高
性別:女性
職業:大学生
好物:稲荷寿司
設定:
『日本全国特産研究会』の愛玩動物な二年生。
後輩に抱き着かれ、まるで化け物にでも取って喰われるような悲鳴を上げた。
事実、彼女からすれば後輩は、遥か高みにいる化け物になったので。
後輩の事は『馬鹿で能天気で人の気持ちなんて微塵も考えない』と評している。人でない彼女が言えた義理ではないが。
やはり狐。位は中位くらい。程度でいえば二尾。
・名前:鬼無里
性別:女
職業:大学生
好物:コロッケ
設定:
『日本全国特産研究会』の傾国美女な会長。三年生。
後輩に呼ばれ、人混みを掻き分けやってきた。
そして一目見て、彼の後輩の変貌ぶりを確信した。自分を超える化け物だと。
やはり鬼。位は上位以上。程度でいえば紅葉。
・名前:岡谷
職業:大学生
好物:うどん
設定:
短髪で陽気な大学生。
ここ数日程、機嫌の悪い親戚の世話でてんてこ舞い。主に周りとの折衝役で。
友人の髪の毛が真っ白になった事に対して、単に『大学デビュー』と茶化した。
大学入学から今の今まで、親戚と友人の関係を面白おかしく傍観していた。けれど存外、楽しめたらしい。しかし面倒ごとはご免らしく、諏訪の姿が見えてさっさと去って行った。
並行世界の自身の話を聞き『洒落てる』『羨ましい』と漏らした。
しかし『今の自分以外の誰かになる』ことは彼女にとって許容できない事らしく、その確固たる信念を見せつけた。
信念は確か。ただし『力』は伴わない。
・名前:諏訪
性別:女
職業:大学生・祓い師
好物:御御御付け
設定:
大和撫子な大学生。
榮の前に姿を現した時、かつての美貌など面影はなくボロボロの様相だった。
最も信頼していた『神』が、最も愛した『人』を手に掛けたと知り、もはや何も信用できなくなっていた。唯一、幼馴染である親戚だけは傍にいたが、それでも近い内には離れる事になっていたとか。
一番の親友と喧嘩別れをし、そしてもう二度と会えなくなった。そう信じた彼女の内には、自身への『悪意』と『怨み』が満ち溢れ、遠くない内に『人』ではなくなっていた。
しかし寸前、もう逢えぬと信じていた親友に再会し、それら『呪い』は霧散した。
もしも『人』ではなくなっていたら。
元来持っていた強大な『素質』から、それは『妖』『人』『神』の区別なく殺戮する、哀れな躯になっていた。




