神殺のお話 矢尾編
矢尾編の『矢尾』は、永遠を生きる矢尾の心境の『矢尾』です。
―――ガラン、ダダダダダ
『万屋 矢尾』には似つかわしくない、慌ただしい足音が廊下に轟く。
足音の主は、店主である女性。
余程焦っているのだろう。いつもの余裕を湛えた表情ではなく、切羽詰まった厳しい表情。
階段を駆け上がり襖を破るように開ける。
店主の部屋ではない。一室を貸している青年の部屋だ。
「―――っ!」
最初に感じたのは、血の匂い。とびきりに濃い、人間の。
次に見たのは、血だまりに沈む身体。赤に染まりながらも、しかし髪だけは真白の無垢。
襖に堰き止められていたのか、夥しい量の血が流れ出た。
店主の足を赤く染めるも、気にも留めない。
『…よお、ババア』
「何があったの。言いなさい」
『あー…あれだ、神の野郎だ。そいつが』
「証拠は」
『攘魅が写真、撮ってるから現像、しとけ。俺は、寝る。神の『力』喰って、少し、ヤバい』
「そう」
それきり、包丁から発せられる『力』は途絶えてしまった。
真逆である神の『力』を浴び、元来持っていた『力』が希釈されたのだろう。それも存在維持が危うくなる程まで。
そんな事よりも、今は。
血だまりに沈んでいた身体を持ち上げる。赤い雫が垂れた。
畳に広がっていた血だまりが更に広がり続ける。抱えている青年の身体からは、止めどなく血が溢れ出てくる。
左腕は肩口の辺りから消し飛び、胸には背中まで貫通するように穴が空いている。
どう見ても死んでいる。ただの人間ならば間違いなく。
しかし…
その身体は、まだ温かかった。
抱き締めると、その表情が僅かに和らいだかのように見えた。
生きている。息をしておらず左腕は消し飛び心臓を貫かれているが、まだ。
「許さないわ」
再び畳へ横たえ、転がっていた包丁を掴む。
一片の躊躇なく右手首を深く斬り付け血を溢れさせた。
心臓を貫くように空いている穴へ、血を流し込む。
「独りにするなんて、絶対に」
血の杯。
永遠不滅である店主の運命を背負わせる契約。
店主の血を体内に取り入れる事で、それは行われる。
店主の血が流れ込む。
すると青年の胸の傷は跡形もなく塞がり、心臓は拍動を始めた。
息を吹き返し、そして顔には赤みが差した。
次は消し飛んだ左腕。
どこからともなく、店主は左腕を取り出した。
肩口辺りで綺麗に切断されている。そして今まさに斬られたばかりのような瑞々しさ。
百年ほど前、妖怪に成ったばかりの者の左腕だ。妖怪に成りかけた者にならば繋がる可能性が高い。
そして何の因果か、青年の遠い血縁でもある。そこに賭けたのだ。
断面を合わせ、店主の血を垂らして様子を見る。
しばらくすると、どうやら接合したようだ。きっと神経も問題なく。
これで、出来る事はすべてやった。
あとは、意識が戻るのを待つだけ。
それが何日何か月何年かかろうと、ずっと。
―――
二日目。
まだ青年の意識は戻らない。
息はあるし鼓動もある。けれど、意識だけが戻らない。
『結界』は誰も寄せ付けないように設定し、邪魔が入らないようにしておいた。
それなのに、だ。
「久し振り、だな」
「何の用かしら、八意」
一人の神が訪ねてきた。
そういえば、張り巡らせてある『結界』は、目の前に立つ神が元いた場所に敷いていた物が大元になっている。
いくら強固にしたところで大元は同じ。それならば無視して立ち入ることも出来るだろう。
「あの子が、怪我をしたと、聞いた」
「誰から聞いたのかしら、全く。だから何? アナタには関係ないわ」
「………頼む、一目だけ、会わせてほしい」
「お断りよ。アナタみたいなのが近づいたら、またおかしな事になりかねないの。ただでさえ『ヒト』でなくなりかけているのに」
「…! 『ヒト』では、なくなっ、た?」
「身体はもう完全に『妖』と同質よ。中身は分からないわ。意識が戻らないから、まだ戻ってきていないのかしらね」
「ど、どうして…どうしてだっ! 一緒にいながらっ!」
店主の胸ぐらを掴み声を張り上げ問い詰める八意。
しかし冷静に、店主は言った。
「一度見捨てたアナタが、それを言うのかしら?」
一度見捨てた。
それは余程に堪えたのだろう。八意の顔が大きく歪んだ。
「違う。見捨てた、わけじゃ、ない」
「違わないわね。アナタは間違いなく見捨てたわ。幼かったあの子を」
「…何が、分かる」
「分からないわね、見捨てた理由も何も。知っているのはアナタでしょうが」
「―――ああしなければ、あの子はきっと『ヒト』でなくなっていた」
「知らないわよそんなの。とにかく、会わせないわ。帰りなさい」
「………あの子を、頼んだ」
「言われなくとも」
―――
三日目。
周囲に張り巡らせている『結界』の表層が破壊された。
こんな荒っぽい事が出来る者など限られる。
未だ意識のない青年を放っておくのは癪だが、侵入者を放置しておく事もできない。
仕方なく、万屋を出て破壊された場所へ向かう。
張り巡らされた『結界』は人間の侵入を拒む。少し手を加えてあるが、大元の物と変わりはない。
知らぬ者は対抗する事すらできずに元の位置へ戻される。
知っている者でも、今は全てを拒むように設定している。
ならば、誰か。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
肩で息を吐き、青い顔でフラフラと壁に凭れている女性。
『結界』を破る為に弁力を尽くしたのだろう。息も絶え絶えだ。
過去に数度、万屋へ訪れた事があるのだから『結界』の事を承知していたのだろう。
「余計な事をするわね。諏訪の跡取り」
「さ、サヤを、返し、て」
「返して、とは異な事を言うわね。奪ったのはそちらでしょうに」
「なんの、こと…?」
「聞いていないのかしら、健から」
「健様が、何、を…」
そう言う諏訪の跡取りに向け、一枚の写真を投げ渡す。
色々あれこれ言うよりも、事実を突き付けた方が早いと判断した。
包丁の言っていたカメラ…攘魅と名付けられたそれから取り出したフィルムを現像した写真だ。
写っていたのは、一人の神の姿。
それを見た諏訪の跡取りは眼を見開いた。
「ど、どう、して…?」
「何も知らないようね。表層を破ったその『力』に免じて、今日の所は見逃してあげるわ。アナタに構っている暇もない事だし」
『結界』は直す必要もない。数時間もすれば回復する程度の軽微な破損だ。
これ以上留まる時間もない。
「ま、待って、サヤを…!」
尚も縋り付こうとしてくる諏訪の跡取り。
しかし店主は振り向きもせず、手だけを振り下ろす。
すると二人の間の空間に罅が入り、諏訪の跡取りを飲み込んだ。
『結界』内の空間を支配しているのは店主だ。
範囲内に限っては、任意で空間転移をも行使する事が出来る。
「しつこいわね。命があるだけ有難いと思いなさい」
最早一瞥もせず、店主は来た道を引き返した。
「戻ったわ」
『おかえりなさい』
その返事がない店内は、どうにも寂しいものだ。
何年も、何十年も何百年も。ずっと独りでいたくせに、たった半年程度を共に暮らしただけでこうにも違うものなのか。
まるでポッカリと隙間が空いたかのようだ。それ程までに、あの青年の事を愛していたのか。
「早く起きなさいよ、寂しいじゃない」
昏々と眠り続ける青年の横に座り、目を覚ますのを待ち続ける。
・店主
設定:
路地の先の先に店を構える、万屋の店主。女性。
彼女の血には永遠を生きる『力』が宿っている。その血を体内に取り込むとは、その運命を共有すると言う事。
血の杯、永遠の契約、とも。
万屋の周辺に張り巡らせる『結界』は、かつて愛した女性の家の周辺の物を参考にしたとか。
たった半年程度しか共に暮らしていない『青年』にこれ程まで心惹かれたのは、きっと同類だったから。
・八意
設定:
かつて、山奥の社で暮らしていた神様。
『店主』の家に住まう、かつて心を通わせた『青年』の怪我をどこからか聞きつけ、急ぎ駆けつけた。
しかし会う事は叶わず『青年』が『ヒト』ではなくなった事に驚愕し、失意のまま去って行った。
『青年』が幼い頃、社周辺の『結界』に迷い込んで来た事から、二人の交流は始まった。
まるで怨みがなく悪意もなく、ただ純粋に慕ってくる幼少の『青年』は彼/彼女にとって、余程に得難いものだったのだろう。
だからか多くの知恵を授けるまでに心を許し、短命であった『青年』の命を長引かせた。
しかし『青年』の祖母が危篤に陥った時、命を助けてほしいと懇願されるも、それを拒絶。
以後『青年』が社を訪れる事はなくなり、彼/彼女は社を去って行った。
・諏訪の跡取り
設定:
家の『家業』を継ぐ女性。
数日前に親友と喧嘩別れをし、以降会えていないからか、憔悴気味。
幼馴染の冗談を真に受け、実力行使で万屋まで取り返しに来た。
表層とはいえ『結界』を破壊するなど、その『力』はやはり本物。
しかし、その親友に害を為したのが自身が信仰する『神様』だった事を知った彼女は『店主』に喰らい付くも、空間の罅に呑み込まれた。
・青年
設定:
数日前、心臓を貫かれた。女性。
古びた店の二階で心臓を貫かれ、血の海に沈んでいた。
穴の空いた心臓からは血が止めどなく流れ続けていたが『店主』の血を流しこまれ傷が塞がった。
また、左腕は肩口から吹き飛んでいたが、数代前の名も知らぬ血縁者の左腕を接合され、補填された。
しかしその身体は最早『ヒト』でないらしい。
事実、心臓を貫かれながらしばらく生き永らえていた事からもそれを窺い知れる。
『店主』『八意』『諏訪の跡取り』など、複数の者から只ならぬ好意を向けられている。
全員に共通する点として『業界』に関連する、卓越した『力』を持つ、などが挙げられる。




