黄泉のお話 並行編
並行編の『並行』は、無限に連なる並行世界の可能性の『並行』です。
『着いたよサヤ…サヤ?』
そう、声を掛けられた。
どうにも車には弱い。窓の外でも見てボーっとしていないとすぐに酔ってしまう。
声の主の方を向くと、何やらキョトンとした顔が見えた。
折角の美人が台無しだ。
『あ…ごめん。ボーっとしてた』
『もう! しっかりしてよ! これから忙しくなるんだから』
そう怒る彼女の名前はシキミという。
出逢いは小学生の初めの頃。母の実家の敷地内で。
その森の中で木々を跳び回り遊んでいた時、地面に蹲るシキミを見つけて気を取られ、足を滑らせて落ちた時が最初のハズだ。
以後、中高と同じ学校に通い、同じ大学へ進学した。
その大学も『業界』の関係者が運営しており、現在の学部も関係者のみが在籍する事が出来る特殊な学部だ。
互いの関係は良きパートナー。
『白鞘』と呼ばれる事も最近多くなった。
そして二人が揃えば、どんな『魔』にも敗れる事はないとも。
そう『業界』で囁かれ、事実数時間前にも一つの町を『呪い』に沈めた『魔』を調伏してきた所だ。
だがそれが原因となり『異能対策部』で聴取を受けるハメになってしまった。
車を降りてビルへ歩もうとする。シキミは走って行ってしまった。さっさと終わらせてさっさと戻りたいのだろう。
サヤも同じように『異能対策部』へ歩もうとすると、運転席から降りてきた黒いスーツに身を包みサングラスをかけた偉丈夫に声を掛けられた。
『サヤ様』
『箕輪さん。どうかされましたか?』
シキミの随身である、公私ともに彼女の身の回りの世話をしている男性だ。名前は箕輪という。
歳のほどは二十歳を少し過ぎたくらい、らしい。それにしては随分とこう、風格がある。
『お嬢の事ですから、きっと御三家の方々にも、その…失礼な物言いをすると思います。どうか、手綱を握ってあげて下さい』
そう言い、深々と頭を下げられた。
言ってはなんだが、シキミは傍若無人である。
特に、偉そうに踏ん反り返る人間や大義なく暴れる妖怪に対しては容赦がない。
しかし心を許した者の前では大人しいものだ。
悪戯好きと言えばいいか。時々、困らせる物言いをするが、比べれば可愛いものだ。
『えーっと…はい、なんとか』
困ったように笑いつつ、サヤもペコリと頭を下げて歩を進める。
『異能対策部』のあるビルに入って受付でカードを受け取り、所定の手順を踏んでエレベータを動かす。
ふぅ、と一息吐くと、背後から声を掛けられた。
『おい』
『うひゃいっ!』
完全に油断していたものだから変な声を出してしまった。
振り向くと。藍色の甚平に身を包んだ男性が壁に背を預けていた。
『あ、建さん。どうされたんです? こんな所でお会いするなんて』
『まあな、俺だってこんな場所に来たかなかったが』
サヤは『建』に敬称を付けて気安く呼んでいるが、彼は間違いなく『神』である。
それも、シキミが宮司を務める大社で祀られている、混じり気一切なしの『神』だ。
まだ幼い頃、森の中でシキミと出逢った際、二人の仲は険悪であった。
今ではそれも改善され、彼の『神』としての『力』をシキミが宿す『神宿』という業に至るまでに仲が良い。
『神』が視えるだけでも稀なのに『神宿』に至るまで仲を深める事など例外も良い所だ。
しかしその例外も、現在では二つ存在する。一つはシキミ。もう一つは…
『頼みがある。聞いてくれるか?』
『シキミに言えない程の事、ですか』
『…ああ。とてもじゃねえが、お嬢には言えねえ。だが、お嬢くらいの『力』がねえと話にもならねえ』
だからこんな場所に足を運んだと言い、更に続ける。
『ミシャグ、知ってるか?』
その名前を、サヤは知っていた。
シキミの住む大社の傍『白它神社』で祀られる『神』の一柱だ。
『はい。何度かお茶を一緒に』
『そうか。アイツは、もう限界だ』
限界。
それが差す意味はただ一つ。
『神』としての生の限界を迎えたということ。
それはつまり…
『…そう、ですか』
『このままだと、一帯を道連れにしそうだ。数日中にどうにかしてやってくれ』
『…分かりました。明日には、向かいます』
『報酬はどうする。欲しいなら神器でも―――』
『要りません』
『悪いな、厄介事押し付けちまって』
『誰も、悪くありません。誰も』
『…そうか、頼んだ』
そう言い、健は消え去った。
『神』に対し、人間のセキュリティなど意味を成さないのだ。
『神』の生の限界は、存在理由の消失。
次代の『神』を産みだす事が出来ず、全てを諦め果てた結果。
それは大きな『呪い』となり周囲を冒す。それを喰いとめる必要がある。
残されたサヤは一人、涙を流した。
―――
ソヨソヨと夜風が吹き、僅かに月には雲がかかる。
ここは『白它神社』の結界の中。常人では入る事すら叶わない異界だ。
その中には庵が建っていた。
縁側には一人の少女が腰掛け、足をパタパタと揺さぶっている。
『ミシャグさん』
『おお、サヤか。久しぶりだの』
サヤが来た事に気づき、笑みを浮かべるミシャグ。
上から下までも白色で染め上げられ、しかしその双眼だけは血のように赤い。
その素性は、太古から現代までを知る祟り神の一柱だ。
『お久しぶりです。お隣、宜しいでしょうか』
『持て成しは出来んがな。少し待てば茶でも出すが』
『いえ。それはまた後日、お願いします』
『そうか。ならば出せんな』
それきり、二人の間に会話はない。
ただ黙って、月夜に身を委ねていた。
『…ダメ、なんですか』
声を発したのはサヤからだ。
『健から頼まれたか。お前も損な役回りを押し付けられたの』
『…いえ、押し付けられていません。私が望んだんです』
『そうか、済まんな』
ふぅ、と息を吐くミシャグ。
その顔には諦めの色が浮かんでいる
それを見て、サヤは痛々しく表情を歪ませる
『まだ、他に方法が有る筈です。他にも、なにか…!』
『いいや、もうない。次代を産みだせず、儂はもう、諦めてしまった。全てをな。諦め、存在意義を失った者の末路など、憐れなものだ』
堕ちた『神』が厄介な事は、よく知っていた。
その多くが、祀られていた場所を中心に広範囲を『呪い』で冒し、そして滅せされる。
かつて持っていた矜持も理想ももはやなく、ただ無差別に破壊を広げるその様は。
とてもではないが、サヤは見ていられなかった。
『儂はもうな、耐えられん。健のように『呪い』を掛けられるか愛する者がいるか、それとも何か別の要因があれば、また違ったのかもしれんがな』
『…』
『これ以上、誰か何かに迷惑を掛けたくない。そうだな、一つだけ頼みたい事がある』
『…はい』
そう言うミシャグの足元には、いつの間にか一尾の蛇が蜷局を巻いていた。
白い蛇。恐らく、ミシャグの眷属なのだろう。
『最後の、眷属なのだがな。それなりの『力』を持つが素質が足りんくての。候補の一つではあったが次代にはなれんかった。世話を、頼みたい』
『約束します。ほら…おいで』
サヤが手を伸ばすと、人懐っこくシュルシュルと腕に巻き付いてきた。
ヒヤリとした鱗が首筋を撫ぜ、擽ったい。
『早うせい。明日にもなれば、儂は堕ちる。やるのならば今しかないぞ』
『承知、しました』
そう言い、サヤは呼吸を整えた。
業を行使する為に。
『神』は人を超える『力』を持つ。位階が違う、といえば早いか。
人が人のまま『神』を滅するには、その位階から引き摺り下ろす。それかもう一つ。
自分自身を『神』の位階まで押し上げるか、である。
サヤの周囲に『力』が溢れた。
その波動はヒトの持つ波長ではない。紛れもなく『神』のそれ。
そしてそれは、ヒト一人が宿す『力』を遥かに上回っていた。
『神宿』
その身に『神』を宿し、その『力』を再現する業だ。
だが、それを行使できる者は限られる。
『神』を視る事ができる上で、親交を深める事。
そうすると自ずと、そのやり方が理解できるのだ。
シキミの『神宿』は単純に、打撃蹴撃持久瞬発を始めとした、膂力の上昇。
しかしそれは、人間が一生を賭して到達し得る上限の遥か上をいく。
『神宿』を行使中のシキミならば。
身の丈を大きく超える巨石すら持ち上げ殴り砕き、走行中の10tトラックに真正面からぶつけられても傷一つなく。
無酸素状態でも30分活動でき、100mならば一秒もかからず走りぬくだろう。
しかし、サヤの『神宿』は少し毛色が違う。
シキミのそれと違い膂力の上昇は一切ない。元来持つ『力』で強化をかけても『神宿』を行使したシキミには遠く及ばない。
しかし宿す『神』の位階は、シキミの宿す『神』の遥か上をいく。
単純に、その身に宿す『力』を大幅に増強するだけ。
サヤが元々持つ『力』の総量は『業界』に身を置く人間の平均を遥かに上回っている。
それだけでも驚異的だ。数十人が集まって初めて行使する事が出来る大規模な『結界』も単独で行使する事が出来るのだから。
サヤが『神宿』を行使すると、元来持つその『力』が数千倍にも膨れ上がる。
『業界』の人間がいの一番に習う初歩の初歩である『結界』を張る術ですらも、サヤが『神宿』を行使したまま張るのならばそれは、最上級の術に匹敵する強度を持つようになる。
早い話が、物量に物を言わせたゴリ押しである。しかし話が通じない妖怪にならば、それが最も効果的なのが事実。
『それでは…これでさよなら、です』
『世話をかけるな…お前は悪くない。悪いのは、この儂』
『…誰も、悪くありません。悪いのは―――』
僅かに微笑むミシャグ。
最期のその笑みは、きっと何百年かを経て作られた、自然な笑顔だった。
―――
『ねえサヤ…サヤ!』
『あ…ごめんシキミ。ちょっと、ボーっとしてた』
『もう! けどサヤ、この頃変だよ?』
場所は、大学の学食。
『業界』の仕事を行っているとはいえ、その本分は学生である。
ある程度は公欠が利くが、大学生活を疎かにする事などできないのだ。
隣に座るシキミはおにぎりをモクモクと食している。
口元にはお弁当がついている。全くもって気を抜きすぎである。
そしてサヤの前には空の器が。食べ終わったからといってボーっとしてしまっていたようだ。
シキミの事は言えないと、困ったように笑うサヤ。
『サヤが変なのはいつもの事でしょうに。何を今更言ってるんだか』
そう、うどんを啜りながら言うのは、対面に座る日焼けがトレードマークの女性。
同学部生ながら一学年上。いわゆる先輩だ。名前はユウ。
シキミの親戚らしく、お目付け役を兼ねてこの大学に入学したのだという。
とはいえ、それも本家の命令らしく本人は乗り気ではないらしい。
ユウ曰く『なんでそんな事しなきゃいけないのさ、面倒くさい。今時、本家とか分家とか流行らないし』とのこと。
だからか、表面上はお目付け役として傍にいつつも『大体さ、サヤが見てりゃいいじゃん。そうすりゃアイツも無茶しないだろうし』と言うように、殆ど干渉はない。
お昼はいつも三人一緒に食べているが、二人の間に会話は全くない。
『ユウは黙ってて。関係ないでしょ』
『黙っていますともお嬢様。けどね、友人を変だって面と向かって言う無礼者を注意するのは、人として当然の事だよ』
『むぅ…なら、ユウだって言ってるじゃない!』
『私? 私は友人じゃないし。単なるアンタの目付け役で、サヤはその友人。ほら、無関係』
『ならっ! 一緒にお昼食べる必要ないよ! 明日から来ないで!』
『しかしですよお嬢様。分家の娘の分際で、御当主様からの命令を、目付け役を断る事ができるとお思いですか?』
ユウが敬語を使うのは、基本的に嫌味な事を言う時だ。
そしてお嬢様と呼ぶのは、馬鹿にしている時。
大学に入学してから半年ほど。ユウがシキミを嫌っているのが、サヤにはハッキリと分かっていた。
『ユウ、大人げないよ』
『やっぱり? いや、からかいがいがあるもんだからさ。まあ、サヤが言うんならやめるさ』
『ううん。ユウと食べるご飯、楽しいよ。ユウのお話、面白いから』
『まったく、サヤは誑しだね。友人にゃなれないけど、協力ならできるよ。何か困ったら言ってよ。お金の相談以外なら乗れるからさ』
そう言ってユウは汁を呑み干し、お盆を持って学食を出て行ってしまった。
『ねえシキミ。どうしてユウに嫌われてるの?』
『知らないっ!』
ぷんぷんと怒りながら、おにぎりを頬張るシキミ。
膨らんだ頬はどこか小動物を思わせるようだった。
―――
『ねえサヤ、今度の休みだけど…』
『うん、特に予定はないよ。一緒に映画に行く?』
講義が終わり、サヤは箕輪さんが運転する車にシキミと共に乗っていた。
シキミは、車で一時間ほどの実家で暮らしている。毎日大変だとは思うが、どうにも両親が一人暮らしを許してくれないらしい。
あまり過保護なのも困ったものだ。
対してサヤは、大学から徒歩で二十分程の場所に、マンションの一室を借りて暮らしていた。
流石に、車で何時間もかかる山奥の生家から毎日通学するのは無理だ。
二人の従妹に一人の従弟と離れ離れになるのは少し寂しかったが、しかし。
長い四年間。幼い頃から一緒にいた幼馴染が傍にいてくれるのだから。
『うんっ! えっとね、来週封切の水晶竜と王の友諠って映画なんだけど―――』
その時。
車窓から窺う景色に、一軒のアパートが映った。
何の変哲もない、二階建ての古びたアパートが。
「―――! 止めて下さい箕輪さん!」
『サヤ様?』
『サヤ? どうかしたの?』
車が停まる。
ドアを開けて歩道へ出ると、そのアパートの全景が見て取れた。
半分以上にテープが貼られ封をされた集合ポスト。
所々に錆が目立つ階段は今にも崩れそうで。
―――そうだ、ここに、私。
住んでいた。独りで。大学に入ってから。
でも、いつ?
今はマンションに部屋を借りて住んでいるのに。
けど、ハッキリと憶えている。
喋る包丁を、意思を持つカメラを。
そして―――
「ごめん諏訪。私、用事を思い出したの。だから、ここでさよなら」
『え…う、うん。』
困惑したようなシキミ。
しかしそれを尻目にサヤはアパートへ近づく。エンジンの音が遠ざかって行った。
そしてポケットから携帯電話を取出し、電話帳から呼び出しをした。
数コールの後、電話がつながった。
『はいよー。珍しいじゃんサヤから掛けてくるなんて。どったの?』
「ねえ岡谷。この前の話、なんだけど」
『この前って? えっと、サヤと話すのはお昼だけだし。いつの事?』
「四日前。ほら、話してたよね。一回も経験した事がないのに経験したような気がする、って」
『あー…そういえば確かに。既視感だね。それでどうしたの? まさか体験でもした?』
「うん。いま、確かに。私、別の場所に住んでたんだ。古いアパートで、包丁とカメラと一緒に」
『ふぅん、そんなにハッキリ。けどそれ、既視感じゃない気がするね』
「違う?」
『どっちかというと並行世界かな。その記憶を思い出してるって感じ。まさかサヤ、異世界の人だったりして』
「その並行世界って、ずっと前にも言ってたよね。食券買う時に」
確かに憶えている。
彼女が語っていた事を。間違いなく。
『うわー…ホントにそれっぽい。言っとくけど、私は話してないよ。サヤと話すのはお昼を食べてる時だけ。いつもアイツと一緒にいるから』
「…そう、だっけ」
『そうだよサヤ。ま、いいけどもさ。並行世界、浪漫だよね。今の自分とは違う自分。どういう違いであれ、それは素晴らしい事だよ。ところでサヤ、憶えてる限りで並行世界の私、どうだった?』
「そう、だね」
この世界とは違う、並行世界。
そこでは…
「私が二人を苗字で呼んでて、神様を信じてなくて。諏訪は物静かで岡谷はいつも笑ってて。どこもまるで違かった」
『全く真逆だね。けど、だから面白いのかも。それで、サヤはどうしたいの?』
「…戻りたい。あの世界に」
『私は何もできない。けれど協力はできるから。教えるよ、戻る方法』
「ありがとう。ユウ」
『感謝は私じゃなくて、サヤの信じる神様に。全部ね』
―――
『並行世界に迷い込む例ってのは案外あるんだ。資料も複数。虚言じゃないってのは信じていいよ。神様っていうのはそういうのに聡いから』
『それで、その『迷い込む』ってのは二つに大別されるんだ。精神だけが移動するのと、身体ごと移動するの』
『サヤのは前者だね。精神、つまり記憶だけが並行世界の間を移動して、同一存在…っていうのかな、この世界の身体に引かれて入り込んだ』
『肝心要の戻り方、だけどね。サヤ、大事な場所ってある? それか大事な人』
『…どっちも? それならよかった。その場所に行って、その人を想う。そうすれば戻れるよ。元々、この世界にとって異物だからね。その、並行世界のサヤの精神は』
『どうして思い出したのかって? もともと統一されかけてたこっちのサヤとあっちのサヤの精神が、何かの拍子で元に戻ったんだと思うよ。大事な場所だったんだね、そのアパート』
『それじゃあね、サヤ。それともそう呼ばない方がいいかな? ま、どちらにしても、聞いてみると中々興味深かったよ』
『バイバイ、榮。幸運を祈ってるよ』
電話を切ると、目的の場所の目の前だった。
狭い路地を抜け、更に奥へ奥へと進んだ先。
何度も何度も何度も、同じように通った道は、間違いなく憶えていた。
しかし様相が違う。確かに古い家だった。
だが、これはそうではない。
窓は割れ扉は外れている。看板も掲げられておらず、廃墟も同然だった。
外れている扉を潜り、中へと入る。
記憶と相違ない。何もかもがそのままだ。
しかし、剥がれ尽くした漆喰、漏れた雨水で腐ったであろう廊下。
襖を開けると、腐り陥没した畳。朽ちた卓袱台。
二階へ続く階段は崩れ上がる事が出来ない。
蔵への通路には何枚もの板が張られ通る事も出来ない。
「―――どうして」
何の気配も、誰の気配もない。
まるで違う。
何年も、何十年も放置されたような。
そんな雰囲気が、そこにはあった。
これではまるで、元から誰も住んでいなかった。
そんなような―――
「サヤ」
「あっちゃん」
信仰する神様が、そこにはいた。
どうして、だとか。なんで、だとか。
そんな事は聞くだけ無駄だ。
「矢尾さんは、どこです」
大事な人の事を、聞く。
「…思い出したんだね」
悲痛に表情を歪ませた、神様。
しかし構わず、サヤは問いかけた。
「矢尾さんはどこです。矢尾さんはっ!」
「止める気はない、サヤがあちらに戻る事を。だけど少しで良い。話を聞いてほしい」
思わず掴みかかると、優しいにおいが漂った。
あの時と同じ。社で出逢った、あの時と。
「ここには矢尾はいない。元から」
「そんなの、分かって―――」
―――元から? 元からってどういう…
身体の記憶。
そこに矢尾はいない。
その名前は元より、姿形も何もない。
まるで存在そのものがいなかったように。
―――まさか、元からって、そんな…
「ここでは幸せだ。サヤもシキミも元来の力を発揮していて、誰も彼もが不幸ではない。ただ、矢尾が元々いないだけ」
いないだけ。
ただ一人の人間が、いない。
ただそれだけ。
それだけの事で順風満帆な、幸せな世界が存在するなんて。
「そんな、そんなの…そんな残酷な事」
「事実だよ、サヤ。大切な友人が一人がいなかったから、大切な親友が幸せになった。その結果が、今ここだ」
誰からも必要とされない。
いるだけで誰かが不幸になる。
そんな宿命を、矢尾は負っている。
「それでも戻るのかい。サヤの違う記憶も次第に消えていく。この世界に統合されるんだ」
「それでも―――」
自分がこちらにいる間、元の自分がどうなっているのか。
分からない。白い奔流に呑み込まれてからは憶えていない。
死んでいるのか、生きているのか。
けど、残された者は悲しむ。自身がそうだったから。
諏訪が、佐奈が、岡谷が。それに―――
「それでも私はっ! 矢尾さんの隣にいたいっ!」
「矢尾は不老不死だ。世界の終わりまで不滅のまま。それでも、かい?」
「隣にいます。死んだら幽霊になってでも」
そう言うと、不思議な感覚に襲われた。
自身の背後を見ているように引き離されていく。
どんどんと遠くに、どんどんと遠くへ。
それと比例するように、意識も薄れていく。
暖かい光。温かい熱。全身に血が満ちていく感覚のような。
『さようなら、サヤ。あっちゃんと呼ばれた事、嬉しかったよ』
それを最後に、意識が途絶えた。
温かい何かに、入り込んだような。
―――
『…ん、あれ。ここ』
『起きたかい、サヤ』
『え…あ! 八意様! え、えっと、どんな状況です?』
『…いた、膝枕をしているんだ。急に気を失ったみたいでね』
『す、すみません! すぐにどきまっふぅ」
『もう少し、こうしていたい。お願いだ』
『は、はい…八意様、泣いているんですか?』
『ああ、悲しい事があってね。けれど、もう、大丈夫だ』
『えっとあの…私に出来る事があれば、協力を』
『いいんだ。もう、大丈夫だから』
『は、はい…出過ぎた真似をしました』
『…ままならないものだね。人間は』
『え?』
『なんでもないよ。ただ幸せに、か』
・サヤ
退魔師兼大学生。
当代最強とかなんとか。しかし最近、ボーっとしている事が多いらしい。
シキミと二人で『白い鞘』と呼ばれている。四方八方に敵をつくるシキミの数少ない尊重する者として。
彼女単体では、畏敬を込めて『神域の退魔師』と呼ばれている。既にその領域に手を掛けている。
親交のある『神様』を滅する際に涙を流した。
また荒ぶる『魔』と対峙した際にも交渉から入る事を信条としている。祖母がそうして、多くの『魔』を救ってきたから。
しかしある日の帰り道、車窓から目に入った古いアパートを目にした瞬間から、彼女の意識は途切れてしまった。
・榮
普通の大学生。
古いアパート(かつて、自身が住んでいた場所)を見かけ、その精神(記憶)が分離してかつての世界を思い出した。
大学に入学したばかりの頃に聞いた話から岡谷に電話をかけ、並行世界からの脱出方法を教わった。
『万屋 矢尾』と思われる廃墟へと侵入し、その荒れ果てた様にショックを受けた。
そして『神様』の話を聞き、改めて『矢尾と一緒にいたい』と(同情からではない)決意を新たにし、元の世界へ戻って行った。
幸か不幸か、光の奔流に呑み込まれて以降の記憶がない様子。
・シキミ
退魔師兼大学生。
当代で二番目に強い人間。
サヤと二人で『白い鞘』と呼ばれている。樒の花の色から取られたとか。
基本的に、心を許した者以外の傍にいる事を嫌う。それを隠したりはしない為、取っ付きにくい。
また荒ぶる『魔』に対して慈悲はなく、どんな事情があろうと『人』に害を及ぼすならば有無を言わせずに滅する。典型的な退魔師。
古いアパートを見たサヤから、他人行儀に苗字を呼ばれ少し戸惑った。
・ユウ
大学生兼目付け役。
友人ではなく協力者。
昔からシキミとの折り合いが悪く、馬鹿にする時は『お嬢様』と呼び、嫌味な事を言う時は敬語を使う。本家の命令で目付け役にされた事を根に持っているらしい。
本人曰く『サヤとは友人ではなく協力者』らしい。また『力』は持たないが、多くの知識は持っている。
榮が並行世界を脱出する為の方法を教えた。
・八意
サヤが信仰する神様。
全知であるその権能は、並行世界へまで及んでいる。
『不幸』な榮を救う為、世界の狭間を漂っていた精神を保護した。
また『あっちゃん』と呼ばれた事を嬉しく思い、その別れを惜しんだ。
・並行世界
榮が入り込んだ違世界。
サヤは退魔師として大成している。シキミも同様に。
ユウは不満を持ちつつもなんだかんだと近くにおり、一見なんの変哲もない。
ただ、一人の人間が存在しない世界である。
この世界は、ある人物から見ると『幸せ』である。
また同時に、違う人物から見ると『残酷』である。
榮は『残酷』で『幸せ』な世界に残る事を望まず、元いた『不幸』な世界へと戻って行った。




