現世のお話
冷たく寒い水底から浮き上がってくるように、意識が浮上した。
暖かい。温かい。
微睡にも似た感覚の中でも、それだけは分かった。
「起きた? 榮」
聞いた事のある、懐かしく優しい声。
ゆっくりと眼を開ける。眩しい光に目が眩んだ。
左手で明かりを遮り、しばし眼を瞑る。
「やお、さん…?」
か細い声。
まるで幾日もの間何も食べていない、病人のような。
「バカね。私以外誰がいるのよ」
額に冷たい物が乗せられた。
触ってみると濡れている。絞ったタオルだろう。
「いま、は…」
「四日間、ずっと眠ってたわ。もう起きないかと思ってた」
―――あれから、四日。神様が訪ねてきて、それで…
そうだ。
殺されそうだったから、包丁を持って殺そうとして、だから殺されて。
「ほうちょう、は、だいじょうぶ…でしたか」
「…ええ。無事よ。元気が有り余ってるわ」
「そう、ですか…」
よかった。
どうにかならなくて。
それとも、もうどうにかなっているから、最早どうにもならないのかもしれない。
「…分かっているのね、榮」
そう尋ねる矢尾の顔は、何かを決意したようだった。
上半身を起こし、お盆に置かれていたコップから水を飲む。
カラカラだった喉が潤う。
そうして、真正面から矢尾を見つめて、問いに答えた。
「はい、お店に来られるお客様は神様だって。諏訪の家にいる建さんは…神様だって。それで神様に殺されたんだ、って」
「…」
「私、ずっと怨んでたんです、神様を。怨んでました。けど、神様を殺そうとして、殺されて…って、どうして生きてるんでしょうね」
矢尾の顔が、僅かに歪んだ。
それを見て、榮はどことなく、その理由を察する事が出来た。
―――何か、したんだろうな。けど、だから今、生きていられるんだ。
「ずっと目を逸らしていました。けど私、神様に殺されたかったんです。罪を犯したら罰を受けるのが、筋ですから」
「…その神様は、そう望んでいないかもしれないわ」
「私が、そう思ったんです。同じ、神様に殺されるのなら、贖罪になるかな、って」
神様を怨んで、怨んで怨んで怨んで。
けどそれは、本当は…
「殺されて、それで最期に気付いたんです。怨んでいたのは自分自身を、なんだって。子どもの頃、お祖母ちゃんが苦しんでいるのにどうにも出来ない自分が怨めしくて、あっちゃんに酷い事を言った自分を怨まないとって。それで…」
「人はいつか死ぬわ。それを怨むのは筋違いよ」
「けど矢尾さんは、ずっと生きているんですよね。何百年も」
「…はぁ、そうよ。もう何年かしらね。百何年か前には八百を超えたのは憶えてるわ」
つまり、九百年。
長くとも百年程度しか生きる事が出来ない人間には、とても考えられない。
それに、二十年程度しか生きていない榮には、考えも及ばない時間。
「それと…夢を、見たんです」
「夢、ね」
「はい。私が、諏訪と一緒に…『妖怪』っていうんですかね、退治をしていて、神様とも仲良くしていて、とても幸せな夢でした」
今のこの、確かに生きている現世とはまるで違う。
真逆だからこそ幸せな世界。
「幸せでした。そこに生きていた私は。順風満帆の中で」
何一つ不自由なく。何一つ大切な者を失っていない。
確かに幸せの中だった。思い出すまでは。
「けど、けど…! 矢尾さんが、矢尾さんだけが、いなかったんです」
「私一人いなくたって、何も変わらないわよ」
「私は、嫌でした。好きな人がいない世界で生きるなんて。ずっと、矢尾さんと生きていたいって。そう思ったんです」
「…言ったでしょ、人はいつか死ぬって」
「死んだら幽霊になってでも、矢尾さんの傍にいます。友だちに幽霊がいますから、どうやるか聞いてきます」
「バカね。そんな事考えてないで、今は休みなさい」
そう言って、矢尾はお盆を持って奥へ戻ろうとする。
そして初めて自分が一階の、矢尾の寝室に寝かされていた事に気が付いた。
つまりこの布団は…
「榮」
「ひゃいっ! な、なんでしょうかっ!」
「大学の方には口利きをしておいたから。調子が良くなったら顔出してきなさい」
「あ、はい…」
大学を休んで四日。
長期休暇を除いてこんなに長く欠席するなど初めての事だ。
そういえば、諏訪とは喧嘩をしてそのままだった。会って謝らなければ。
「後でお粥でも持ってくるから横になってなさい」
「はい…あ、それとどこか、暗い洞窟の中で誰かに会ったんです」
「暗い、洞窟?」
「どこかで見た事がある筈なんですけど、どうしても思い出せなくって。お婆さんを殴り飛ばして助けてくれたんです。紫色の刺繍が入った古い服を着ていて…」
「―――さあね。けど助けてくれたんだから、その女に感謝しておきなさい」
そう言って、矢尾は出て行ってしまった。
・名前:榮
性別:女
職業:大学生
好物:誰かと食べる食事
設定:
至って普通の大学生。
死にかけていたが左腕が繋がり、そして何人かの尽力により息を吹き返した。
全てを直視し、認めた。同時に、怨んでいたのは『神様』でなく、自分自身だということも。
彼女が『神様』を攻撃したのは、ただの八つ当たり。自殺と同義の罪滅ぼし。
矢尾と共にいたいが為に黄泉還り、その為ならば幽霊にすらなると言い放った。その精神性は、やはり常人では計り知れない。
彼女は気付いていないが、黒かった髪は白髪へと変貌した。
・名前:矢尾
性別:女
職業:万屋店主
好物:酒
設定:
路地を何本も進んだ先にある、古びた万屋の店主。
死にかけていた榮の身体に何かをし、彼女が黄泉還るきっかけをつくった。
四日四晩、寝ずに世話を行っていたらしい。
榮が出逢ったという彼女を助けた誰かを、女であると言った。心当たりがあるようだ。




